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カイルの試練

 以前にも述べたことではあるが、この世界でのカイルは孤児院の出である。

 厳密には、出る前に龍に攫われたわけであるが、両親がいないということに変わりはない。


 だがそれは、死別したというわけでもなかった。

 カイルが自意識を獲得した時、既に両親は存在していなかったからだ。

 その時点でカイルは、孤児院の一員となっていたのである。


 だからカイルは、両親の顔を知らない。

 しかしそれで困ったことはなかった。

 前世の記憶の影響を受け早熟していたというのもあるだろうが、それ以上に母代わりとなってくれた人がいたからだ。


 孤児院長であり、ルイーズ・ハーグリーヴズという名の女性である。

 腰まで伸びるほどの見事な黒髪と、夜の闇のような深い静けさを感じさせる瞳を持つ女性だ。

 そして、今カイルの目の前に立っている人物であった。


「…………カイ、ル?」


 時に穏やかな表情を見せ、時に怖い表情を見せ、大半の時を冷静そのものの表情を見せるその顔に、今は見た事がない表情が浮かんでいる。

 目を見開き口元を半開きにしているその顔は、心の底から驚愕を覚えていることを雄弁に語っていた。


 五年ぶりの再会。

 だがそれは、向こうにとっても、同じ時間だけ離れていたということでもある。


 いや、状況を考えれば、向こうの方が余程驚きは大きいだろうか。

 何せ向こうからすれば、カイルは死んだと思っていたところで不思議はないのだ。

 それが生きていたと知った時の衝撃はどれほどであるのか、カイルには想像も付かない。


 しかしそれでも、その衝撃の程は、きっとその顔を見れば分かるほどなのだろう。

 ふらふらと、カイルの足が一歩、二歩と近付いていき、同じだけ向こうからも近寄ってくる。


 驚きが引くことはなく、その顔がすぐそこ、手の届く距離にまで近付いてきた。

 そのままゆっくりと、その手が持ち上げられる。

 少しだけ嬉しそうに口元を緩めながら、カイルの顔を確かめるように伸ばされ――瞬間、その首が、刎ね飛んだ。


 音も何もなく、軽快さだけを感じるような動きで、身軽になった頭が空を舞う。

 カイルは何とはなしにその軌跡を視線で追い……思い切り溜息を吐き出した。


「……はぁ。ったく」


 それの首が宙を舞った理由は単純だ。

 カイルがその手に握った剣で、刎ね飛ばしたからである。


 では何故刎ね飛ばしたのかと言えば、それもまた単純。

 むしろ、そうしない理由こそがない。


 母の姿をした偽者を相手に、それ以外のどんな手段を取れというのか。


「悪趣味にも程があんだろ、クソが」


 悪態をつくものの、それで気分が晴れるわけもない。

 酷く不愉快な気分であった。


「心のあり方を試すなんて、ろくなことにならないんだろうと想像は出来たが……本当に予想以上にクソだったな」


 と、そんな呟きを漏らしたからだろうか。

 不意に声が耳に届く。


 重力に従って地面へと墜落した頭の口が開き、言葉を発したのだ。


「……一つ、聞いてもいいかしら?」

「ものによるな」

「そう、では試しに聞いてみるのだけれど……どうして分かったのかしら?」

「どうして、って言われてもなぁ……」


 そこで言い澱んだのは、特に理由などはなかったからだ。

 いや、挙げようと思えば挙げることは可能である。


 例えば――


「母さんは全てを見通すような目を持っていたし、意図してそう見せていた節もある。それは多分、五年前に死んだかもしれない子供に会った程度で揺らぐもんじゃない。だからおそらく本当に会ったとしても、あの人は久しぶりなんて言わない。多分、特に驚いたような顔も、嬉しそうな顔も見せずに、あら、遅かったわね、なんて言うはずだ」


 ありありと思い浮かべることの出来る情景だ。

 そして実際に展開されるだろう光景であった。


 先の表情は、態度は、なるほど世間一般の母親像としては正しいのかもしれない。

 普通はそうなんだろうなと、だからカイルもそう思えたのだ。


 しかしカイルの母としては、ルイーズ・ハーグリーヴズとしては有り得ないものであった。

 それだけの話なのである。


 というか、そもそもの話――


「俺が母さんの姿を見間違うわけないだろ?」

「……それはまた、随分な台詞ね。女の子に聞かれたら、引かれてしまうわよ?」

「そうか? こんなん普通だろ。家族の姿を見間違えないなんて」


 別に母に限った話ではない。

 それが幼馴染であれ、妹弟であれ、カイルが見間違うことはないだろう。


 これがティナであったら、さすがに断言することは出来ない。

 おそらく確率としては半々といったところか。

 それでも間違わない自信はあるが。


 まあ、結局のところ――


「要するに、最初から手を間違えてたってことだ」

「……なるほど。では、次からは気をつけましょう」

「ああ、気をつけてやってくれ。偽者だって分かってても、母親を斬るなんて胸糞悪いしな」


 あまりにも胸糞悪いから、騙されているフリをしてまでさっさと終わらせることを選んだのだ。

 最初に驚いたのは、あまりに使い古された手すぎて、そんな手を使うのかと思ったからではあるが。


「そうね……でもあなたは、それでも迷いなく出来るのね」

「必要とあらば、やらざるを得ないからな。やりたくないからといって、泣き喚いてればどうにかなるほど、この世界は優しくないだろ?」

「ええ……さすがと言ったところかしら。分かりました、あなたに資格があることを認めましょう。……あの娘をよろしくね、カイル」


 その言葉を最後に、頭を失った身体も、地面に転がっていた頭も、最初からそうであったかのように消え失せる。


 いや、実際に初めから存在してはいなかったのだ。

 性質の悪い幻覚だった、ということである。


『さすがですね』


 そうして溜息を吐き出していると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。


「生憎と褒められたところで、あまり嬉しくは――」


 言葉を返しながら、振り返り、ピタリと止まった。

 正直その時に覚えた驚きは、つい今しがた覚えたものよりも大きかったかもしれない。


 てっきりそこには、いつも通りティナの姿もあると思っていたのだ。

 だがそうではなかった。

 そこにティナの姿はなく、その代わりとばかりにあったのは、ビー玉程度の大きさの翠色の球体だ。


 地面に転がっているそれは、自己紹介の際に一度だけ目にした、ナナの本体であった。


「どうした、裸身を晒して。ついにそんな趣味にでも目覚めたのか?」

『……? 何を言っているのですか、カイル様?』

「俺の頭がおかしくなった体で話をするのをやめろ。以前目にした時にお前がそんなことを言ったんだろうが」


 ナナ曰く、付喪神のようなものだとのことである。

 何らかの魂がその球体に乗り移ったのか、その球体に魂が宿ったのかは本人にも不明らしいが、ともかくそれがナナの本体であることに変わりはない。


 何せ世界は広いのだ。

 龍がいて、かつては神もいて、千年の時を物理的に渡ってきた少女もいれば、異世界から転生してきたようなやつもいる。

 ならば一人ぐらいそんな人物がいたところで、何の不思議もあるまい。


 翠色の球体が本体な、普段はティナのローブの右ポケットが定住地である、千年来のティナの友人。

 魔法を使うことも出来るらしい、カイルの友人。

 それがナナという少女であり、それだけのことである。


「ま、で、ともかく、ティナはどうした?」

『カイル様と同じですよ。おそらく今頃は試練を受けているかと』

「ふむ……まあ、道理か」


 一人ずつ受けさせることに意味はない。

 ならばそこに疑問はなく、あるとすれば何処に行ったのか、ということだ。


 カイルはこうして、何処にも移動していないわけであるし――


「考えられるのは、また転移したってところか? そうなると、何故俺はそうじゃないのかってことが気になるが……」

『カイル様とティナ様とでは、厳密には受けるべき試練が異なるからでしょう。ティナ様は別の場所に移動しなければならない理由があった、ということです』

「俺とティナとではって……じゃあお前は?」

『私はそもそも定員外です。私は最初から数に入っていませんから。ああそれと、ティナ様が移動したのは事実ですが、それは転移したからではありません』

「ふむ……? というと?」


 その場をざっと見渡してみるも、何処かに移動出来そうな場所はない。

 そもそもどうやらここは完全に突き当たりのようだ。

 ここまで一本道であったことを考えても、あとは来た道を戻る以外になさそうだが――


『先には進めず、かといってティナ様は来た道を戻ったわけでもありません。と言いますか、そもそも前後左右だけで考えているのが間違いなのです』

「……おい、それってもしかして」

『はい。おそらくは、今カイル様が思い浮かべた通りでしょう。ティナ様は、落ちたのです。突然現れた落とし穴によって、真っ逆さまに』


 その言葉に、反射的に地面を見つめる。

 だが当然のように、そこに穴などは開いていない。

 試しに踵で少し強めに踏みつけてみるも、地面はただ硬質な感触のみを伝えてくるのであった。

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