春の予感、あるいは再構築の季節
窓の外から聞こえる風の音が、鋭い北風から、土の匂いを孕んだ柔らかな春の気配へと変わり始めていました。一月、二月と過ぎ去る時間は、私たちが想像していたよりもずっと濃厚で、そして……「変化」に満ちたものでした。
朝、鏡の前に立つたび、私は自分の姿に少しだけ戸惑いを覚えます。
三ヶ月前まで、私の体は十歳くらいの子供にしか見えませんでした。常に空腹で、冷え切った体で、なけなしの魔力を絞り出すようにして生きていたあの頃。私の時間は、ずっと凍りついたまま止まっていたのだと思います。
(クーリア。肩のライン、だいぶ戻ってきたな。細胞の活性化率も十五歳相当の標準値で安定してる。よし、合格だ)
(はいっ。ミコトさんが毎日かけてくれる生活魔法のおかげですね。最近はあんなに凄かった食欲も、なんだか落ち着いてきました。あ、甘い物は別ですけど)
(そこは女子特有の別腹ってやつか……まあ、魔法の公使にはそれなりにカロリーを消費する。無駄にはならんだろう)
転入当初、あれだけ貪るように食べていた厚切りステーキやデカ盛りのパスタ。今はもう、食堂の標準的なランチ一皿で十分に満足できるようになっています。
ミコトさんは「急ピッチでの肉体修復が終わって、基礎代謝が定常運転に入った証拠だ」と分析していました。枯れ果てていた私の体がようやく満たされ、本来あるべき十五歳の少女の姿へと、正しく「再構築」が完了したということなのでしょう。
鏡の中にいるのは、もう「可哀想な子供」ではありません。
しなやかに伸びた背筋、健康的な赤みを帯びた頬、そして何より、十五歳の少女として正しく時を刻み始めた、瑞々しい肉体。制服の丈を何度も魔法で書き換えてくれたミコトさんの苦労が、そのまま私の成長の証でした。
けれど、その変化は見た目だけではありません。
私は右手の白銀の腕輪――『蒼の憧憬』をそっと撫でました。
放課後、誰もいない演習場で繰り返した、秘密の特訓。ミコトさんが「アズールセット」と呼ぶその武具たちの調整は、今や驚異的なレベルに達しています。
(……良し。プラネの隠蔽パッチは完璧だ。普段着モードでの魔力封じ込めは、もはや一点の漏れもない。エミリオの狸にさえ、今の俺たちは『少し魔力効率の良い、成長期の特待生』にしか見えないはずだぞ。……まあ、いざとなれば戦闘服モードで周囲の魔素を根こそぎ吸い取ってやるがな)
(この服、本当に頼もしいです。魔力的な変装までできるなんて、昔の私じゃ考えられませんでした。……でも、杖の方は、まだ少し暴れん坊ですよね?)
(攻撃特化の仕様だからな。分裂させての遠隔操作、仮称『エアレイド・モード』による多角的同時攻撃は、まだお前の演算の同期に少しだけラグがある。だが、そのじゃじゃ馬っぷりこそが迷宮での切り札になる。食事量が普通になったおかげで、ようやく『燃費の悪いバグった個体』扱いされずに済むし、全力で暴れさせてやれるな)
(むぅ、バグって言わないでください。……あ、でも、リナさんには『クレアちゃん、なんだかすっかりお姉さんになっちゃって寂しいなー』なんて、また別の意味でベタベタされちゃいましたけど……)
リナさんのスキンシップは相変わらずですが、彼女の驚きは本物でした。止まっていた時間が動き出し、本来あるべき姿へと急成長していく私。その様子を、あのエミリオ先生だけは、相変わらず「全てを知っている」ような、不気味で慈悲深い笑みを浮かべて見つめてくるのですが。
そんな私たちの変化を試すかのように、学園の掲示板に大きな羊皮紙が張り出されました。
『年度末 進級実技試験:魔導迷宮踏破演習』
(……来たな。年度末のデバッグ作業だ。これに最高成績で合格すれば、中等部をすっ飛ばして一気に高等部へ『飛び級』成功ってわけだ。中身のないカリキュラムに時間を割くのは非効率だからな)
(高等部……。リナさんたちと同じところに行けるのは嬉しいですけど、いきなりそんな、中身を飛ばしちゃって大丈夫でしょうか)
(案ずるな。お前の演算能力は既にそこらの高等部より上だ。あとはそれを、この迷宮というテストベンチで公的に証明するだけでいい。……さあ、十五歳のクレアハートとして、最高のパフォーマンスを見せてやろうぜ)
取り戻したこの体と、調整を重ねた『アズールセット』。
私たちの「再構築の季節」の成果を、世界に見せつける時が近づく足音がが聞こえるようです。
掲示板の前は、試験の内容を確認しようとする生徒たちでごった返していました。
人混みの中から私を呼ぶ声がしました。駆け寄ってきたのは、初等部A組の友人であるリリィちゃん。そして、彼女の隣でひどく複雑そうな顔をして突っ立っていたのは、以前私と一悶着を起こした、ちょっと元気過ぎる男の子、レオくんでした。
「クレアハートちゃん、見た? 私たち、同じパーティーだよ!」
「えっ、本当? ……あ、本当だ。リリィちゃん、よろしくお願いします。それと……レオくんも」
私が会釈をすると、レオくんは顔を真っ赤にしてそっぽを向きました。
「……チッ。なんでお前みたいな、出所不明の癖にいっちょまえに『飛び級』とか呼ばれてるお前と組まなきゃいけねーんだよ。ったく、足手まといになったら置いていくからな!」
(ハッ。相変わらず威勢だけはいい小僧だな。クーリア、放っておけ。仮に背後から誤射されても、こいつの攻撃判定なんて今のプラネにとってはそよ風以下だ)
(ミコトさん、意地悪言わないでください。……でも、レオくん、私より背が低くなっちゃいましたね)
以前は私と同じ高さの目線をしていたはずのレオくんですが、今の私は十五歳相応の身長です。彼を見下ろす形になってしまったことが、どうやら彼のプライドをさらに刺激しているようでした。
「あ、あのね。リナさんが引率なんだよ! もう、レオ! あんまり変なこと言わないで!」
リリィちゃんが慌てて割って入ります。掲示板の一番上には、確かに『引率:高等部三年 リナ・カスケード』の文字がありました。
「よっ! 若いねぇ。でも、喧嘩なら迷宮の中で魔物を相手にやりなよ!」
背後から明るい声が響き、私の肩にリナさんの腕が回されました。
「エミリオ先生から直々に指名されちゃってさ。『飛び級候補のクレアハートちゃんと、元気すぎるレオくん。この凸凹をリナ君の愛で一つにまとめてね』だってさ。先生も悪趣味だよね」
(愛、ね。笑わせるな。エミリオの狙いは、レオという『ノイズ』が混ざった状況で、俺達がどうシステムを最適化するかだ。だが、面白い。レオという不安定なユニットすらも俺たちのリソースとして利用してやる。リナには『頼もしい後輩の奇跡』として見せつつ、試験のスコアだけはカンストさせてやるよ)
「さあ、そうと決まれば作戦会議だ! 食堂で特大プリンでも食べながら、明日の陣形を決めるよ!」
リナさんの掛け声に、リリィちゃんは「おー!」と元気よく拳を上げ、レオくんは不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、私たちの後を付いてきました。
食堂での慌ただしい作戦会議を終え、私は自室に戻ると物憂げな気持ちになりました。
窓の外はすでに深い紺色に染まり、学園の時計塔が静かに夜を刻んでいます。
(ふぅ……。レオくん、明日大丈夫でしょうか)
(そんなもん気にするな。それよりクーリア、明日のために最終チェックを始めるぞ)
(そんなもんって……一応レオくんも人なんですけどね)
私は、腕輪の状態から杖の形へと戻った『蒼の憧憬』を手に取りました。
(ストラトスには、エアレイド・モードを制御仕切れない今のお前に合わせて新たに『先行入力システム』を組み込んだ。これは分裂させたユニットが独立して動く際、お前の直接的な命令ではなく、予め決められた動きをさせる事が出来る機能だ。『迷宮の環境魔素が勝手に反応した』ように見せ掛ける際、役に立つかもしれん)
ミコトさんの思考が、私の手元で複雑な術式を編み上げていきます。
かつての私は、魔法を使うだけで息が切れ、視界が白むほどでした。けれど今の私は、ミコトさんが施した「細胞活性化パッチ」のおかげで、この膨大な情報の海を泳いでも微塵も疲れません。
(……ミコトさん。私、最近思うんです)
(なんだ、藪から棒に)
(不便だった頃の私は、ただ魔法が使えるだけで奇跡だと思っていました。みんなは普通に使えている生活魔法でさえ、私にとっては重労働だったんです。でも、ミコトさんに色んなことを教わって、こうして自分で自分を『最適化』できるようになって……。魔法って、本当はもっと、自由なものなんですね)
ミコトさんは少しの間を置いてから、どこか満足げに応じました。
(……当たり前だ。不便だからこそ工夫し、停滞を打破するために知恵を絞る。それがエンジニアの……いや、魔導師の本来の姿だ。お前はもう、ただのユーザーじゃない。この世界の仕様を書き換える側なんだよ)
その言葉が、私の胸に温かく響きました。
書き換える側。
私は明日、自分の足で、自分の意志で、あの暗い迷宮の奥へと進んでいきます。
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クーリアが眠りにつき、意識の表層が穏やかな凪の状態になる。俺はその間に、肉体の深層にある魔力回路の最終同期を開始した。だが、チェックを進める俺の思考の端には、先ほど掲示板で突きつけられた「パーティー制」という名のバグが居座り続けている。
(……チッ、誤算だ。試験なんてのは個人の性能を測るものだと思い込んでいたが、まさかここで結合テストを放り込んでくるとはな)
想定外だ。一人であれば、プラネのステルス機能を全開にして、最速最短でゴールまで駆け抜けるだけで済んだ。だが、リリィとレオ、そして監視役のリナ。この三人が常に同一のパーティー内にいるとなれば、俺の「超効率的な挙動」はあまりにも目立ちすぎる。
(……作戦変更だ。基本、俺は裏方に徹する。表向きは全てレオとリリィ、そしてリナの功績として処理させる)
俺は思考のコンソールに、メンバーのプロファイルを投影した。
まずはレオ。以前俺達に突っかかってきた、あの生意気な小僧だ。
属性は前衛と言ったところか。出力だけは一丁前だが、制御コードがガバガバなのは恐らく相変わらずだろう。だが、今の俺にとってこれほど便利な存在もない。
(こいつをメインの『フロントエンド』に据える。派手で無駄の多い術式をレオに撃たせ、俺はその残滓魔力をプラネで再利用しながら、裏で敵の急所を突く。……観測者の目には『レオの魔法がたまたまクリティカルした』ようにしか見えないはずだ)
次にリリィ。初等部A組。
得意属性は「理論・補助」か。彼女の感度は厄介だ。俺が少しでも高効率なロジックを走らせれば、その「美しすぎる波形」に気づきかねない。彼女に対しては、プラネによる強力な難読化パッチを常時展開し、俺の魔力波を『どこにでもある凡庸な生活魔法』の周波数に偽装して見せる必要がある。
そして最大の問題、引率のリナ・カスケード。
あいつの直感は、どんな高度なファイアウォールよりも鋭い。理論ではなく、皮膚感覚で「システムの違和感」を検知してくる。彼女の前でストラトスを不用意に展開させるのは、管理者モードで不正アクセスをしているところを見られるようなものだ。
(ストラトスの『エアレイド・モード』は、どうしても詰んだ時の最終手段だ。基本は、魔物共の攻撃が届かない死角から、プラネの干渉能力を使って迷宮の環境そのものを操作し、敵を自滅させる。あくまで今回、俺は『魔力不足で必死についていく、非力な飛び級候補』を演じきるぞ)
皮肉なもんだ。不便ゆえの創意工夫を信条とする俺が、その知恵を「弱く見せるため」の偽装に費やすことになるとは。だが、目立ちすぎてエミリオの解剖台に載せられるのは御免だ。
(……安心しろ、クーリア。お前の平穏なランタイムを守るためだ。泥臭い裏工作は全部俺が引き受けてやる。お前はただ、友達と一緒に『頑張っているフリ』をしていればいい)
十五歳として再構築されたこの身の鼓動が、静かに夜の静寂を刻む。
かつて止まっていたはずのクーリアの時間は、今や俺という「異物」を内包しながら、世界のどの魔導師よりも冷徹で、そして強固な論理によって再起動していた。
「……さあ、明日は最高に不自由な、偽装だらけの迷宮演習だ」
俺は、鏡の奥に眠る「クレアハート」の瞳を見つめ、静かに意識の深度を下げた。




