千年前の誓い
あなたは死ぬと言われた時に、普通の人はそれにどういう反応を示すのだろうか。
怒るのだろうか、嘆くのだろうか、あるいは悲しむのだろうか。
だがいずれにせよ、まずは驚くことだけは違いないはずだ。
そういう意味で言えば、ティナの示した反応もまた普通の人のそれと変わらぬものであった。
その言葉を前にして、驚きを覚えたのだ。
ただし普通の人と異なるところがあるとすれば、それは驚いた理由である。
自分が死ぬと言われた事に対して、何も感じなかったことにこそ、ティナは驚いたのだ。
確かに、予測は出来ていた。
言われるだろう言葉を先に理解していたし、確信を持っていたし、識ってもいた。
だがここまで何も感じないとは、さすがに思っていなかったのである。
動揺の一つもなければ、納得があったわけでもない。
まるで、首を斬られれば人は死ぬ、とでもいった、当たり前のことを言われたかの如く、ティナの心は凪いでいる。
そして同時に、その事実にこそティナは納得を覚える。
ああ、つまりは――
「……ええ、そうね。あなたはそのことを知っていて、覚悟していて、何よりも受け入れていた。あなたは何もかもを承知の上で、その役目を負っていた」
そういうことなのだろう。
本当にそのことに驚いてしまうぐらい、何の驚きもなかった。
忘れていたのでもなく、思い出したのでもなく、そういえば歩くという行為は足を動かし前に踏み出すということであったな、とでもいうような、当たり前のことを再認識したような感覚。
すっかりお馴染みとなったそれを覚え、記憶に気付きながら、ティナは先ほどの苛立ちの理由にも思い至っていた。
あれは確かに悪趣味ではあったが、あそこまで一気に苛立つようなことでもなかったはずだ。
どちらかと言えば、困惑や恐怖、怯えを感じていた方が自然ですらある。
そうではなかったのは、ティナはそれが事実だということを知っていたからだ。
自分は死ぬというのに……それをこそ目的としているというのに、彼らを死に追いやってしまうことに、苛立ったのである。
即ちあれは、この女性にではなく、ティナ自身に向けられた苛立ちだったのだ。
「さて……それでは、そろそろ本番といきましょうか」
「……本番、ですか?」
「ええ。今までのも試練ではあったけれど、どちらかと言えば前座だもの。確認と再認識。必要な情報の全てを自覚し、自発的な判断が可能になった今こそ、あなた――第一秘蹟使いへ、第二秘蹟使いたる私が問いかけるわ」
瞬間、空気が変わったと感じた。
今までのは前座だったという言葉に偽りがないことを示すが如く、女性の纏う雰囲気がガラリと変わる。
静けさはそのままに、向けられた眼光の鋭さと叩きつけられた威圧感に、思わず息を呑む。
気が付けば、頭から二度も被ったはずの血の痕跡もいつの間にか消えている。
無駄に残り、滴っていたというのに、何処にもその名残すら残ってはいなかった。
だがそれに気を取られたのは、僅かな間だけだ。
叩きつけられている威圧感に、自然と視線が引き寄せられる。
そして。
「全ての試練を果たした先で、あなたは命を失うでしょう。それは変えることの出来ない、確実に訪れる未来。そこに意味はない。意味を作るのは、あなたが命を落としたその先であるが故に。それでも――人類を救うために、その身の全て、命、魂に至るまでを捧げることを、ここに改めて誓えるかしら?」
その言葉を聞いた瞬間、ティナの脳裏を何かが過った。
あまりにも漠然としたものではあるが、それが自らの記憶なのだということだけは分かる。
いつもの感覚に似た、けれど認識しきれない記憶。
その記憶の中でも、今の言葉と似たようなものを耳にしたような気がした。
そうしてティナはそれに、間髪入れずに頷いたはずだ。
確かに全てを知って、何もかもを承知の上で頷いた。
でも。
果たして覚悟などは、していただろうか。
それはふと生じた疑問だ。
覚悟を否定するものではなく、覚悟など最初からする必要としなかったのではないかという、そんな思考が過った。
頭の中を、ノイズめいたものが走る。
白い部屋、白い廊下、白い服を着た男達、無機質な目。
歓声、落胆、罵声、諦観。
嫌いでは、なかったように思う。
でも多分、苦手ではあった。
楽しくは、なかっただろう。
でも少しだけ、楽しみはあった。
友達、翠色、約束、嘆き。
ああ、と不意に気付く。
やはり、覚悟などはなかった。
あるいは、決意もなかったのかもしれない。
ふと思い出したのは約束だけで。
それだけで十分だった。
そもそも、それ以前の話として、それは当然のことだ。
論ずるまでもない。
ティナ一人の命と人類全ての命。
どちらを選ぶのかなど、自明の理なのだから。
けれど。
「……反応がないわね。それは即ち、拒絶だと判断していい、ということかしら?」
そうではない、と言いたかった。
覚悟も決意もなく、それでも、あの時誓ったことは嘘ではなかった。
自分の身を代わりとして人類を救おうと、あの時は確かに、そう思ったのだ。
なのに、喉が張り付いてしまったかのように、声が出なかった。
頷こうとしたところで、身体が強張り動かない。
そのたびに頭を過るのは、先ほどから続いている曖昧で不確かな記憶だ。
いつものように馴染みを感じることもなく、何処か遠くにすら感じるもの。
それと。
その記憶と比べれば圧倒に短い、でも鮮烈で馴染みのある記憶。
二つの記憶が交互に、まるでティナの心の見抜いたかのように、頭の中へと浮かび上がり、動こうとするのを邪魔するのだ。
「……わたしが命を捧げる必要があるということは、理解しているつもりです。理由などについてはよく思い出せませんが、それだけははっきりと」
「そこが思い出せないのは封印のせいね。その部分が最も知られてはまずいところだもの。だからあなたの過去は曖昧にしか思い出せず、実感もかなり薄いはずよ。誓えないのは……迷っているのは、そのせいかしら?」
迷い……そう、確かにティナは迷っていた。
今でも人類を救いたいという思いは、変わらずにある。
自分如きの命で賄えるならばと、そう思う。
だが誓えないのは、その頃の記憶が曖昧だからでも、実感がないからでもない。
そう思うたびに、彼らの顔がちらつくからだ。
死を想うたびに、彼らと過ごしたここ一月の記憶の蘇ってくるからである。
――楽しかったのだ。
多分、これまでの人生の中で、最も。
出来れば……ずっとこんな日々が続けばいいなと、そんなことを思ってしまうほどに。
だが人類が滅亡するということは、このままでは彼らも死んでしまうということである。
あの彼が死んでしまう光景は想像できないけれど、彼がどうにか出来るのならば、ティナがこの時代にまで眠り続けることはなかったはずだ。
未だに過去に関しては薄ぼんやりとしていて思い出せないけれど、それでも『彼女』が信頼出来るということだけは覚えている。
だから、ティナが死ぬことは絶対なのだ。
かつてのように漠然で曖昧とした誰かではなく、彼らを助けるためにも、ティナは死ななければならない。
彼らが生きていることを願うのならば、ティナは生きていてはならないのだ。
でも……それでも――
「……分かっているんです。本当に、心の底から。わたしは、死ななければならない。それでも……生きていたいんです。あの人達と、一緒に。……死にたくない」
頬を、雫が伝った。
ぽたりぽたりと、地に落ちていき……でも、そんなものに何の意味もないことも、分かっている。
目の前の女性の雰囲気が、さらに鋭くなかったのを感じた。
それはきっと殺気と呼ぶべきものであり、その腕が持ち上げられる。
そして――
「……そう、あなたの選択は分かったわ。でもこれは、千年も昔もから決められていたこと。私達が決めたこと。今更変えるわけにはいかないこと。あなたがそれを翻そうと言うのならば――」
「――悪いが、そんな昔のことなんて、知ったことかっての」
言葉と同時、轟音が響いた。
それは上からのものであり、直後にティナの眼前へと一つの影が降りる。
滲んだ視界の中で、それでもティナはそれが誰なのかがすぐに分かった。
きっと直前の声がなくとも、それは変わらなかったに違いない。
「やりたけりゃ、そっちだけで勝手にやってろ」
見慣れたその背中を眺めながら、ティナの頬からもう一粒、雫が伝って落ちた。




