次は誰の番?
人通りの多い道は苦手だけど、人通りの少ない道は夜は通りたくなかった。
夜でも気温は下がらず、蒸し暑い。今夜は熱帯夜になるかも、と天気予報で言っていた気がする。
午後10時に女子が一人で歩いている光景は、周りからどう見えるのかな。しかもスマートフォンで通話しながらなんて、絶対したくなかったんだけど。
「で、あなたの家はどこ? 泣いてたら何もわからないよ」
『……裏野、ハイツ、の、隣の、マンション』
だから、そのハイツってどこ。イライラが治まらない。
頭が鈍く痛む。体調は最悪だった。それなのに、一人で夜道を歩いているのは大学の友人が電話で助けを求めてきたからだ。
助けて。汐里じゃないと話せない。一人で来て。
最初は幼馴染の男子二人のどちらかを連れて行こうと思っていた。でも、一人で来てと言われてしまえばその案は却下だ。友人の家の近くまで一緒に来てもらおうと考えたけど、それが彼女にバレたら面倒くさくなるような気がした。
彼女とはこれっきりで縁を切ろう。ずっと『ごめんね』と言っているけど、悪いと思っているのが感じられない。友達を心配して来るのが当然だと思っているんだろう。こんな時間に女の子一人を呼び出すなんて非常識なのに。
『助けて』と言った声が震えていなかったら、ここまで来ていなかった。
最寄り駅から電話をかけて、彼女の案内を聞きながら歩いて10分経った。駅から10分くらいだって言っていたからこの辺かな。
「一軒家が続いた後にアパートとか見えてきたけど」
『近くに……公園が、ない?』
「あーあった。で、裏野ハイツって?」
『公園から、20階建ての、マンションが見えない?』
「見える。他に高い建物ないし」
『その、マンションの、15階の、1502、号室』
裏野ハイツ関係ないし。すすり泣く声を聞きながら、そのマンションに向かった。駅からの道が少し違っていたのか、公園から結構距離がある。ここまで来たら行くしかないか。
マンションの隣には、確かに裏野ハイツがあった。2階建てだけどね!
マンションの入り口に着いたことを伝えると、電話を切られた。何か嫌な感じ。
マンションはオートロックになっていて、部屋番号を押して呼び出した。
「来たよ」
『1502号室まで来て』
ロックが解除された音がした。
だんだん感じが悪くなっている気がする。こういう子だったんだ。大学では礼儀正しいお嬢様だったのに。本当は我儘なお嬢様だったんだ。しかも、さっき泣き声じゃなくなってたような。
何かおかしい。彼女の友達は私一人じゃない。何で私を呼び出したんだ。
エレベーターに中で考えていると、15階に着いた。とにかく彼女に会うしかない、か。
『1502』と表示のあるドアのインターホンを押した。
ドアの前で待機していたのか、すぐにドアが開いた。ドアガードが引っかかっていて、少ししか開けない。
「汐里?」
「うん。どうしたの」
「次はあなたの番」
ドアの隙間から腕を触られ、すぐに手を引っ込めてドアを閉められた。鍵のかかる音がした。
何なんだ。何がしたいんだ。心配してこんな時間にここまで来た友達に対する態度じゃないだろう。
頭の痛みが強くなってきた。体調が悪いのに、無理をして来るんじゃなかった。
ふと触られた腕を見ると、触れられた部分に黒い痣があった。
「……何これ」
ズキズキと痛む頭では思考が鈍くなる。でも考えないと。
電話での彼女は怯えていた。声が震えていた。これは演技じゃないと思う。
この部屋に近付くと、彼女は感じが悪い対応になっていた。
……それは、私がここに来ることを確信したから。
腕に黒い痣が現れた。彼女に触れられた部分だった。昔は空手の稽古で打撲傷があったけど、そんな傷とは明らかに違う。焦げたように黒い。
『次はあなたの番』。
ああ、そうか。私は何かを押し付けられたのか。黒い痣となって現れた、何かを。
腕が焼けるように痛んだ。火を当てているかのように熱い。焼けているかのように痛い。
思わずドアを力一杯殴った。ガンッと音が響く。痛い。殴った手ではなく、腕がジクジクと痛い。
スマホを取り出し、3番目に登録されている番号に電話をかけた。
『どうした?』
2コールで繋がった。メールではなく電話での連絡は、緊急の合図だった。こんなことになるなら、ついてきてもらえば良かった。
「助けて」
『今どこにいる?』
「メールで送る。30分以内でお願い」
『わかった』
電話を切り、腕の痣を撮ってメールで送った。画像からGPSで場所がわかるはずだ。
エレベーターで1階に降りた。30分。それまでは意識をしっかり保っておかないと。触られた腕がずっと焼けているかのように熱くて痛い。利き手じゃなくて良かった。
何かが浸食してくるのを感じる。じわじわと、侵していく。肘の下から肩に上がってきているような気がする。
これが顔に達したら。
オートロックを解除し、外に出た。吹き抜ける生温い風が気持ち悪い。
力が抜けて、地面に膝を着いた。
熱い。痛い。動けない。
痛みに耐えていると、上から声がかかった。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、心配そうに私を見る男性が立っていた。
こんな時に。本当に心配してくれているとしても、こんな時間に外にいる人は信用できない。
にっこり笑って、立ち上がった。隙を見せてはいけない。
「大丈夫です。躓いてしまっただけなので」
「救急セット取ってきましょうか? 隣のハイツに住んでいるんです」
「いえ、怪我してませんから」
早く去ってくれないかな。隣のハイツなんだから、帰ってくれたら良いのに。親切とお節介は別物だ。
腕が痛い。頭も痛い。
痛い。苦しい。
笑顔を作るのが辛い。
「でも、その腕」
男性は黒い痣を指差した。
痣が広がっている。痛みが強くなってきていると思っていたけど、痣まで広がっていたのか。
肘下だったのが、肘まで達していた。
「怪我じゃないですから」
下手に隠すのは止めた。昔からある痣。小さい頃からずっとある。
そう振る舞った。
「見たことがあるんです。そういう痣を」
「……まあ、目立ちますから」
「同じなんです。焼けるように熱くて痛いでしょう」
一歩後ろに下がった。
何かおかしい。何故この痣を知っているんだ。
焼けるように熱くて痛い痣を。
男性の腕には痣はないのに。
「取り除く方法は2つあるんですよ。表皮を切り取るか」
男は優しく微笑んだ。
「人に移すか」
もう一歩下がった。男の手が届かない位置になった。
そうか、私は移す方を選ばれたわけだ。
あの子に痣はあったっけ。服に隠れていたらわからないけど、大学で見た時は普通だった。この痛みを隠すなんてあの子には無理だ。
家に帰ってから何かあったのかもしれない。でも、ドアの隙間から見えた手には何もなかった。
ああ、頭痛さえ無ければ。もっと考えることができるのに。腕の痛みは我慢できるけど、頭の痛みは思考を奪っていく。
「よく我慢できますね。かなり痛いはずですよ。ずっと焼かれているんですから」
「何を言ってるんですか?」
「今は表皮だけで済んでいますが、これは浸食していきます。黒い痣は、発生した部位を覆うまで止まらない。関節まで、ですけど」
顔に触れられていたら、顔全体だったわけだ。私の場合は、肘下から手首まで。
「止まった後は、皮膚の内部に浸食します。24時間後、必ず起こりますよ」
だから、早く人に移せってこと? イライラが止まらない。
人に移したら楽になれるから? 誰に? アンタに?
優しい笑顔が楽しそうな笑みに変わって、手を差し出された。
人に移されたものだから、自分も同じようにして良いって? アンタは移されても良いって?
イライラが治まらない。
彼女も、男も。
この痛みから解放されるためなら。
「どうしますか?」
「……皮膚を剥ぎ取る」
「汐里!」
痣に爪を立てようとしたところで腕を掴まれた。
一郎。
そうだ。一郎に助けを求めていたんだった。
「何してんだ!」
「ああ、ごめん。大丈夫。もう大丈夫だから」
やっと冷静になれた。熱さと痛みは続いているけど、我慢できないほどじゃない。
表皮を切り取ることは決めていたけど、知り合いの皮膚科医に頼もうと思っていた。それなのに、男に唆されて判断を誤りそうになった。
「タクシーで来たから、早く帰ろう」
「うん」
マンションの前に止まっているタクシーに向かった。
タクシーが来た音に気付かなかったなんて、どれだけ冷静じゃなかったんだ。
タクシーに乗る前に、後ろを振り返った。
「あなたがそれを選んだら、呪いは友達に返りますよ」
「呪い、ね。自業自得じゃない」
「ただのイタズラ気分だったんでしょう」
多分そうだろう。本当に起こるとは思わないで、起こった重大さに気付いて、慌てて友達を呼んだってところだろう。仲の良い友達じゃなくて、どうでも良い私に連絡したんだ。私のことが嫌いだったのかもしれない。
タクシーに乗り、皮膚科医にメールを送って病院に向かった。
やっとこの痛みから逃れられる。
痛みに耐えていると、一郎がスポーツドリンクを渡してきた。
腕に当てると、冷たくて気持ち良い。
「汐里、腕の写真を送ってきたけど、何があったんだ?」
「黒い痣があったでしょ」
「いや、何もなかったけど」
ほら、と見せられた画像には、黒い痣のない腕が写っていた。
腕を見ると、確かに痣はある。一郎に見せると、首を傾げた。
この痣は、他の人には見えないんだ。
どうやって医者に説明しようかな。この範囲を切り取ってくださいって言って、やってくれるかな。
「それと」
一郎は続けて言った。
「誰と話していたんだ?」