26.A´
棒を雨傘くらいの長さに伸ばして、それを触覚代わりに前方で左右に振りつつ、その棒に当たる障害物を避けて躊躇なく進む。
ガサガサいっていた音は大分近づいてきており、前方の白い水の粒子の中から今にも何か飛び出してきそうだ。
ドーパミンが惜しげもなく量産されて、アドレナリンが体中を駆け巡る。
何が来ているのか分からないが、やってやろうという気になっていた。
自分がこんな特攻できる種類の人間だなんて思いもしなかったが、これでガサガサやってたのが鹿とかそんなんだったらなんか笑えるな。
でも鹿だと正直ちょっと嬉しい。
そんなことを考えながら下草を掻き分けて進んでいくと、不意に森の空白地帯に出た。
一瞬、さっと風が吹いて霧を払い、あたりの光景がありのままに浮かび上がる。
どうやら木を切り出した跡のようで、切り株が点々と残る本当にちょっとした広場になっていた。
たいした広さはない。
せいぜい向こう6〜7メートル程度の、とりあえず木はない空間だった。
風がさらった霧の隙間を埋めるように、周りの木々の間から白いもやが流れてきて、あっという間に視界は再び閉ざされる。
しかしその間際、俺は確かに俺と正対するように霧の向こうにたたずむ人影らしきものを見た。
鹿という期待は裏切られたが、しかし人影ということは誰かが俺たちを心配して追いかけてきてくれたという可能性が生まれる。
これは鹿よりも喜ばしいことだ。
「アルヴィン?レグルス?」
白の向こうの誰かに声をかけてから、俺は素早く左に移動した。
万一敵だったら、声を頼りに俺の居場所に検討をつけて、攻撃を仕掛けてこないとも限らない。
返事はなかった。
ただサクサクと下草を踏んで、霧のカーテンの向こうから誰かが俺のいたほうへ近づいて来る気配がした。
俺はできる限り音を立てないように足元から石ころを拾い上げ、自分が元いた場所に向かって投げつけ、細心の注意を払って音を立てないように少し後ろの藪へと非難した。
別に石ころで近づいてくる誰かを攻撃しようとしたわけではない。
元俺がいたあたりで石が地面に落ちるときに草を揺らす、がさりという音が欲しかっただけだ。
俺はまだそこにいますよ、という誰かさんへのメッセージ代わりで、その実自分はさっさと後方の藪へ非難する算段だ。
しかし、安全なはずの藪の後ろへ逃げ込んだ俺に待っていたのは信じられないことだった。
そっと藪の後ろから広場の様子を伺った瞬間。
何かが前に立っているのが見えた。
灰色の人影。
俺は瞬時に後ろ向きに転がり、同時に何かが風を切って振り下ろされ、俺のいた地面に穴を穿つ。
なぜ、と思う暇もなかった。
俺は今度は横向きに転がって起き上がり、棒を握って広場へ飛び出した。
いくら伸び縮みするとはいえ、攻撃に使うなら伸ばさないと意味がない棒を使うことになるなら、木々の密集した森の中よりも伐採地のほうが適当と言える。
もはやあの人影は仲間ではなく敵であることが確定してしまっていたので、握り締めた棒をレギュラーサイズに伸ばしていく。
しかしあの時致命的な音などたてなかったはずなのに、なぜあの人影は俺が離れた茂みに逃げ込んだのを看破したのだろう。
霧の中、低めに投げた石ころが見えたとも思えない。
もしかしてこちらの世界には、妖怪サトリのような読心術の使い手がいるのだろうか。
だとしたらヤバいぞ。姑息な手は一切効かないということだ。
俺の専売特許を封じられては、こっちに有利な展開になるとは思えない。
俺は目を凝らし、灰色の人影がこちらへ近づいてくるのを待った。
隠そうともしない足音と共に灰色が濃くなり、ふいと霧が割れて姿を現したのは。
「はぁ!?」
そこにいたモノに、どのようなリアクションをとるのが正しいのか。
俺にはわからない。
だからあまりにも無難で月並みなリアクションではあるが、とりあえず疑問系にするしかなかった。
俺と相対するように立っていたのは、確かに『俺』だったのだから。
まるでそこに等身大の姿見がすえられているかのように、何から何までそれは『俺』でしかなかった。
結構好き勝手な方向に跳ねた、無造作というか本気で無作為な黒い髪。
ちょっとダルそうな黒い瞳。
着ている物も寸分たがわず同じドラゴン革のジャケットで、手にしているのはやはり俺と同じ六角形の棒切れ。
ただ、髪と目の黒もジャケットの色も全体的に灰色を混ぜ込んだようにくすんでおり、明度も彩度も俺より低い、という点と、動揺しまくる俺とは正反対に表情のない顔だけが俺と『俺』との境界線になっていた。
記号で表すならAとBというよりは、AとA´という程度の差でしかない。
はぁ…ついに俺もドッペルゲンガーを見るようなお年頃ってことなのか…
て言うか相手が俺だったら自分の考えることくらい分かるわな。
だから石ころに騙されずに茂みに隠れたのを看破したってことなんだよな。
いやだからなんで俺がもう一人いんの!?そこおかしいだろ!
これやっぱドッペルゲンガー?……ん?ドッペルゲンガーが見えるってことは、死ぬのか!?死ぬのか俺っ!!?
いきなり突きつけられた不条理に大混乱していると、相手はA´の「´」を取っ払ってAになる気満々らしく、何の躊躇もなく棒を構えて突然こちらへ突っ込んで来た。
混乱はしていたが、とっさに身を沈めて棒の先を避け、伸ばした棒で『俺』の足を払う。
しかし『俺』は後ろに跳び退って回避。
俺と『俺』との間に、霧でもかろうじて姿が見えるくらいの距離が生まれる。
しかしそれも一拍の休符、『俺』は俺を全休符で休ませる気はないらしく、距離をとってすぐ転身、また棒を構えこちらへ突っ込んでくる。
霧を断ち割る一本の矢のような、躊躇のない速度。
鈍い灰銀色が迫り、俺は手にした同じ棒でそれをはじき返す。
情け容赦ない力がこめられた一撃は、受ける俺の腕を痺れさせる。
一撃を加えた『俺』は、即左手に回り込みさらに一撃。
慌ててそれにも対応するが、明らかにこっちが後手だ。
ちょ、何?俺がオリジナルだろ?ダッシュついてないほうのAだろ!!?
オリジナルの威信を賭けてこちらから攻撃するが、大振りになってしまいさっさとかわされる。さらりと俺の後ろに回りこむようなかわしかたで、ヤバイと思ってそのまま地面に倒れこむと、上を突風が吹き過ぎた。
後ろに回りこんだA´『俺』がフルスイングで脊椎破壊を狙ったらしい。
恐ろしい子…!!
「待て待て待て!俺そんなデキる子じゃないだろ!!コピーの分際でオリジナルを上回るな!!」
ざっと地面を蹴って、もう一人の俺と相対するように起き上がる。
A´は相変わらずの無表情で、俺の軽口に軽口で応じるようなこともなかった。
違う!こんなの俺じゃないっ!!
腕力よりも言葉の暴力!それが俺だろ!それが俺のアイデンティティだろっ!!
しかし『´』1個の差で信条まで変わるのか、相変わらず口撃には何の反応も示さず、A´は淡々と距離を詰めてきた。
まだちゃんとどの程度のものか見たわけではないが、目の前のこいつは俺のコピー。
きっと逃げ足…もとい走る速度も俺と比べて遜色ないものだろう。
ここでこいつから走って逃げたり、反対に逃がすなんて論外だ。
万一リーフやセルシェスのほうへ行かせてしまえば、俺の姿をしたものに二人はあっさり騙されるだろう。
俺自身、姿見を見ているようでうんざりするくらいなのだから。
「やるしかないのか…」
ちょっとため息でもつきたい気分。
しかし、文字通りそんな一息つく間もヤツは与えてはくれなかった。
だん、と地面を蹴って加速。
俺たちの間の距離は一気にゼロになり、俺は大きく体を右に捻った。
先ほどまで俺の上体が占めていた空間を棒が薙ぎ、仕返しに超速で突っ込んできたヤツのわき腹にカウンターで棒を喰らわせる。
いつもの俺なら上体だけ捻って避けるなんて危ないことはしない。
体全体で逃げる。
でもそれでは相手も同じ思考をする以上、読まれる可能性のほうが高い。
あえて危険を冒して、予想外のカウンターを仕掛けてやったのだ。
こっちだって読まれるばかりではない。
かなり深く棒が腹にめりこみ、一瞬これ助骨折れた?折れたよな?なんか嫌な手ごたえが…?なんて考えたが、しかし意外にもA´はすぐ飛び退って腹を押さえながら相変わらずこちらを睨んできた。
痛そうだ。俺も同じことされないように気をつけないと。
て言うか自分で自分をタコ殴りにするような日がくるとは思ってなかったよ。
その反対になる可能性だって同じくらいある状況だけどな。
いつまた『俺』が突っ込んできてもいいように、棒を構える。
今は1ポイント先制状態だが、それは相手が突っ込んできてくれたから。
普段の俺は、自分からはあまり攻めない。その分攻められた時に全力で備えている。
しかしA´は迂闊にも自分から攻めかかってきて、さっきのカウンターをくらったのだ。
だから俺は後手の戦法を変えず、あくまでも相手の出方を伺った。
ここからは読みあいになり、膠着するかもしれない。
あいつが俺なら、間違いなく自分がどれほど攻められたときの反撃・逃走に重点を置いているか十分わかっているはずだから。
やはりA´は戦法を切り替えたらしく、片手で腹を押さえたまま棒をこちらへ向けて構え、動かなくなった。
ふわりと風が吹き、空気が動き、一瞬白が濃くなってまた俺とヤツとの姿が黒いシミのように霧の中に浮かび上がる。
やはり膠着。
このままでは決着がつきそうにない。
そもそも相手が自分だという時点で、互いに決定打に欠けるのではないだろうか。
これが精霊王の試練だというのなら、闇の精霊というのもなかなかいい性格をしている。
自分自身を超えて来いってか。
俺が闇の精霊王のアレな性格について考えていると、白の向こうで気配が動いた。
A´がじり、と距離を詰めてきたらしく、白に移った灰色の影が濃くなる。
俺もまた、じり、と動いてこう着状態を維持。
これではなんの解決にもならないが、決定的に勝敗を決める一撃を持たない今は、こうでもするしかない。
俺の弱点、俺の弱点、俺の弱点。
時間を稼いで一生懸命考えてみるが、自分の弱点といえばとりあえず逃げること、暴力にはからきし弱いこと、こっちの世界の常識を標準装備してないこと、くらいか。
しかしながら、どう考えてもA´は俺より暴力的であり、腹に強烈なカウンターを食らわせてやったにもかかわらず、逃げる気配もない。
で、しかもこっちの世界の生き物なのである。当然俺よりはこっちのルールってものを知っているはずだ。
なんだこの完膚なきまでの弱点排除っぷりは。
あと自分の弱点と言えば、グルガ怖いことと、女の子に弱いこと…?
………俺と野郎二人きり状態のこの状況でどうしろと?
他!なんかないのか!!つーかあるだろ!
苦手なものとか……あぁ英語!
違うから!!英語とか今どうでもいいから…!
どうしようもないほどの膠着が続き、相打ち覚悟で打ち合うしかないのかという結論に達しかかったとき、転機は訪れた。
何かが下草を分けて近づいて来て、俺たちのいる森の中の空白へ転がり込んできたのだ。
しかも音の度合いからするに複数。
何がきたのかは白に飲まれてまだ見えない。
敵か味方が通りすがりの動物か。
一瞬気をとられたら、A´が微塵の躊躇も感じさせない動きで踏み込んできて、するどい一閃を繰り出す。
あわてて俺も棒をふるい、金属同士の噛み合う高い音。
暴力沙汰が嫌いじゃない俺なんて俺じゃねーよマジで。
即離れて後退すると、俺たち以外の気配にも動きがあった。
「ダイチ君!?」
牛乳を溶かし込んだかのように白い空気の向こうから、聞いたことのある懐かしい声。
「ローウェン!!」
間違いなくそれは、あの柔らかい若緑色の髪をした狩人の声だった。
声を聴いた瞬間感じたのは安堵で、俺はA´に背を向けると、ヤツが攻撃に移る前にジグザグに走って声のしたほうを目指した。
とは言え、5メートルも離れているとは思えない。
すぐにうっすらと人影が見えて、霧が割れるとそこにいたのは確かにローウェンだった。
「ローウェン!助かった!!」
まさに救世主。
彼のほうへ手を伸ばして駆け寄ると、期待とは裏腹の予想だにしなかったことが起こった。
目の前のローウェンが、なんと弓に矢を番え一瞬の躊躇いもなく俺に向けて射掛けてきたのだ。
「うわぁっ!!?」