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記憶喪失?

 少女が記憶を失っている、というのはさすがに予想だにしていない状況であった。


 一瞬冗談を言っているのかと思ったものの、その瞳に浮かんでいる光は間違いなく本気のそれだ。

 色々と確認してみた結果でも、少女が演技の達人だということでもなければ、その記憶に欠損があるのは事実なようである。


 ただ、厳密に言うならば、どうにも記憶喪失というのとは若干違うようではあった。

 カイルはそこら辺詳しいことを知っているわけではないのだが、少女の反応があまりにも普通すぎるのだ。

 エピソード記憶の喪失のみが起こったのだと仮定したとしても、いささか違和感を覚える反応であった。


 だが先に述べたように、少女が嘘を吐いている様子もない。

 ではどういうことかと言えば……カイルが思い出したの自分自身のことであった。


 それは、前世の記憶を思い出す前のカイルだ。

 知ってはいるのだが、そうだと自分では認識出来ない状態。

 カイルは少女を、そういう状態だと判断したのである。


「認識出来ない状態、ですか」

「ああ。忘れてるわけじゃなくて、思い出せないわけもなくて、そこにあると気付けない。だからここが何処なのか、ってことに疑問は持っても、自分がこんな状態に陥ってることに対しての混乱はないだろ? 自分の名前が思い出せないってのに、戸惑ってる様子もない」

「……言われてみれば、確かにその通りですね。自分でも普通ならばもっと慌てるべき状況だと思っているというのに、不思議なほどにそんな気分にはなりませんし」


 これがカイルでなければ、彼女が嘘を吐いているからだ、と判断したかもしれない。

 しかし幸いにも、カイルはそういった状況に覚えがあったために、そうは思わなかったのである。


「……これだけの情報からそんな風に判断出来るなんて、凄いんですね、カイルさん」

「……言っただろ。知ってたからだって。偶然だよ偶然。知識があったなら誰だって気付けたようなことだ」

『おや、照れているのですか、カイル様?』

「やかましい。というかだから何で様付けなんだっつの」


 ちなみに、カイルだけではあるが、既に自己紹介は済ませている。

 記憶の有無を確認する際、現状に関してある程度の説明も行ったのだが、その時ついでに行ったのだ。


 そしてその結果、何故だか『それ』からは様付けで呼ばれるようになった。

 ガラではないから止めるように言っているのだが――


『それはもちろん、心の底から敬い、慕っているからです。そういった方の名を呼ぶ際に様と付けるのは自然なことではないかと思うのですが?』

「かもな。問題は俺にそんな心当たりがないってことだがな」

『無意識の内に私を虜にしてしまうとは、罪作りな方ですね?』

「やかましい」


 この通り、まるで聞く様子がないのだ。

 まあ特に害があるわけでもないので、もう放っておこうかと思い始めてはいるが。


 ともあれ。


「さて……しかしまあ、記憶喪失だろうと何だろうと、結局何であんなことになってたのかってのは分からないまま、か」

「……すみません」

「いや、別に謝られるようなことじゃないだろ。というか、下手したらそれに関しても俺が謝る必要がありそうだしな」

「カイルさんが、ですか? ですが……」

「ああ、俺がやったことは、アレを壊したことだけだ。だが、それこそが原因だとしたらどうする? いや、おそらくはそうなんだろう。そうとしか考えられない」

「えっと……そう言うということは、何か心当たりでもあるんですか?」

「ああ。ただしそれも今思い返してみれば、って感じではあるんだが……」


 そう、あの時は流してしまった。

 だが思い返してみれば、それは違和感のあるものだったのだ。


 カイルはその時のことを思い出しながら、少女の着ているローブ、その右側のポケットのあたりを見つめた。


「俺がアレを壊そうとした時、お前はお勧めしないと言ったな? それをあの男は、誰も壊せなかったんだから無駄だって意味に捉えたようだが、それだと少しおかしい。無駄だと思ってるだけならば、声をかける必要すらないからな。ということは……」

「……それによって何が起こるのかを知っていた可能性が高い、ということですか?」

「そういうことだな。どう思う?」

「そうですね……少なくとも、それは間違いだ、とは思わないでしょうか」

「とのことだが?」


 視線を固定しながら、そう続ければ、沈黙の果てに溜息が返ってきた。

 本来精神感応系とは心の声を伝えるものであるため、溜息などは発生しないはずなのだが、随分と器用なものである。


 そんな風に感心していると、やがて『それ』は観念したように言葉を吐き出した。


『……正解です。ですが、よく分かりましたね?』

「半ば以上勘だがな。ただ、あの男の口ぶりとかから考えれば、どうにもお前らの間には何らかの関係がある……少なくともアイツはそう考えてたみたいだった。ということは、お前らは同じ場所で見つかったとか、そういった可能性が高い」

『ですから、私は事情を……少なくとも、何かを知っているはずだ、と?』

「あとお前は彼女の名前を知ってるみたいだったからな。なら何も知らないってのは有り得ないだろ」

「……え? わたしの名前、ですか?」

「ああ。悪いな、実は最初から分かってたんだが、この話をするために今まで黙ってた。単純な記憶喪失なら安心させるためにも教えておこうかと思ってたんだが……」

「いえ……確かに、特に不安はありませんでしたから、問題はありませんが……」

『……私が口走ってしまったのはあの一度きりだったと思うのですが、よく聞き逃しませんでしたね? それから追求がありませんでしたから、てっきり聞き逃したのだと思っていたのですが……』

「あの状況じゃさすがに聞き逃さないっつの」


 そもそも彼女達が知り合い以上だということも、最初から分かっていたことだ。

 何せこれまた『それ』自身が口にしたのである。


 友人だ、と。


 それに、少女の反応もまたそれが事実だということを裏付ける。

 唐突に声が頭に響いたというのに、その存在に驚いた様子はなかったからだ。

 どころか、カイルなどよりも余程自然に、当たり前のように反応を示していたのである。

 疑う理由こそがなかった。


 故に。


「君の名前は、ティナだ」


 それもまた事実となる。


「ティナ、ですか……。ティナ……そうですね、確かに妙にしっくりときます。どうやらわたしの名前はティナというようです」


 自分の名前が判明したというのに、彼女――ティナに大した反応はなかった。

 まるで、当たり前のことを聞かされた時のような反応だ。


 それでも敢えて言うならば、歯の奥に挟まった物が取れたような様子、とでも言ったところだろうか。

 劇的ではないが、僅かな安堵はある。

 その程度だ。


 だが彼女の状態を思えば、当然のことではあるのだろう。

 それにそれで十分でもある。

 互いの名前さえ分かれば、とりあえずコミュニケーションをするには問題がないのだ。


「で、あとはお前の名前が分かればとりあえずは完璧なんだが……まあいいか。とりあえず場所が場所だ。予想外のことがあって多少手間取ったが、最低限のことを終えたらなるべく早急に次の行動に移るべきだろう」


 理由は不明だが、何故か『それ』は名前を告げようとはしないのである。

 しかし今はそこを追及している暇はない。


 こっちに行けば魔王に気付かれないとのことだったが、カイルは現状単身魔王城に突撃をかけた形となっているのだ。

 それが事実だろうと嘘だろうと、あまりのんびりしていられないことに違いはない。


「最低限のこと、ですか?」

「ああ。つまりは、このままここを脱出していいのか、ってことだな」


 ティナ達が魔王側に組すると思っているわけではない。

 ただ、逆にだからこそ残ろうとする可能性はあると思っている。


 もっとも、そうだとしても記憶が不完全な状況でそれを判断する可能性が低いとも思ってはいるが――


「もし仮に、残ると言った場合は、どうするつもりなんですか?」

「ん? 俺も残るつもりだが?」


 あっけらかんと言い放った言葉に、ティナは目を見開いた。

 そんなに驚くようなことだろうか、と思ったが、考えてみればティナからすればそうかもしれない。


「あー、ティナには言ってなかったが、これは俺が勝手に首を突っ込んだ結果だからな。一応それなりに責任は持つつもりだ。まあ、出来る範囲でのことではあるし、やることにもよるけどな」

「……ここに残るというのは、出来る範囲になるのですか? 漠然とではありますが、魔王という存在がどれほど恐ろしい相手なのかということを、どうやらわたしは知っているようです。……それでも、ですか?」

「ま、割と無茶振りには慣れててな。さすがに魔王と一騎打ちしろとでも言われたら考えるが、大体のことならば何とかなるだろうし、実際意外に何とかなるもんだ」


 無茶振りの度に死んでいるため、何とかなっていないような気もするが、言葉の綾というものだ。

 大体龍の無茶振りに匹敵するようなことがそうそう転がっているはずもないだろう。

 幾ら魔王城だとしても、だ。


 そもそも、何か厄介事を背負っているだろうことは覚悟した上で首を突っ込んだのである。

 例えそれが魔王と関係あることだと言われたところで、今更だ。


 そう言って肩をすくめると、ティナの顔を見つめる。

 ティナもこちらを見つめ、何事かを言いたげに数度口を開閉したが、結局諦めたように一つ息を吐き出すと、俯く。

 自分の記憶と照会しようとしているのか、ジッと考え込んでいるようなその様子を眺めながら、カイルは答えが口にされるのをしばし待つのであった。












 結論から言ってしまうのであれば、ティナはここから出ることに同意した。

 何でも、何となく再びここに来なければならないとは思っているのだが、今はその時ではないとも思っている、とのことだ。


 それによってティナは魔王と何らかの関係があることがほぼ確定となったわけだが、やはり今更である。

 その時にカイルがまだティナ達と関わっているのかは分からないが……一先ず今はここを脱出する事が優先だ。


 正直に言えば、当然のように色々と気にはなる。

 しかし答えを引き出すには時間がかかりすぎてしまうだろうし、中には不可能なものもあるだろう。


 そして何よりも、ここは敵地だ。

 何処に目や耳があるのかは分からない。

 こちらも色々と知っているのだろう『それ』に必要以上のことを聞こうとしないのも同様である。


 というか、『それ』が情報をあまり口にしようとしないのも、そういったことが理由だろう。

 あるいは名を告げようとしないのも、それが何か重要な手掛かりになってしまうからなのかもしれない。

 カイルが未だ信頼出来るのか分からない、ということもあるのかもしれないが、少なくともあの時男に説明を任せ何も言わなかったのは、男に余計な情報を与えまいとしたためなはずだ。


 それならばそれで、カイルのみに話しかければよかったのではないかと思うものの、やらなかったということは出来なかったからなのかもしれない。

 そういうタイプもいるということは、聞いた事があった。


 ともあれ。


「ふむ……本当に大丈夫そうだな」

「ですから、言ったじゃありませんか」

「いや、それなりに寝ていたみたいだからな。筋力が弱まっているかもしれないと思うのは自然なことだろ?」


 そんなことを言っているのは、最初カイルはティナが歩けるかを心配し、抱えるなりして運ぶ必要があるかと思っていたからだ。


 だがティナは大丈夫だと言い張り、実際に歩いてみたら確かに普通に歩けた、というわけである。

 雰囲気や言葉の端々から判断するに、最低でも数年程度は寝たままだったのではないかと思っているのだが――


「それもあれの効能……でいいのか? まあそういうもんだったってことか?」

『……そうですね、基本的にはそういう認識で問題ありません』


 相変わらずこういったことを聞いた時の言葉は少ないが、正解だということが分かるのであれば問題はない。

 より正確には、ティナが無茶をしているのでなければ。

 何となく、そんなことをしそうな人物に思えたからだ。


「……わたし、無茶とかしそうに見えますか? そんなことはないと思うのですが……」

「だ、そうだが、正解は?」

『そうですね……割とするタイプでしょうか。今回はその心配はありませんが、実際カイル様の懸念される通り、無理して歩ける程度の衰弱であったならば、おそらくティナ様は無理をして歩こうとしたことでしょう』

「と、いうことだが?」

「……それは、わたしの言葉が信用出来ない、ということですか?」

「記憶が定かではない人間の言うことはちょっとな。逆に自分で信用出来ると思うのか?」

「……思いませんけど……むー」


 そんなじゃれあいのようなことを言い合いながら、カイル達は先へと進んでいく。

 本来ならば、警戒をしつつ、緊張を持ちながら、慎重に行くべきなのだろうが、カイルはそうするつもりはなかった。

 そんなことをしたところで、ティナの不安を助長させるだけだからである。


 記憶がないということに対する不安はないのかもしれない。

 ただし、思い出せないということ対する不安は、きっとあるはずだ。

 ないわけがない。


 カイルと似た状況とはいえ、カイルはそれを自覚することはなかったし、その記憶を必要とすることもなかった。

 だが彼女はそうではないのだ。

 ならばまったく不安を覚えないなどということは有り得ず……それでも外見上そう見えないということは、それを押さえ込んでいるということである。


 そしてそれをさせることにしたのは、カイルだ。

 その必要があったとはいえ、自覚させ不安を与えることとなってしまった原因がカイルならば、カイルにはその責任を負う義務がある。


 その義務を、周囲の警戒を行い、緊張を持ち、慎重に進み、少女とじゃれあうだけで済ませる事が出来るのならば、これほど楽なことはないだろう。

 何せどうせするつもりだったことなのだ。

 それによって本来負わねばならぬ義務の代わりと出来るのであれば、これほど幸いなことはない。


 そうしてカイルがそれを行うのであれば、ティナはそれを気にする必要はないのだ。

 なるべく不安を覚えないようにしてくれればそれでいいのである。


 不意に溜息の如き思念が伝わって来たような気がするが、きっと気のせいだろう。

 それに何よりも――


『ところで、楽しげに進まれることはよいことではありますが……カイル様』

「ああ、分かってるよ」

「……? ……何か、あるのですか?」

「ん? まあ、そうだな……」


 薄暗い廊下の先を見やる。


 ここからでは未だその先には何も見えない。

 両端にあるロウソクの炎によってすぐ先ならば見えるが、五メートルも先となれば何も見えなくなってしまうのである。


 だが、見えはしないが……先に述べたように、カイルは気配察知には割と自信があるのだ。

 だから、そこにいる存在のことにはとうの昔に気付いていた。


 そして故に、警戒も緊張も慎重も、最低限にしか持たなかったのだ。

 どうせそこまで行くまでには無用なものだと知っていたから。


 それ以外に気配を感じなかった、というのは正確ではない。

 そんなものがいる以上、他に余計なものなどいられるわけがないからだ。


「ま、罠だったってとこかね。あるいは、嘘は言ってはいなかった、ってことかもしれんが」

『そうですね、あの男ならば言いそうなことです』

「……それって」


 どうやらそのやり取りで、何となくティナも気付いたようだ。

 大丈夫なのか、とでも言いたげな視線に、苦笑を浮かべると肩をすくめる。


「言っただろ? 無茶振りには慣れてるってな。それにおそらくだが、これは多分魔王じゃないしな。魔王にしてはちょっと気配に品がなすぎる。魔王に本当に品があるのかは知らんけどな」

『いえ、私も一度だけではありますが、魔王の姿を目にしたことがあります。その気配を感じ取ったことも。これは間違いなく、魔王とは異なるかと』

「そうか、そりゃ安心だ。こんな気配を放つのが魔王じゃなくてな」


 それは純粋に破壊のみを求めているような、そんな禍々しい気配であった。

 しかも強力ではありそうだから、尚のこと性質が悪い。


 出来れば迂回して進みたいところだが、生憎とここまでの道は全て一本道だ。

 途中で幾つかの部屋はあったものの、全て無人で脇道となりそうなものもなし。


 かといって引き返せば、魔王に気付かれる、ときた。

 このままここを抜け出すには、この気配の元を何とかしなければならないのだ。


 この先にさらに何かが待っているということは、おそらくないだろう。

 勘ではあるが、あの男は嘘を吐く性質のものではないと思ったからだ。

 だからコレを倒す事が出来れば、本当に脱出出来るはずである。


 つまり問題は、それが可能か否かのみ。

 ならば――


「ま、言葉を幾ら口にしたところで、安心することは出来ないだろうからな。実際に見て判断してくれ。これでも俺結構強いんだぞ? 多分、だがな」


 最後断言することが出来なかったのは勘弁して欲しい。

 今まで比較対象が龍しかなかったので、分からないのだ。


 そういった意味では、これからの相手はちょうどいいとも言えるのかもしれない。

 龍と戦おうとするのであれば、魔王程度に臆すわけにはいかないのだ。


 ちらっと話を聞いたに過ぎないが、魔王と龍の戦力差は若干龍の方が勝っている程度だという。

 ただしそれも、魔王というよりは魔王の配下を含めた魔王軍と戦った場合とのことだったので、単体勝負ならばきっと龍の圧勝である。


 これから戦おうとしているのは、その魔王の配下だと思われる相手だ。

 まさか魔王よりも強いなどということはないだろうし、試金石にはちょうどいいだろう。

 自分の力がどのぐらいか測るには、ピッタリの相手だ。


 問題があるとすれば、勝てなかった場合だが……まあ、その時はその時で考えるしかない。

 なに、最悪でも――


「……カイルさん、無茶はしないでくださいね? たとえ無理でも、探せば他に方法があるかもしれないのですから」

「分かってるって。責任を取るつもりはあるが、俺にもやりたいことがある。というか、やりたいことに即しているからこそ、責任を取ろうとしてるとも言うしな。無茶をするつもりはないさ」


 というか、責任とか何とか言っているものの、結局それはカイルのやりたいことでしかないのだ。

 どちらかと言えば、カイルの望みを押し付けていると言った方が近いのかもしれない。


 責任という言葉は、ただの言い訳だ。

 それそのものが、カイルのやりたいことなのである。


 龍との再戦を果たし、今度こそ本当の勝利を掴みたい。

 その気持ちに嘘はない。

 だが何よりも。


 この世界で、今度こそ冒険をしてみたい。

 それこそが、今のカイルの一番の望みなのである。


 龍との再戦も、言ってしまえば冒険の一つだ。

 そして、魔王城の地下室で出会った少女と旅をする。

 それが冒険でなくて一体何だというのか。


 あの龍には色々と文句も言いたかったものの、こうなってしまえば感謝を述べる他あるまい。

 冒険のチャンスをくれてありがとう。

 なればこそ、再戦の約束も果たしてみせるし、こんなところで邪魔をされている場合でもない。


 そんな自身の、身勝手とすら言える思いを再認識し、カイルは一つ息を吐き出す。

 そうして、身勝手なままに、望みを叶えるために。

 この先で待つ敵の元へと、カイルは真っ直ぐに向かうのであった。

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