06.一時帰国
「じゃ、俺帰るわ。」
魔方陣の部屋。
俺が最初にこちらへ来たときに、閉じ込められたと勘違いして一人で暴れたあの部屋である。
そこに、俺とアルヴィンはいた。
俺はぼんやりと光を放つ魔方陣の上に、アルヴィンはその傍らに。
予定通りの一時帰国のための、準備が整ったばかりだった。
準備といっても服を元の制服に着替えて、鞄を持っただけだが。
「はい。それでは、お預かりしたこの道具におっしゃった通りの図形がでたら、もう一度召喚しますね。・・・きちんと召喚に応じてくださいね?」
手に俺の腕時計を持って、アルヴィンはやや心配そうに言った。
次の召喚は俺の世界の時間で約一日後ということなので、時計を預けておいてそのシステムを簡単に説明し、二回目の10時の表示が出たらもう一度召喚するように頼んだのだ。
都合よくデジタルの腕時計だったので、アナログのように分かりにくいこともなく、間違って22時・・・夜の10時に召喚される、という恐ろしい事故だけはなんとか未然に防げそうだ。
「召喚に応じるって・・・応じたのか?過去の俺は?なんかイマイチ実感がないんだけど・・・。ま、来られなかったら来られなかったで、ここの事とその腕時計の事はすっぱり忘れることにするから。」
「それだけはダメですから!絶対に離しませんよ!?せっかく掴んだ異世界とのパイプラインを断ち切られでもしたら、私の失われた睡眠時間は一体誰が保証してくれるんですか!」
アルヴィンの悲痛な叫びと、優れない顔色が見た目に痛々しかったので、同じ寝てない族の俺としては少々からかってやることにした。
「馬鹿だな、そんなときのために睡眠バンクがあるんだろ!時間銀行くらいこっちにもあるだろうが?まさかお前、無駄な時間保険にも入ってないのか!?」
「・・・そんなものまであるんですか?あなたの世界ってすごいんですね・・・。時間だけはどんな魔法を使っても人のレベルで完全に意のままにはできないのがこの世界の常識なんですが・・・」
やっぱり真に受けるアルヴィンに力なく笑ってから、俺は冗談だよと言った。
―――昨日、あれから。
俺たちは『ひよこ豆の陰謀』を実行に移した。
やっぱりどうしても気になったらしい文官の偉いさん方が数名、アルヴィンの部屋の前で中の様子を伺い始めたのを気配で悟ると、作戦通り俺はひたすら自分の世界の色々な知識をしゃべりまくったのだ。
といっても、どれを取ってもたいして知っているわけではない。
そこらへんがバレないように浅くあさーく、そしてできる限り広く、というなかなか辛い作業だった。
アルヴィンにも事前に、あまり深くつっこんで聞いてくれるなと釘をさしておいた。
大体生物の起こりから弱肉強食の食物連鎖、植物と動物の違いやらなにやら、俺の世界の生き物など、あとは理科でやった化学反応のアレコレやら天文学を少し、数学の基本、ゼロの発見やら果ては俺の国の歴史にいたるまでひたすらしゃべり、いい加減夜も更けたところで、やっと獲物が罠に飛び込んできたのだ。いや、むしろなだれ込んだと言うほうが正しいかもしれない。
どうやら来るときは一人ひとり別なのだが、考えることはみんな一緒ということで、ドアの前で鉢合わせしてだんだんと人数が増えた結果、ということらしかったが、結局おとないを入れてきたのは15人ほどだった。
あの広間にいた文官の数としては少ないなぁと思ったのもつかの間、それからも散発的に集まり続け、しまいにはアルヴィンの部屋ではちょっとむさくるしい状態になってしまった。
しかも質問攻めに遭い、結局空が白み始めるまで一睡もさせてもらえなかったのだ。
おかげで俺の顔色は最悪で、アルヴィンにも負けず劣らず真っ白である。
朝方になってようやく学者連中も己の眠気を思い出したようで、一旦部屋へ引き上げますと帰っていったというわけである。
もちろん、奴らの頭の中は俺がばら撒いたやや怪しめの“異界の知識”で一杯で、まさか当の俺が自分の世界へ帰ってしまうなんて思ってもいないだろう。
そこが狙い目ということで、小一時間ほど仮眠を取っただけの眠い体に鞭打って帰り支度をし、アームズメーカーに捕まって謎の球体を体から取り出され、(最初はテニスボールくらいあったあのガラス球だ。が、出してみるとなぜかピンポン玉くらいの大きさに縮んでいた。体内で何があったのか、非常に恐ろしい・・・)それから帰る動機としてちょっとした騒ぎも起こしたところである。
もちろんその騒ぎについては、今頃ベッドの中にいるだろう文官の方々は、目覚めるまで知る由もない。
「ほんじゃ、あとは頼んだから。俺はもう早く帰って寝るよ。・・・あ、でもさ、その時計、こっちに来た時からずっと動いてるわけで、俺が帰る時間とはズレがあるんじゃなかったっけ?」
いまさら痛い事実に思い当たり、俺は顔をしかめた。できれば今は小難しいことは考えたくない。
だが、時計が動いているのは事実で、夜中の3時になっている。
俺が帰るのは向こう時間の夕方6時ごろである。なのに時計がその日の3時というのはちょっとマズくなかろうか?
「あー・・・それですか。いまちょっと小難しい話はしたくないんですが、あなたとこの時計はつまり異界のものなんですよ。で、同じ異界のものであり、この道具はあなたの持ち物であるわけですから、あなたが時空の壁を越えてあちらへ戻られたときに、自動的にこれもあなたの世界に調律されるわけです。これはこちらよりもあちらとのつながりのほうがより強力ですからね。持ち主であるあなたがあちらへ戻れば、それに引きずられるかたちになって・・・まぁ大丈夫ですから。」
「分かった。何が分かったってとにかく“大丈夫”って事だけは分かったから。理解はできてないけど分かったことにしとくから。」
大きくうなずいて言うと、アルヴィンは苦笑した。
「それでは、そろそろお送りしましょうか。」
「・・・ああ。じゃ、な。」
一度笑みを見せてから、アルヴィンは不思議な言葉で呪文らしきものを唱え始めた。どうやら翻訳されないことを考えると、この世界でも一般的な言葉ではないらしい。
やがて足元の魔法陣が淡い緑の光を放ち始め、ゆっくりと、俺の意識は闇に呑まれた。
気がつくと、俺は見知った公園にいた。
間違いなくここは俺の世界で、毎日通っている公園だ。
しゃがんでいた姿勢から立ち上がり、周りを見渡すと犬の散歩をする人が数人と、まだ遊んでいる子供たちがいくらか視界に入る。
どうやらその誰もが、俺がここに突然現れたことに気づいていないようだった。いや、突然現れたのかどうかすら、自分自身には分からない。
俺は足元に放り出されていた鞄を拾い上げて埃を払うと、笑い出したいようなそうでもないような、なんとも妙な気分になった。
今この瞬間こそ俺が生きるべきときであり、俺にとっての“現実”なのだ。
なにやら早くも先ほどまでのことがたちの悪い夢のようである。
とにかく俺は一度深呼吸をし、家に向かって歩き始めた。
家に帰ると、俺よりも三つ年上の兄貴はもう大学から戻っていた。
親父は単身赴任中でいないので、母さんと兄貴の三人暮らしである。
「おかえり大地。頼んでた雑誌は?」
帰るなり、リビングにいた兄貴に問われ、俺は苦笑交じりに鞄から雑誌を出して放った。
兄貴はそれを両手でばしっとはさんで受け止めると、さんきゅーと言ってソファに腰掛け、さっそくページをめくり始める。
本当にいつもどおりの光景で、思わず苦笑がもれる。
「母さんは?まだパート?」
聞いてみると、兄貴は振り向きもせずにオウと答えた。
「じゃいいや。俺ちょっと疲れたから寝るね。帰ってきたら言っといて。晩飯はいらないから。」
ああという兄貴の返事を聞いて、俺は自分の部屋へと引っ込み、とにかく制服を脱ぐと圧倒的な眠気に負けて、そのままベッドへ倒れこんだ。
せっかく自分の世界へ帰ってこれたのに、なんとも情けない話ではあるが。
次に目が覚めると、もう夜の10時をまわっていた。
むこうからこっちへ帰ってきたのが6時過ぎで、それからすぐに家に帰ってきて睡眠へ直行したので、およそ4時間ほど寝ていたことになる。
それにしてもまだ十分な睡眠量とは言えず、体が疲労で重い。
しかし俺は、こちらでするべきことを思い出して嫌がる体を無理やりベッドからひっぺがして立ち上がった。
偉いぞ俺!!
そして眠気を振り払うためにぴしゃぴしゃと何度か頬を叩きながら、俺は部屋を出て階下のリビングへと降りた。
リビングでは兄貴と母さんがテレビを見ていて、母さんは俺が降りていくと「あら、起きたの?」といいながら俺のほうを振り返った。
「うん。ちょっと話があるんだ。」
どう切り出したものかまだ悩みながらも、なんとか話の糸口をさぐる。
母さんはなぁに?と言ってちょっと小首をかしげた。
まさか二週間ほど異世界行ってちょっと人助けしてくるなどと言えるわけもなく、俺はしばらく逡巡した。
そして、眠い頭で元々絶無に等しい知恵を搾り出し、ゆっくりと切り出す。
「・・・来年さ、受験だろ?で、色々考えたんだけど、俺明後日からちょっと旅行いってこようかと思って。その・・・二週間ほど。」
やっとの思いでそう言うと、母さんはやはり驚いたようだった。
「だってあなた・・・そんなこと全然言ってなかったじゃないの!旅行っていったって…」
ここで母さんを説得できなければ、半ば家出同然にむこうへ戻ることになる。
それだけは嫌だった。
心配させたくないし、それにもしも認めてもらえなかったことが原因で、“召喚に応じられなかったら”どうなるのか、それが怖かった。
アルヴィンには軽口を叩いて来たが、俺なりに覚悟は決めたつもりだ。
もしも二度とあちらへ戻れなかったら。
俺は多分一生それを引きずるだろう。
アルヴィンのように魔法が使えるわけでもない。向こうのことを知る手段は途絶する。
ほんの半日と言えど、もうすでに俺の心はあの場所に、あの場所で生きる人々の縛鎖にがっちりと囚われていた。
何日も寝ずに、必死で俺をあっちへ呼んだアルヴィン。俺がやたらと八つ当たりしても、嫌な顔ひとつしなかった。
異界の住人だと敬遠せずに、真っ向からなんの気負いもなく俺にぶつかってきたレグルス。
まだ10歳にもなっていないのに、国という重圧を背負い、昂然とそれを受け止め、責任を果たそうとしている王。まだ、彼の本当の名前すら聞いていない。
甚だ怪しい仕事を、当然のように請け負ってくれたアームズメーカー。俺が戻らなければ、彼女が今頃鍛えているであろう俺の“魔導器”は主を失うことにもなろう。そして、彼女の努力も無駄になる。
国の行く末を憂う文官・武官たち。
そして、まだ見ぬ彼らの大事な人々。国の民たち。
―――俺が戻らなかったとしても、状況は大して変わるとは思えない。そこまで自意識過剰ではないし、自分が異界から来た勇者なんてものになれるとは小指の先ほども思わない。
けれど。
けれど、あちらへ行けば、少なくとも彼らの行く末を見届けられる。
たとえ刹那的なことであったとしても、少なくとも“百年のサンダツ”とかいうものの結末は見届けられる。
それによって、俺とかかわった人々が幸せになれるのかどうかも。
そしてもしかしたら、彼らの未来が明るいほうへいくために、ほんの少しだけでも助力できるかもしれない。
今ここにいる俺にとって、彼らは夢みたいな存在だ。
けれども、夢ではなかったというはっきりとした確信も同時に強く残っている。
だから――
だから俺は――
「ごめん。でも、行かなきゃいけないんだ。全然助けにならなくても。約束したんだ。だから――だから俺は――あの場所へ、彼らのところへ戻らなきゃならないんだ。」
ほとんど自分の想いをそのまま口に出してしまうと、俺の中から揺らぎは完全に消え去った。
もう一度、あの場所へ。
その想いはいっそう強くなる。
「・・・なにがあったのか知らないけど、よほどのことなのね。確かに来年は旅行どころじゃないだろうけど・・・分かったわ。好きになさい。」
ため息とも笑みともつかぬかすかな吐息を吐き出して、母さんは静かな表情で言った。
事の動静を見守っていた兄貴が驚いた表情で母さんを見る。
「うん・・・ありがとう」
俺はかすかに笑みを浮かべ、素直にありがとうを言った。
母さんは、今度こそはっきりと笑みと見える表情を浮かべてから、不意に真面目な表情に戻った。
「でも連絡はきちんとなさいよ?それから、目的地も同行者もちゃんと教えてもらうわよ。」
それからおよそ二時間、俺の大切な睡眠時間がしどろもどろの嘘で消費されたのは言うまでもない事だ―――。