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たのしいてすと

「おっはよー、クレアちゃん! 朝から気合入ってるねぇ」


 背中をバシッと叩かれ、クーリアの体が大きく揺れる。

 現れたのは、高等部の制服を粋に着こなしたリナだった。相変わらずの距離の近さだ。


「あ、リナさん! おはようございます!」

「うんうん、元気そうで何より。……ん? あれ、そのブローチ……」


 リナの視線が、クーリアの胸元で止まった。

 彼女は一瞬だけ、いつもの快活な笑みを消して、まじまじと赤い宝石を見つめた。


「それ、エミリオ先生から貰ったの? へぇ……そんな高価な『魔力安定器』を貸し出すなんて。よっぽど君のことが気に入ったんだね」


(高価な安定器だって? クーリア、やっぱりただのアクセサリーじゃなさそうだぞ)


「えっと、昨日の補習の時に、魔力制御を補助してくれるからって頂いたんです」

「ふーん……。まあ、あの先生が目をかけるってことは、君にそれだけの『価値』があるってことだよ。……でも、気をつけてね。エミリオ先生、気に入った人にはとことん過保護だけど、飽きたらポイってするタイプだからさ」


 リナはニヤリと笑って、再びクーリアの頭を乱暴に撫で回した。

 

(……ポイって。研究者っていうのはどいつもこいつも極端だな。おいクーリア、あまりあいつに懐きすぎるなよ。……って、おい、リナ! どこを触ってやがる!)


 リナが「どれどれ、安定してるかな?」と、確認と称してクーリアの腰や肩をベタベタと触り始めたのだ。


(ミ、ミコトさん! リナさんの手が、くすぐったいです……っ!)

(クソっ、この学校は女同士ならセクハラし放題なのか?! 理不尽だ……俺の理性が、また削れていく……!)


「あはは、クレアちゃんってば反応が新鮮! よーし、今日も頑張りなよ!」


 嵐のように去っていくリナを見送りながら、俺とクーリアは既に一日の体力の半分を使い果たしたような気分で、一年A組の教室へと向かう。

 教室のチャイムが鳴り、午前の授業――『魔術文化史』が始まった。

 だが、教壇に立つエミリオが教科書を開くのとほぼ同時に、クーリアの口から「ふにゃぁ……」という、緊張感の欠片もない力が抜けた音が漏れた。


(おい、クーリア? まさか寝るんじゃないだろうな)

(……むにゃ。……ごめんなさいミコトさん……朝のステーキが、お腹の中で幸せそうに暴れてて……急に、瞼が……鉄の扉みたいに……)


 そのまま、彼女の意識は深い微睡みの底へと沈んでいった。

 五感を共有している俺にも、胃袋に溜まったマッシュポテトのずっしりとした幸福感と、日当たりの良い窓際から差し込むポカポカとした陽気が伝わってくる。これでは抵抗できるはずもない。

(……仕方ないな。俺が代わりにしっかり聞いてやる。……にしても、15歳の少女が朝から厚切りステーキを完食して即座に寝落ちとは、大物すぎるぞ)


 俺はクーリアの意識の表層を借り、シャキッと背筋を伸ばした。

 見た目は居眠り寸前の少女。だが、その瞳に宿る意志は今、俺のものだ。


「……さて、今から三百年前。当時の魔導師たちは、個人の才覚に頼りすぎていた。しかし、ある一人の『天才』が現れたことで、魔法は再現可能な『理論』へと姿を変えたのさ」


 エミリオの声が、俺の耳に心地よく響く。

 遥か昔の時代では、魔法は「気合とセンス」で放つものだった。火を出したければ火のイメージを爆発させ、風を吹かせたければ嵐を想起する。そんな泥臭い時代を論理的にくみあげたのが、このアカデミーで語られる歴史だった。

(……へぇ。今の魔法体系って、そうやって整理されてきたのか。昔は魔法一発撃つだけで命懸けの博打だったんだな。今は「設定」と「数式」で安全に管理されてるわけか)


 教科書に記された過去の偉人たちの顔ぶれを見る。

 中には、当時「変わり者の魔法使い」と揶揄された人物もいたようだが、どれも歴史の濁流に飲み込まれ、今や神話か伝説のような扱いだ。


(文化か……。魔法を『道具』や『武器』としてだけじゃなく、こうして『学問』として積み上げてきたんだな。いや、面白いじゃないか)


 俺は夢中でノートを取り始めた。

 見た目は10歳程度の美少女が、恐ろしい速度で歴史の講義をメモしていく。その光景は周囲の子供たちから見れば異様だったろうが、俺の知的好奇心は止まらなかった。

 ふと、胸元の赤いブローチが、講師の言葉に呼応するようにドクンと拍動した。

(……? なんだ、今の……)

 一瞬、教科書の文字が歪んで見えた。

 歴史の授業。三百年、あるいはもっと古い時代の話。

 そのブローチの奥から、エミリオの冷たくも澄んだ魔力が、俺の「知識の吸収」を促すように微かに熱を帯びた気がした。


「……ん、ふぇっ……! ミコトさん、もうお昼ですか……?!」


 授業終了のベルと共に、クーリアが飛び起きた。

 彼女の口角にはうっすらと(魂なのに)涎の跡があり、俺は溜息をつきながら彼女の意識に答えを返す。


(お昼じゃない。一コマ目が終わっただけだ。……安心しろ、歴史のノートは完璧に取っておいた。お前はただ、俺の取ったメモを後で必死に暗記する作業が待ってるだけだぞ)

(ふえぇ……! ミコトさん、鬼教官みたいです……! でも、なんだか寝ていた間に、凄く難しい夢を見ていたような……)


 クーリアが首を傾げ、胸元のブローチを指で撫でる。

 俺は、そのブローチが俺の知覚を補助したのではないかという、妙な予感を抱きながら、次の授業の準備を始めるのだった。


 昼食もデカ盛りのパスタにミートパイを三つ平らげ、胃袋の満足感とともに迎えた午後の授業。

 だが、教室に入った瞬間に漂う、あの「試験前」独特のぴりついた空気に、クーリアの肩がびくっと跳ねた。


「はい、それじゃあ抜き打ちの『魔導演算理論』の小テストを始めるよ。クレアハートちゃんは転入二日目だけど、昨日の補習であれだけできたんだ。期待してるよ?」


 教壇で、エミリオがいつものおっとりとした、それでいて逃げ場のない笑みを浮かべていた。


(ミ、ミコトさん! テストだなんて聞いてませんよぉ! 演算理論って、あの黒板の呪文みたいなやつですよね?!)

(落ち着けクーリア。……ったく、あの狸、一晩でどこまで詰め込む気だ。だが安心しろ、演算は俺がやる。お前はただ、俺の思考を右手に流すイメージだけしてろ)

(ううぅ……お願いします、ミコトさん!)


 配られた答案用紙には、幾何学模様と魔導文字が組み合わさった複雑な計算式が並んでいる。

 周囲の子供たちは、必死に指を折りながら魔力計算用の小型盤を弾いている。だが、俺はこの三ヶ月で、そして昨日の「密着補習」で、この世界の魔力の『定義』のコツを掴みかけていた。


(……ふん。なるほどな。光の屈折率を固定しつつ、残留魔力を熱源に変換する際のロスを最小限にする式か。……論理的に書くなら、こことここをこう繋いで……)


 俺が主導権を握り、ペンを走らせる。

 カリカリカリ……と、淀みのない音が響く。

 クーリアの細い指先から紡ぎ出される回答は、初等部のレベルを遥かに超え、もはや最短効率を突き詰めた「芸術的な証明」へと変貌していた。


「……おや?」


 巡回していたエミリオが、俺たちの机の横で足を止めた。

 

(……っ。覗くなよ狸。お前の視線が一番集中力を削ぐんだ)

(ミコトさん、エミリオさんがじーっと見てます! 何か間違えましたか?!)

(いや……逆だ。正解すぎて怪しまれてるのかもしれん)


 エミリオは身を屈め、回答欄を埋めていくクーリアの手元をまじまじと見つめた。

 また、あの石鹸のような香りが鼻をくすぐる。


「クレアハートちゃん。この第七問の解き方、私が教えた基礎公式を飛び越えて、随分と『実践的』な短縮法を使っているね? まるで……戦場での即興演算のような、迷いのなさだ」


 エミリオの指先が、クーリアの持っているペンの頭を軽く叩いた。


「私の助手なら当然かもしれないけど。……ねえ、君は、一体どこでそんな魔法の扱いを学んだのかな?」


(……!!)


 心臓がドクリと跳ねた。

 その言葉は、まるで俺という魂の存在を、その殻の内側まで暴こうとする刃のようだった。

 だが、エミリオはすぐに表情を和らげると、「冗談だよ」と微笑んで離れていった。


(おい、クーリア。今のは完全に『鎌』をかけられたな。あの狸、お前の魔力の意志が単なる現象じゃなく、高度な知性を持っていることを疑います始めてるぞ)

(そ、そうなんですか?! 私、ただミコトさんに任せてただけなのに!)

(ああ、それは……悪い。俺が少しばかり、調子に乗りすぎた。……だがあの女、ますます目が離せなくなってきたな、悪い意味で)


 俺は冷や汗を拭いながら、残りの回答欄をわざと少しだけ『教科書通り』の書き方に修正しながら埋めていった。

 エミリオからの赤いブローチが、俺の焦りを嘲笑うかのように、胸元で静かに、温かく脈動していた。


 テストが終わり、解答用紙が回収されると、教室の緊張感が一気に弛緩した。

 だが、俺の意識には、去り際のエミリオの含みのある笑みがこびりついて離れなかった。


(ミコトさん。今の質問、なんだか怖かったです。私、やっぱり変なこと書いちゃいましたか?)

(いや、内容は完璧だったんだ。ただ、完璧すぎて『誰に教わったんだ』って話になっただけだ。……あの女、お前のポテンシャルを測るためなら、ああやって平気で揺さぶりをかけてくる。教育者っていうより、好奇心の塊みたいな学者だな)


「はい、それじゃあ今日の授業はここまで。みんな、お疲れ様。……あ、クレアハートちゃん。あとで研究室に来てね。この小テストの『添削』を一緒にするから」


 エミリオがおっとりと手を振りながら教室を出ていく。その背中を見送るクーリアの肩が、目に見えてがっくりと落ちた。


(また呼び出しですかぁ……。嬉しいけど、緊張しちゃってお腹が空いちゃいます……)


(お前、さっきあんなに食ったばかりだろうが。……まあ、あいつに疑念を抱かせたままにするのも得策じゃない。むしろ『助手として、教えたことを完璧に吸収してみせました』って顔で乗り込んでやろうぜ)


 放課後の夕焼けが廊下を赤く染める中、俺たちは再び、あの香油の匂いが漂う研究室へと足を運んだ。


「やあ、待っていたよ。……さあ、座って。これ、君の回答用紙だ」


 差し出された用紙には、エミリオの手によって細かな注釈が書き込まれていた。

 彼女は俺たちの向かい側に座ると、身を乗り出して、昨日と同じように顔を近づけてくる。


「君の計算、後半は教科書に忠実だったけれど……前半のあの鋭い短縮法。あれ、実は私が以前書いた論文の独自理論と、構造がよく似ているんだ。だから驚いちゃって。……もしかして、私の部屋でこっそり読んだのかな?」


(おい、クーリア、これはチャンスだ。あいつが書いた理論なら、それを『昨日見かけて読みました』ってことにすれば、お前の異常な演算速度にも説明がつく!)

(わ、わかりましたっ! )


「……えっと、エミリオ先生! 実は昨日、研究室にお邪魔した時に、机の上にあった紙が少し目に入って……それを思い出して書いてみたんです!」


 クーリアが顔を真っ赤にしながら精一杯の嘘を吐くと、エミリオは一瞬だけ目を見開き、それから「ふふっ」と楽しそうに肩を揺らした。


「……そうか。一度見ただけで私の未発表の理論を実戦に組み込めるなんて。……君は、私が思っていた以上に私の理想の相手になってくれそうだね」


 エミリオの手が、そっとクーリアの頬に触れた。その指先から、赤いブローチと共鳴するような、穏やかで心地よい魔力が流れ込んでくる。


(……ちっ。また距離を詰めやがって。だが、どうやら上手く誤魔化せたみたいだな)

(ミコトさん、エミリオさんの手、とっても温かいです……。なんだか、本当にお姉さんみたい……)


 クーリアの無邪気な信頼と、エミリオの底知れない探究心。その間に挟まれて、俺の理性は今日もギリギリのところで踏みとどまっていた。

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