剣物語〜雪の花と吹雪に消えた雪女〜
国と国を隔てる大山脈は万年氷土の白夜世界。
降り積もる雪は旅人の足を止めて喰らい尽くす。
死の世界は生き物も殆ど暮らせず、未知の領域。
かつて雪女との友好を結んだ貿易商人連合が山の加護を受けていたという。
最短の道を示し、陽が如く眩い光で視界を照らし、雪崩を堰き止める姿現さぬ雪女。
民は崇めた。祠を建て、供物を捧げ祈った。
時代とともに伝承は薄れ、祈りを捧げる者は雪崩のたびに減っていき、やがて零となった。
男は好奇心と野心を抱き、援助者を見つけて山へ挑んだ。
眠る宝石、見知らぬ生物、地位と名誉を得るには山はうってつけだった。
大量の食糧に新たに開発された防寒具、そして屈強な男達。男は自信に溢れていた。
その冒険者の最後尾に天に祈る従者が一人。従者には地位と名誉、そして財産が必要だった。叶わぬ恋だと知りながら、抱く愛を捨てられず旅に帯同した。
従者は才能豊かな絵描きであったが天涯孤独で貧しかった。何一つ持っていなかった。
初日、彼等は明るい未来を夢見て山の麓で大いに騒いだ。
二日目、想像以上に険しい雪道に思ったように進行状況が芳しくないが、彼等の瞳には希望が満ちていた。暖をとる早くも酒が尽きた。
三日目、小さな雪崩が荷台を押す毛深い牛と選りすぐりの馬を数頭奪った。
四日目、ついに死者が出た。墓を作ろうにも遺体はあっという間に雪に埋もれて山の一部となった。
五日目、六日目、七日目と雪崩が襲いかかり人が、食料が、全ての家畜が飲み込まれていった。
こうして冒険団は方位磁針を頼りに行くか戻るかの大論争。
結論は僅かな成果でも無ければ戻れない。負け犬人生の継続を誰しもが恐れた。
命と無価値な人生との天秤は、揺れることなく呆気なく傾き、一行は足を進めた。
八日目、自然の気まぐれは残酷で、小さな雪崩が少なくなった食料と殆どの生命を奪った。
飢えに屈するか、人としての矜持を捨てるか死体の前で残ったたった二人。一団を授かった男と絵描き。
こうべを垂れ、覚悟を決めたのは男だった。
そこへ1人の少女が現れた。
見慣れぬ織物の服飾、既に忘れかけてた陽の光色の髪。その黄金の髪は編み込まれ猛吹雪にちらりとも靡かない。
雪景色に消えて見えなくなりそうな素肌に、懐かしい海色と新鮮な海藻色の瞳が浮き上がる。
吹雪の中、少女が告げた。
「帰りを待つ者が居るのなら、導となりましょう。」
そこに不意に大雪崩が押し寄せた。
純白の激流は操られるように彼等を避けた。
「雪女だ……。」
絵描きが呟いた。それから雪女へ山脈を越える手伝いを求めた。従者は愛する人の元へ生きて戻りたいと縋り付いた。
一方、男は怒りに震え、絵描きをなじった。皆、死んでいったのだ。今更引き返すことなど出来ない。無念を置き去りになど厚顔無恥。
男は少女へ向かって、杖代わりにしていた矢を向けて命じた。震える声が山脈に響いた。
「山の守護神ならば、かつてのように山脈を支配し人々を行き来させろ。人は飢え、苦しんでいる!」
雪女は首を横に振った。
「交流は闘争を産む。人間が権力を欲する貪欲を捨てぬ限り、もう二度と神などとは名乗らないわ。」
男へ少し、少し、少しと近寄りやがて矢尻が喉へ当たった。万年氷にも負けない屈強な石が粉々に砕け雪に消えていった。
竜巻に吹き飛ばされて、氷岩に頭をぶつけた男は意識を手放した。
「彼には病に伏せる愛すべき者がいるのです。どうか。」
絵描きは両手を眼前で握りしめて蹲った。
気を失った男を引きずり、雪女は山脈を下った。不思議な事に雪はやみ、太陽の明かりが三人を照らした。道は整備されたように歩きやすかった。
山脈の麓で男の妻が待っていた。最後の別れよりも、更に酷く痩せ細り今にも倒れそうな伴侶の体。
彼女はずっと祈りを捧げていた。
妻を抱きしめると男は静かに涙を零した。男には病に伏せる息子がいた。栄養の足りない娘がいた。山を越えなければならない理由があった。
雪女が二人の肩をそっと撫でた。
「貴方を愛する人こそ宝ではないのか。命を削り、何度祈りに来たか。さあ、これを持ち帰りなさい。」
風に舞い上がった粉雪に雪女は消え、立っていた場所に七色に輝く小さな花が落ちていた。
氷のように透き通り、日の光を乱反射して輝く宝石のようなその花。
それを絵描きは奪って街へと走った。男と妻は互いを抱き締め、宝を追ってはこなかった。
街は賑わい祝いの雰囲気。その中心に恋人だった筈の娘が頬を赤らめて、純白のドレスに身を包み微笑んでいた。
伴侶は街でも有名で人気のある画家。祝杯の広間に飾られた作品には酷く見覚えがあった。どれもこれも搾取された絵描きの作品。
従者は憎しみを込めて花を地面に叩きつけたが傷一つつかなかった。帰らぬ人と思われ居場所を失った従者は、男のもとへ戻り慟哭して真心込めて謝罪した。
差し出された花を受け取らこともせず、男も妻も絵描きを慰め、彼等は共に男の故郷へ帰った。
美術館に飾られている絵は物語のように並んでいた。
「そう、あの後幸せに暮らせたのね。」
蜂蜜色の髪をした少女が懐かしいと呟いた。
冷たく残酷な山脈、迫りくる雪崩、雪に飲まれる毛深い牛、天に祈る貧しい女、病床に伏せった少年と看病する少女、吹雪の中に立つ雪女の影、万年氷土に伸びる一筋の光、裏切りの結婚式、支え合う貧困家族、 大聖堂。
タイトルを一つ一つ口にしながら最後の作品に辿りつく。
「雪の花。」
「俺、芸術とか分からないけどどの絵も凄く素敵だと思う。特にこれ。ここ、なんて書いてあるんだ?」
目を丸めて食い入るように絵画を見ている少年は字が読めない。国宝と呼ばれる見事な絵をみるのも初めてだった。
「冒険家クライス・フッシャーがコロレッド山脈より持ち帰った雪の花。それは唯一無二の宝石であった。七色に輝く極彩色の宝石はフィルオット五世に献上され、王は山の加護の象徴としてリズ大聖堂の十字架に飾るように命じた。現在では輝きを失っているが今も現物を拝むことが出来る。クライスが持ち帰ったのはパルオの原石だというのが最も有力な説である。クライスは褒美の財を断り、画家を城へと切望した。埋もれていた天才パブロ、本作品の作者である。」
「全然分からない。」
首を傾けた少年に、異色の瞳をした少女が柔らかく微笑んだ。
わざとらしく耳を出して少女はくるりと回転した。耳の下で七色の輝きが揺れて乱反射。少年はあっと声を響かした。
「それってもしかして。」
「我ながら上手に出来たから、たまたま立ち寄って見つけたときに惜しくなって返してもらったの。」
真実の愛は雪女の氷の心臓を溶かす。
停止して微笑んだ美しい少女は、絵画のようだった。