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シンプルが一番良いんだよ

【銀の星屑亭・厨房前】


「遅ぇぞ、いつまで……」


 怒鳴りかけ、言葉を飲み込んだ店主の手から、ジャガイモがコロンと床に落ちた。

 彼は口を半開きにしたまま、私の姿を……というより、私が着ている制服を食い入るように見つめている。


「あ、あの、店主さん? 変、でしょうか……?」


 あまりの沈黙に不安になって尋ねると、店主は慌てて視線を逸らし、太い腕で乱暴に顔を拭った。


「……あ、いや。お前、よくそれを選んだな。それ、カミさんが一番気に入ってたやつだ。つーか、なんでサイズが直したみたいにぴったりなんだよ。気色悪ィくらいだ」


(おーおー、店主の目が泳ぎまくってるぞ。おい店主、まさか亡くなった奥さんもこのサイズだったのか? かなりの年の差婚だったのか、それとも……)

(ミコトさん! 失礼ですよぉ!)


 店主はごまかすように、ガシガシと後頭部を掻いた。


「ま、まあいい。似合ってりゃ何でもいいんだ。ほら、まずは言った通りその棚だ。カミさんがいなくなってから、掃除のやり方がわからねえんだよ。適当に……ああ、適当でいいからな」


 差し出されたのは、いつから洗っていないのかわからない、ベタベタの雑巾だった。


(クーリア、その雑巾は菌の温床だ。まずはソイツを完全に綺麗にしよう、殺菌もだ。いいか、目立たないようにやるぞ。魔法の光を見せるな。店主が背中を向けてる隙に、物理的な『分解』を最小限の魔力で流し込め)

(はい、ミコトさん。こっそり、ですね!)


 店主がジャガイモを拾い上げ、再び包丁を握って背中を向けたのを合図に、私は雑巾を新品同様にまで汚れと菌を落とす。


(よし。今だ。洗浄クリーンを『霧散』のイメージで。汚れを焼き切るんじゃなく、表面の分子結合を緩めるだけでいい。あとはその雑巾でなぞれば、力を入れなくてもスルッと落ちるはずだ)


 ミコトさんの精密な指示通り、私は指先にほんのわずかな熱を感じる程度の魔力を込めた。魔法の光なんて一切出さない。ただ、指が触れた場所の油汚れが、まるで魔法にかかったみたいに(魔法なんだけど)浮き上がっていく。

 そこに店主から渡された雑巾を滑らせると……。


「……ん、あれ?

 軽く撫でただけで、真っ黒だった棚の木目が、新品のような輝きを取り戻した。


(クーリア、やりすぎだ。もっとゆっくり、頑張って擦ってるフリをしろ)

(はぅっ、ごめんなさい! えい、えい、うーん……!)


 私はあえて「うーん」と声を出しながら、一生懸命に棚を磨くフリをした。

 数分後、店主がチラリとこちらを見た時、そこには顔を赤くして(演技で)一生懸命に立ち働く少女と、すっかり綺麗になった棚があった。


「……ほう。案外、根性あるじゃねえか。その汚れ、俺がいくらこすっても落ちなかったんだがな。まあ、女の手だと細かいところまで届くのかねぇ」


 店主は自分の「不器用さ」のせいだと思い込んだらしく、納得したように鼻を鳴らした。


(ふぅ、危ない危ない。店主が鈍感で助かったな。この調子で、魔法を使ってると思わせずに店内の環境を『最適化』していくぞ。次はあの、油でベタついてる換気扇だ。あそこは熱力学的な……)

(ミコトさん、あんまり難しいことは言わないでくださいね?)


 店主が気づかないうちに、不器用な男手で荒れ果てていた店が、一歩ずつ本来の清潔さを取り戻していく。

 私の「普通の女の子」としての初仕事は、ミコトさんとの密かな『共同作業』で、順調に滑り出しました。


「さて、嬢ちゃん。まずはキャベツの千切りだ。この量を全部、なるべく細く切っておけ」


 店主さんがドサリとカウンターに置いたのは、カゴ山盛りの大きなキャベツでした。

 元漁師の店主さんが握る包丁は、お魚を捌くのには凄そうですけど、野菜を細く切るのは少し苦手みたいで、隣にあるキャベツは「ぶつ切り」に近い状態です。


「これを全部、この包丁でやるんですか?」

「文句を言うな。ウチのカミさんにそれでやってたんだよ」

 店主さんが他のお仕事のために背中を向けた瞬間、頭の中にミコトさんの呆れたような声が響きました。


(おいおい、こんな無骨な包丁でやってたら日が暮れるぞ。クーリア、風魔法の応用だ。イメージしろ。厚さ〇.五ミリの超薄型・高周波ブレードを百枚並べるんだ)

(ひゃ、百枚?! ミコトさん、普通の生活魔法の風は換気したり、洗濯物を早く乾かすくらいの風しか出せませんよ?! そんなの生活魔法じゃありませんよぉ!)

(細かいことは気にするな。キャベツの『繊維』を断ち切るくらいの鋭さで、一気に振り抜くイメージだ。店主さんに見えないように、まな板の上の空間だけに固定しろ)


 店主さんが背後でシュッシュッとお魚の鱗を弾く音に紛れて、私はミコトさんの指示通りに、キャベツの上で指を軽くスライドさせました。

 生活魔法の『送風』を、針のように細く、鋭くしたミコトさん特製の魔法です。


(よし、マスターの意識が逸れた……今だ!)


 シュララララ……という、耳を澄まさなければ聞こえないほどのかすかな高音が響きます。

 私がまな板の上のキャベツに翳した手を一度滑らせただけで、大きな玉が、まるで光に溶けるようにして「極細の糸」へと姿を変えていきました。


(……はわぁ! ミコトさん、これ……透き通ってます!)

(当然だ。細胞を潰さずに切断してるからな。これならドレッシングの絡みも、シャキシャキ感も段違いだぞ)


 数分後。

 店主さんが「おーい、まだ終わらねえの……か……?」と振り返った時、そこには山のような、それこそ宝石の糸を積み上げたような、美しすぎるキャベツの山がありました。


「はあぁぁ?! お前、何したんだ?! 包丁の音もしなかったぞ?!」

「あ、あの……これは、田舎の方で教わったコツ、なんです! 包丁を滑らせる角度を工夫すれば、誰でもできるって……」


 私はミコトさんに教わった通り、しれっと嘘をつきました。でも、自分の指先で起きたことが凄すぎて、少し声が震えてしまいます。

 店主さんは自分の大きな手を眺め、それから私の細い指を見て、完全に自信を失ったような顔をしていました。


「角度……? いや、そんなレベルかこれ……? 街の高級レストランでも、こんな細いのは見たことねえぞ……」


(ふっ、驚くのはまだ早いぞ。次はあそこのジャガイモだ。クーリア、土の魔法で皮だけを『剥離』させるイメージだ。包丁で剥くより一ミリも無駄が出ないぞ)

(はいっ! ミコトさん!)


 店主さんが驚愕で固まっている間に、私たちの「バグった仕込み」はどんどん進んでいきます。

 皮が一人でに剥けるジャガイモ、水魔法の振動だけで完璧に泥が落ちた根菜、そして火の魔法の精密な温度管理で一瞬にして取られた黄金色の出汁。


(せっかくだ、俺達も一品作っちまうか)

(ええっ! 私、料理あまり得意じゃないんですけど?!)

(問題ない。レシピは単純だ。少し食料庫を覗いてみよう)


「マスター、今日は何を作るんだ?」

「ん? ああ、いつものレギュラーメニューの他に今日は今朝仕入れた魚をムニエルかフィッシュフライにするつもりだ」

「フライか……ならちょうど良い、マスター、パン粉を少し分けてくれ。俺もサイドで一品作らせてもらうそ」


(何を作るんですか?)

(コロッケだ。さっき食料庫を覗いた時、蟹とハムを見つけてな。なのでサイドメニューは普通のポテトのコロッケとカニクリームコロッケ、ハムロールクリームコロッケの三種類作る)


 店主さんが気づかないうちに、不器用な男手で荒れていた厨房が、ミコトさんの知恵と私の魔法で、一秒ごとに「最高のレストラン」へと作り変えられていきました。


「なんだお前、本当に、ただの駆け出しなのか?」


 店主さんが呆然と呟く中、私は誇らしげに胸を張りました。中身のミコトさんは「バレないようにしろって言っただろ」と苦笑いしてましたけど。


「さあ、店主さん! 仕込みは終わりです。そろそろランチの時間ですよ! お客さんを待たせるのは、プロのお仕事じゃありませんっ!」


 ミコトさんの受け売りをそのまま口にすると、店主さんは「お、おう……」と気圧されながら、開店の看板を出しに表へ向かいました。

 開店と同時に、平和だった店内は一変しました。


 カランカラン! カランカラン!!


 ドアベルが鳴り止みません。お昼時になった瞬間、街道を通る行商人さんや、午前の依頼を終えた冒険者さんたちが、吸い込まれるように店内に雪崩れ込んできました。


「おいマスター、エールと日替わり! 急ぎだ!」

「こっちはシチュー三つ!  腹減って死にそうなんだよ!」


 厨房では店主さんが「わかってらぁ! 順番だ!」と怒鳴りながら、鬼の形相でフライパンを振るっています。でも、一人で調理と配膳をこなすには、もう限界みたいで……。


「おい、嬢ちゃん! 突っ立ってんじゃねえ! 三番テーブルに水だ、それから五番の注文を取ってこい!」

「は、はいっ! いま行きますっ!」


 私は慣れないパンプスで、一生懸命に板張りの床を駆け出しました。

 村では一度にこんなにたくさんの人と話したことなんてありません。頭の中が真っ白になりそうで、私の心が不安定に揺れ始めます。


(クーリア、パニくるな。落ち着いて呼吸しろ。いいか、まずは動線を最適化するぞ。左手に水差し、右手にトレイだ。歩くときは膝を使いすぎない、滑るように動け。重心は俺が微調整してやる)

(ミコトさん……! はい、やってみます!)


 頭の中に響くミコトさんの冷静な声が、私の焦りをピタッと押し留めてくれました。

 私の雰囲気が一変したからか、騒然としていた店内の空気が一瞬、静まり返りました。

 さっきまでわたわたしていた10歳の可憐な少女が、凛とした動作で水を配り始めたからです。


「お、おい……なんだ、あの可愛い子。マスター、孫でも呼び寄せたのか?」

「馬鹿言え、あのマスターにこんな可愛い孫がいるわけねえだろ。おいお嬢ちゃん、注文いいかい?」


(クーリア、五番テーブルの男は『日替わり二つ』だ。隣の商人は『エールとパン』。記憶領域メモリは俺が持つ。お前は笑顔で頷くだけでいい)

(わかりました!)


「 お待たせいたしました、ご注文を伺います!」


 私がミコトさんの指示通りに注文を捌いていくと、混沌としていた店内に、不思議な「秩序」が生まれ始めました。

 ミコトさんは脳内で、お客さんの注文状況、料理の上がり時間、さらには食べ終わるタイミングまで計算して、私に次々と指示を出してくれます。


(……次、三番の下げ膳。ついでに厨房の上がりを二つ持ってけ。無駄足を踏むな、一度の往復で三つ以上のタスクを消化しろ)

(ふぇぇ……忙しいけど、なんだかダンスを踊ってるみたいです……!)


 店主さんが厨房からチラリとこちらを見て、驚愕に目を見開いているのが分かりました。

 雇ったばかりの、しかも子供だと思っていた私が、まるで見えない指揮者に操られているかのように無駄のない動きで、怒涛の注文を捌ききっているんですから。


「お、おい。あいつ、何者だ……? 注文の取りこぼしもなけりゃ、配膳ミスも一つもねえぞ……」


 元漁師の店主さんの勘が「ただの子供じゃない」と告げているみたいでしたけど、今は忙しすぎて深く考える余裕はないみたいです。

 やがて、お客さんたちの視線は、私の働きぶりと、ミコトさんが作ってくれた「三種のコロッケ」の美味しさに釘付けになっていきました。


「マスター、いい看板娘を見つけたじゃねえか! このコロッケも最高だ、酒が進むぜ!」

「こら、子供の前で下品な飲み方すんな。嬢ちゃん、これ、チップだ。頑張りな」


 差し出された銅貨。私はそれを、ミコトさんのアドバイス通り、最高に丁寧なお辞儀で受け取りました。


(よし、そろそろランチタイム終了だな。クーリア、最後の一組が店を出るまで気を抜くなよ。あと、あの隅っこの酔っ払いのグラス、もうすぐ空くから追加を聞いてこい。売上をあと五パーセント上乗せだ)

(ミコトさん……本当にお仕事に関しては、鬼の先生みたいです……!)


 嵐のようなランチタイム。

 私はクタクタになりながらも、心からの充実感を感じていました。

 誰かの役に立っている。この素敵な制服を着て、ちゃんと働けている。

 それは、村にいた頃の私には、絶対に叶わない夢のような時間だったのです。

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