魔法はお腹が空くんです! 多分!
放課後。夕闇が迫るアカデミーの廊下は、初等部の子供たちの元気な声が消え、しんと静まり返っていた。
俺はクーリアの視界の片隅で、これから向かう「研究室」という名の戦場に思いを馳せていた。
(あの、ミコトさん。エミリオさんの研究室、こっちで合ってますよね?)
(ああ。だが気をつけろ。あの狸、お前の魔力を『観察』したがってるだけじゃない。さっきの授業での言い草、お前の膨大な魔力そのものが『意志』を持っていると考えている節がある)
(私の魔力が、意志を……?)
(ああ。それが『星霜の蒼』の自律機能なのか、それともお前の魂そのものの特性なのかを見極めようとしてるんだ。……まあ、俺のことは気付いても居ないだろうがな。常識的に考えて、二人分の魂の入ってるなんて想像もつかないだろうし。だが、もしバレたら、俺ごと解剖されかねんな)
そんな物騒な相談をしながら辿り着いた研究室の扉は、重厚な木製で、微かに焦げたような香油の匂いが漂っていた。
扉を開けると、そこは図書館の地下に負けず劣らずの混沌とした空間だった。
空中を浮遊する青白い燐光、見たこともない形状のフラスコの中で踊る液体。そしてその中心に、エミリオはいた。
「お疲れ様、クレアハートちゃん。さあ、まずはその『手綱』の調整から始めようか」
エミリオは椅子を勧めると、おっとりとした動作で俺たちに歩み寄ってきた。
「君の魔力は、言わば大雨が降った後の大河の濁流だ。今はその服が無理やりせき止めているけれど、本来なら一秒ごとに君の寿命を削ってもおかしくない。……ちょっと、腕を出してくれるかな?」
言われるがままにクーリアが袖を捲り、細い腕を差し出す。
エミリオの指先が、クーリアの脈動に触れた。
(っ! コイツ、いきなり魔力の波長を合わせてきた?!)
(ひゃっ……! ミコトさん、なんだか、体の中に冷たい水が流れ込んできたみたいです……!)
「ふむ……。やっぱり面白いね。君の魔力の核に触れようとするとドレスの防御反応に阻まれる。途轍もない魔法抵抗力だね。これ以上深く探ろうとすると、ドレスの繊維が鋭く反応して、私の方が取り込まれてしまいそうだ」
エミリオは感心したように、クーリアの襟元のレースを指先でなぞった。
その距離、わずか数センチ。
(おい、近すぎるだろうが! クーリア、離れろ!)
(で、でも、エミリオさん、真面目なお顔で調べてくれてますから……!)
エミリオの長い睫毛が伏せられ、その整った顔立ちが夕焼けの逆光で黄金色に縁取られている。
昨日のお風呂でのリナもそうだが、この学校の連中は距離感がどこかバグってる。
「……よし、波長は掴んだ。まずはこのペンを使って、魔力で文字を書く練習だ。これは私の特製品でね、書き手の魔力をダイレクトに文字として固定する。君ほどの魔力なら、少しでも気を抜けばペンが弾け飛ぶだろうね。はい、握って」
差し出されたのは、美しいクリスタルでできた細身のペンだった。
クーリアがおそるおそるそれを握ると、エミリオはあろうことか、クーリアの背後から包み込むようにして、その小さな手を自分の手で覆った。
「私がガイドするから。……ゆっくり、魔力を『定義』してごらん」
(おい、狸! コイツ、どさくさに紛れて何を……!)
俺の心の中の理性が、激しい警報を鳴らしていた。
背中から伝わる体温。鼻をくすぐる、石鹸と体臭の混ざり合った不思議な香り。
クーリアは顔を真っ赤にして硬直しているが、俺は俺で、自分の体でもあるこの体が、こんなにも無防備に同性に密着されている事実に、魂が沸騰しそうになっていた。
「……どうしたの? 集中しないと、爆発しちゃうよ?」
エミリオの吐息が耳元にかかる。
(……くっ、ああもう! クーリア、俺がやる! 俺が魔導演算を代行してやるから、お前はとにかくその……『密着感』を意識から追い出せ! 全集中だ!!)
俺とクーリアの、そしてエミリオによる「補習」という名の密室実験。
俺の咆哮に近い念話に、クーリアの思考が一瞬で真っ白になる。
だが、俺にはそれを見届けている余裕さえなかった。エミリオとかいうこの美しい狸が、後ろからクーリアを……つまり、今は俺でもある「器」を、抱え込むようにして魔力を流し込んできているのだ。
(クーリア、ここは俺がやる。お前は後ろの狸の体温でも感じてろ!)
(ふぇっ?! は、はい、ミコトさんお願いします……!)
意識のチャンネルを切り替える。
俺がクーリアの右手の感覚を掌握した瞬間、クリスタルのペンを通じて、エミリオから流れ込んでくる「冷たく、研ぎ澄まされた魔力」がダイレクトに俺の魂を撫でた。
「おや……?」
エミリオが耳元で小さく呟く。
そりゃあ驚くだろう。さっきまでおどおどと震えていたクーリアの手が、突然、理性的な迷いのない動きに変わったのだから。
「急に筆致が安定したね。……いいよ、そのまま。この波長を魔導文字に固定して」
エミリオの指先が、俺が動かす手をさらに強く握り込む。
俺は必死に理性を保とうとしたが、背中に感じるエミリオのその、薄い胸の感触や、首筋にかかる熱い吐息が、俺の集中力を執拗に削ぎ落としてくる。
(クソッ、こいつ本当に……いくら女同士だからって……さっきから香る匂いも、リナのような華やかさとは違う、もっとこう、落ち着いた……いや、考えるな俺! 今は魔導演算だ!)
俺はエミリオがガイドする複雑な魔導言語の『定義』に没頭した。
世界の法則を言葉で縛り、形にする。それは白金の冒険者として「感覚」でやっていたことを、改めて「言語」で再構成するような作業だった。
「……見事だ。この短時間で、これほどまでに正確な定義を行うなんて。クレアハートちゃん、君の中の『魔力の意志』は、よほど学習能力が高いらしい」
エミリオは満足げにそう言うと、ようやく拘束を解くように体を離した。
途端に、クーリアの体から緊張が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを俺が必死に支える。
(ミコトさん。すごいです、私、あんな難しい字、一度も書いたことないのにまるで手が覚えてるみたいに!)
(ふぅ……。当たり前だ。俺が後ろの狸にナメられないよう、必死に演算を回したんだからな)
エミリオはデスクに置かれた、一文字も崩れることなく書き上げられた魔導言語の紙を、愛おしそうに指でなぞった。
「面白い。君の魔力、あるいはそれを制御している『何か』は、基礎を理解した途端に化けるね。この調子なら、飛び級の話もそう遠くないかもしれない」
エミリオはそう言って、おっとりとした笑みを浮かべたまま、棚から小さな薬瓶を取り出した。
「さて、今日はここまで。ああ、このブローチをあげよう。君のドレスが君の魔力を喰いすぎるのを、少しだけ和らげてくれるはずだ」
俺はクーリアの手を動かし、その赤い宝石が嵌まったブローチを受け取った。
エミリオの目は、やはりどこまでも穏やかで、その奥に潜む本心など微塵も読み取らせない。
「ありがとうございました、エミリオ先生」
クーリアがぺこりと頭を下げて、俺たちは逃げるように研究室を後にした。
夕闇の廊下を寮へ向かって歩きながら、俺は冷や汗を拭う(精神的な意味で)。
(おい、クーリア。明日からもあの補習があるのか……?)
(……みたいですね。でもミコトさん、エミリオさんに手を握られてる時、なんだか凄く『頼もしい』感じがしましたよ!)
(頼もしい、だと? どこがだ。俺はただ、爆発させないように必死だったぞ)
自分の「魂の相方」が無邪気にそんな感想を漏らすことに、俺は得も言われぬ敗北感を抱きながら、明日からの授業への不安が募る。
(……くそ、あの狸め。教育という名目なら何をしてもいいと思ってやがる。女同士なら平気だなんて、どこの世界の常識だ)
寮への帰り道、俺は毒づきながらも、指先に残るあのクリスタルペンの感触と、背中に残った微かな熱を振り払えずにいた。
俺とクーリアは魂の根幹で繋がっている。彼女の心臓の鼓動が早まれば俺の意識も波打ち、彼女が感じたエミリオの指の細さ、肌の冷たさ、そしてあの不思議な香りは、ダイレクトに俺の魂を揺さぶってくる。
(ミコトさん……なんだか、私、まだ体がふわふわします。あんな風に魔法を教えてもらったの、初めてで……)
(お前が素直すぎるんだよ、クーリア。いいか、あいつは司書だぞ? 本の中に埋もれて生きてるような奴の言うことを、全部鵜呑みにするな。ったく、心臓がうるさいぞ。俺にまで緊張が伝わってくんだよ)
五感を共有し、感情が「何となく分かる」からこそ、クーリアの「頼もしかった」という無邪気な好意が、俺にとっては猛毒のような敗北感となって突き刺さる。俺だって、一応は白金の冒険者として彼女を守る「男」のつもりなのだから。
だが、そんな複雑な感触も、寮の食堂から漂ってきた香ばしい匂いの前では、一瞬で霧散した。
ぐぅぅ~~……
クーリアの腹が、今日一番の抗議の声を上げる。
(あ……ミコトさん、私、すっごくお腹が空きました……!)
(当たり前だ。あれだけ魔導演算を回して、さらにエミリオの魔力に当てられたんだ、そりゃエネルギーも切れる。こればかりは魔力がいくらあっても無意味だからな。……おい、行くぞ。今日は好きなだけ食え)
食堂に駆け込んだ俺たちは、並んでいるメニューを片端からトレイに載せていった。
大きなハンバーグが三つ載ったプレート、山盛りのサラダ、具だくさんのスープ、そして丼にこれでもかと盛られた白米。さらに食後の大きなパフェまで。
「いただきまーす!!」
(確かに、好きなだけ食えとは言ったが、これ……物理的に入らないだろ?)
(乙女の体の神秘ですねー)
(乙女の胃袋はブラックホールなのか?)
俺の疑問をよそに、クーリアがフォークとスプーンを両手に、猛烈な勢いで食べ始める。
この細い体のどこにそんなに入るのかと周囲の生徒が二度見するほどの食いっぷりだが、魔力循環が加速している今の彼女にとって、食事はガソリンと同じだ。
(ふぐっ、はふっ……おいひい……! ミコトさん、お肉が、お肉がとろけます……!)
(……ああ、そうだな。確かにいい味だ。お前が幸せそうに食うから、俺まで胃袋が満たされていく気分だよ)
五感を共有している恩恵で、肉汁の旨味やソースのコクが俺にも分かる。クーリアの幸せそうな感情が意識にも流れ込んでくる。さっきまでの苛立ちが、満腹感と共に少しずつ溶けていく。
だが、俺はクーリアの胸元で鈍く光る、エミリオにもらった赤い宝石のブローチを見つめた。
(……それにしても、エミリオの野郎。お前の魔力を「大河の濁流」と言い当てた上に、このドレスの特性まで見抜いて補正器具を寄越した。……底が知れねえな。あの女……)
俺は改めて心に刻む。エミリオは「優秀すぎる魔法学者で、世話焼きな女教師」だ。
そして俺たちは、正体がバレれば終わりの「訳ありの転入生」。
デカ盛りの飯を平らげ、幸せそうに頬を膨らませるクーリアを見ながら、俺は明日からの「地獄の個人授業」を耐え抜くための精神統一を始めるのだった。




