11.砦内逃走
地下へと続く階段の手前で、レグルスからの指示でまた待つことしばし。
みんなでぞろぞろ地下まで行くのかと思いきや、ここでも彼一人で先行してしまった。
そして、空手で帰ってくる。
大して落胆した様子もなく淡々としていたので、どうやら野生の勘で地下牢ではないことを嗅ぎ取り、事実確認のために一人で降りたらしい。
そのまま次の候補に挙がっている上の階の部屋を目指す。
今度も階段まで呆れるほど簡単にたどり着き、順番にそれを上がっていく。
しかし、どうやらアルヴィンのつけた二つ目の目星はビンゴだったようで、二階へ上がるなり行動不能に陥った。
階段を上がった廊下の先に、見張りと思しき連中がいたのだ。
ちょうどアルヴィンが言っていた部屋の前で、これで使者の居場所が分かった。
だが、階段からその部屋までは一直線の廊下で結ばれており、身を隠すような遮蔽物は皆無。
だからといっていつまでも階段なんかにいるわけにはいかない。
いつ下から人が上がってくるとも知れないし、見張りが交替するようなことがあれば上下から挟撃を受ける。
それだけは、なんとしても避けねばならない。
一気に飛び出して行って制圧しようにも、階段と見張りのいる部屋までの距離が奇襲を阻む。
打つ手はないし、いつ下から人が来るとも限らず、焦りばかりが募ってゆく。
ダリルなど、クレイモア――彼の魔導器の柄に手をかけて、今にも飛び出して行きそうだ。
それをアルヴィンが押し留め、俺に向かって手招きをする。
訝しく思いつつもアルヴィンとレグルスの傍まで上っていくと、囁き声でとんでもないことを申し渡された。
「カッツェさんを担いで、あそこまで全力で走ってください。」
思わず大声で反論しかけ、敵地であることを思い出してギリギリで言葉を飲み込む。そして、アルヴィンと同じく囁き声にまでボリュームを絞って小さい反撃。
「はぁ!?そんなこと・・・む・・・無理だろ!?いくらなんでも、あいつらが騒ぎ始める前にあそこまで行ける保障はないぞ?」
「ここにこうしているよりは建設的ですし、半ばまで走ったらカッツェさんを思い切り放り投げてくだされば結構です。あとは全てやってくださいますから。
それに、屋内だから相手も飛び道具は持ってませんよ」
「でも・・・応援が大挙して来たらどうするんだ!?」
「大挙して・・・というほどいないと思いますよ。この階には使者とそれを見張る見張りが数名。多分他の部屋は仮眠を取るのに使ってるんでしょう。だから、どんなに多くても10人もいないはずです。上の階にはどれくらいいるかは分かりませんが、司令官が使う少し上等な部屋があるだけなので、誘拐犯のリーダーとその女房役の策士がいるくらいでしょう。これならカッツェさん一人で十分です。
それに、残りの一階からの加勢はこの唯一の階段を通ってきますから、私とダリルさんで防波堤の役目くらい果たしてみせます。まぁ、多分騒ぎが広まる前にカッツェさんがみんな片付けてくださるでしょうから。あなたに来ていただいた甲斐がありますよ。きっとあなたの黒目黒髪は注意を引きますから、あそこにいる見張り役も一瞬我を忘れる程度の効果は期待できます。そして、一瞬あればカッツェさんには十分すぎます。」
ここまで言われれば、頷くより他にない。
どの道最終的には砦内で暴れる予定だし、上手くいけば見張りの三人が騒ぎだす前に昏倒させられるかもしれない。
ただ、人を抱えて走るなんて経験したことがないし、せめて身体を温める時間が欲しい。いきなり全力疾走は結構辛いのだ。
レグルスが分かったらさっさと行くぞという顔で俺を振り返ってきたので、とりあえずため息で返事をして彼のそばへ寄り、どうやって抱え上げたものかしばし思案。
やっぱり背中に背負って行くのが一番走りやすいだろうか。
ただそれだと放り投げにくい。しかし放り投げやすさを重視した抱え方・・・お姫様抱っこだけは絶対にごめんだ。男同士であれはちょっと寒い。
悩んでいるとレグルスが後ろに回りこみ、馬か何かに乗るように俺の首に腕を回して背中に乗ってきた。
レグルスの方が背が高いので、膝を曲げて太ももで俺の腰にがっつりと掴まる。急に増えた重りに、一瞬だけ前方によろめいたが、思ったほどには重くない。
どうやら例の肉体強化の影響らしい。
しかしながら、なんかジャングルを歩いていて突然木の上から飛びかかってきたジャガーか何かに襲われ、のしかかられているようなこの気分はなんだろう・・・?
肉食獣に襲われる人の気持ちから戦場モードへどうにか気持ちを切り替え、レグルスが乗っていやすいように少し前傾姿勢になり、階段の上へ。
それにしても、首に回された腕とその先のデヴァインが恐ろしい。
肩口をつかまれているので、刃自体は顔とは反対方向に向いているのだが、もしも転倒しようものならきっと大変なことになるだろう。
主に自分のために心して走らねば。
「・・・行くからな」
呼吸で動悸を整えつつ最終確認すると、「ああ、行け」と淡白な答えが降ってくる。
もう一度深呼吸。
それから即座に階段から飛び出し、後はただ走る。
無心だった。
先のほうで人が驚いた顔でこちらを見ているのも、背中にレグルスがいるのも、俺とは違うどこか別の世界の出来事で、俺の世界はただ動いてゆく左右の景色だけ。それが全てで、自分がどれくらいのスピードで走っているのかも分からない。
ただ両脚が規則的に動き、脳裏に浮かぶのは自分の世界で走った色々な場所の景色。そして、こちらへ来てから見た景色。
それが混ざり合い、心臓の鼓動がそれまでの緊張感から解放され、走るためだけに調整されたあの慣れたリズムを刻み始める。
どこまでもいけそうな、そんな感覚。
長い廊下の半ばまでを、ほんの数秒で駆け抜け、さらにその先へ。
三分の二を踏破した所で、背後から衝撃。
どうしようもない一撃によろけ、前のめりになると同時に背負っていた重りが消えた。
どうやら、レグルスが俺の背中を蹴って見張りに襲い掛かったようだ。
倒れそうになってどうにか踏みとどまり、再び顔を上げて前を見たときにはもう全てが終わったあとだった。
三人いた見張りは一人残らず昏倒し、顔色一つ変えないグルガの男が、そんなことくらいなんでもないとでも言いたげに悠々と俺を見おろしている。
ため息が出た。やっぱり、俺はこっちの世界の人にはなれない。
「ここに使者がいるのは間違いないでしょう。」
見張りのいた扉の前に改めて全員がそろい、鍵穴に見張りが持っていた鍵を挿し込みながらアルヴィンが言った。
鍵はすんなりと鍵穴に入り、アルヴィンが手首をひねるとがたんと重い音がして鍵が開いた。
扉を開くと、中は結構キレイに調えられた普通の部屋だった。
石造りの床には古いが上等そうな敷物が敷かれ、家具調度もやはり古いが上等な木で作られたものが一通りそろえられている。
窓には明らかに後から急遽つけられたと見える、新しい鉄格子。
それ以外にはここが誰かを閉じ込める目的で作られた部屋だと感じさせるものはない。
むしろ、賓客をもてなすための部屋だと言ってもあまり違和感がないほどだ。
閉じ込められていた人物は、それほどには広くない部屋の中央にあった古いが上等な布張りの椅子に座っていた。
青に銀色を足したような、不思議な光沢のある美しい長い髪。
うつむいて伏し目がちの緑がかった瞳と、憂いを帯びた長い睫毛。
頬はふっくらしており、白い。
唇がわずかに開かれ、血の色をそのまま透過したように赤い。
憂いを隠そうともしない表情にもかかわらず、美人だった。
白い肌と同じ色の白の不思議な服に、所々青い布がアクセントに取り入れられたものを着ており、見た感じはファンタジー系のゲームに出てくる女神官か巫女のようだ。年はよく分からないが、俺と同じか少し上くらいだろう。
そして、彼女自身の美しさよりももっと目を引かれたのが、その背にあるもの。
真っ白な一対の翼が、確かにそこにあった。
これが、『ラースびと』なのだろう。
彼女は外の騒ぎ・・・といってもほとんど物音などないに等しい制圧戦だったが・・・にも関心を持たなかったようで、ドアが開いて俺たちが入ってきたのに、全くこちらを見ようともしなかった。
「お迎えに上がりましたよ」
アルヴィンが優しい声と笑みを使者に向ける。
そこで初めて使者は入ってきたのが彼女を捕らえた悪漢ではないことに気づき、はっとしたように顔を上げた。
驚いたような表情をすると、俺よりも年上という印象は全くなくなる。
「・・・あ・・・あなたがた・・・は?」
唇が震え、可憐な声が漏れる。
「私たちは、セレーナの王から言いつかってあなたをお迎えに上がった者です。大変な目に遭われましたね。心中お察し申し上げますが、今しばしご辛抱の程を。すぐに城までお連れいたしますよ。」
アルヴィンの優しい言葉に、立ち上がった使者は二、三歩こちらへ歩み寄ってくる。
そこでふと、俺に気づいて立ち止まる。
俺も、彼女の白い翼に蒼い色の不思議な模様が入っている事に気づき、何かの紋章のようなその模様に目を奪われる。
「説明する時間はありませんが、この方も味方です。ただ少し、我々の世界の法則とは違うところからいらっしゃった方なんです。あなたがここにいる事を私たちに教えてくれたのもこの方なんですよ」
アルヴィンが間に入ってとりなしてくれたが、改めてこれから自分の成すべき事を思い出し、ぐっと胃の辺りが重くなる。
使者を連れての脱出は、俺に課せられた逃れられない使命なのだ。
「じゃあ、手筈通りお願いしますよ。あなた方が出発されてから少し間を置いて、こちらも始めますから。」
あの部屋の前。
使者の隣に立つ俺に、わずかながら不安を宿した目でアルヴィンが言う。
足元には、さっきレグルスがノシイカにした見張りがゴロゴロ転がっている。
ついにやってきたのだ。この作戦の、一番賭けの要素が強い局面が。
アルヴィンから視線を外し、そっと隣の使者を見る。
彼女の方も俺を見ており、不安が顔一杯に表れていた。
俺の方があんたの5倍は不安だ。
そう言いそうになったが、直前で理性さんが押し留めてくれた。
「平気ですよ!すぐに私たちも動きますから、敵の目はこちらに集中するはずです。その隙にあの通路まで戻るだけなんですから!」
励ますようにアルヴィンが言って、俺は蒼白な顔色のままで頷いた。
「ダイチ」
レグルスが俺を呼ばわる声。
城にいる時となんら変わらない、平静そのものの声色。
顔を彼の方へ向けると、彼は真っ直ぐに視線で射返してきた。
「行け。外で会おう」
簡潔な言葉で容赦なく退路を断ち背中を押す。
これが彼のやり方だ。
俺は浅く顎を引いて、多分泣きそうな顔で彼らに背を向けた。
ゆっくりと長い廊下を歩き出す。
背後でアルヴィンに促された使者の気配が動き、恐る恐る俺の後をついてきているようだった。
振り返ると彼女も俺に負けず劣らずびびっているようで、顔色が酷く悪い。
そっと左手を差し出すと、すがるようにして握り返してきた。
二人して迷子になった子供のようだ。
階段までの無限とも思える距離をそれでも踏破し、そっと下を窺う。
特に人がいるような気配は感じなかった。
ちらりと一度使者を振り返る。
いざとなれば抱え上げて突っ走るしかない。
それは誰かに見つかってからの話で、今はまだそんな目立つ動きはできないが。
そっと階段を降り始め、半分くらい来たところで背後から声がかかった。
「あ、あの・・・ダイチ、さん?」
ひそめた控えめな声に振り返ると、遠慮がちで申し訳なさそうな表情で使者が俺を見ていた。
「な、なんスか?」
「あの、自己紹介・・・を・・・」
言われて初めて、お互い名前すら教えあっていないことに気づく。
彼女の方はさっきレグルスが俺を呼んだので、どうにか俺の名前を知ったようだが。
「あ、えっと、俺は大地。天城大地っていいます。天城は家名だから、大地って呼んでくれればいいよ」
「私はリーフ。ステラ・リーフ・ラースといいます。」
今更だが、繋いだ手を握手のように振ってみる。
これでヨロシクの儀式は完了。
「いざとなったら抱えて走るから。その、ちょっと普通じゃないスピードが出るけど驚かないように。」
一応声を潜めたまま俺の使用上の注意を言い渡したが、使者・・・リーフはぴんと来なかったらしく曖昧に頷いた。
「あと、これを持ってて欲しいんだけど・・・。現在地はここで、できればここまでの道を指示して欲しい。あの、ほら、いつどこで誰と出会うか分からないから、できれば右手は空けときたいんだ」
アルヴィンのくれた地図を渡して現在地を示すと、リーフは分かりましたと若干頼りなげに言ってそれを受け取った。
『じゃあ行こう』と言う様に頷いて見せると、彼女も頷きで返事を寄越す。
階段を最後まで下りて、そっと左右の安全確認。
とりあえずは誰の気配も感じられない。
このまま誰にも見つからずに無事にあの物置に帰れますように。
何かに強く祈ってから、階段を下りた先の廊下へ一歩踏み出す。
進むべき右方向を向くと。
目が合った。
知らない男。
「ぎゃぁあああぁぁあああ!!!!」
男の口から、可憐とは逆属性の悲鳴が奔流のように迸る。
「うわっ!?う、うわああぁあ!!?」
思わず俺の口からも、つられ笑いやもらい泣きと同族のつられ悲鳴もしくはもらい悲鳴がこぼれる。
「きゃあぁぁぁあぁっ!!」
それに驚いたリーフも絶叫。
俺は必死になってリーフの手を引いて、本来行くべき方向ではない左側へと駆け出す。
怖いので後ろは振り返らない。
しばらくは静かだったが、背後から使者が逃げたという叫びが聞こえ、角が見えるたびにあちこち曲がりまくった結果、見事に俺たちは本物の迷子へと成り果てた。
砦の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、俺と使者を探す何人もの人間が足音も慌しく駆け回っていた。
俺たちは使われていないのが丸出しの、隅のほうにあったドアをこじ開けてその内側に身を隠していた。
書庫かなにかで、誇りっぽい上に古い本のにおいが満ちていた。
窓はあったが、天井付近に明り取りの小さなものが二つほどあるだけで、薄暗い上に脱出に役立つとは到底思えない。
砦を虱潰しにされれば、ここが見つかるのは時間の問題だ。
もはや自分たちがどこにいるのか分からないので、アルヴィンがくれた簡単な地図は役に立たない。
こうなれば道は一つ。
なにが何でも正面玄関までたどり着く事。
さっきの場所まで戻るには危険が大きすぎるし、よしんば戻れたとしても、あの物置まで追っ手を引き連れて行って、無事に逃げおおせる保証はない。
ならばもう正面から堂々出るより他ない。
確か正面入り口で外の味方の一部が騒動を起こしているはずだから、そこまで行くことができれば味方の援護が得られる。
それしか道はないと思ったのでそのままリーフに伝えると、彼女は顔色を蒼白にしながらも顎を引いて頷いた。
それにしても、さっき結構本気で走ったのによくついて来られたな。
今更ながらそう思ったので聞いてみると、「ほとんど浮いてましたから・・・」とのお答え。なにかよく分からなかったが、きちんと説明を聞いている時間もなかったので適当に相槌を打ってスルーしておいた。
まさか、俺が引っ張って走っただけでマンガのように浮くということはあるまい。・・・いや、背中の羽が飾り物でないなら、体重は必然的に軽い必要があるから、もしかしたら本当に浮いていたのかも知れない。
―――――ダメだ。考えているヒマはない。
「それじゃ、とりあえずここがどこか分からないから、追っ手を避けて行けるところまで行こう。もしも地図に描いてある場所まで戻れたら最初の予定通り脱出するけど、ダメなようなら正面玄関を探すから。」
言って再び左手を差し出すと彼女はしっかりとその手を取り、もう片方の手に地図を持って頷いた。
それを確認してから、そっと書庫の扉を開ける。
通路は静まり返っており、追っ手が近くにいないことを知らせてくれた。
しかし、前例があるのであくまで注意を怠らずにそっと書庫を出る。
改めてリーフの手を握りなおし、書庫を出て進み始める。
玄関がどこにあるのか勿論知るはずもない。
分かれ道まで慎重に進み、そっと左右を窺う。
今のところ人の気配らしいものはなにもない。
開いた右手でポケットを探り、スタンガンをがっしりと握り締める。
もしも今度誰かと出会い、なおかつ相手が一人で弱そうだったら一撃食らわせてやるのだ。
そうすればこれ以上騒ぎが広がったり俺たちの正確な場所を知られずに済む。時間の問題だという説もかなり有力だが、何もしないよりはするほうが気分的に楽だし、なにより一矢報いなければ気がすまない。
さっきは出会った相手がいきなり悲鳴を上げたので思わずこっちもビビッてしまったが、次はそう易々とビビッてたまるものか。
湿っぽい通路を、リーフの手を引いて必死に進む。
心臓がガンガン鳴って、テンションが変な風に高騰してゆく。
アドレナリン過剰分泌状態だ。
「あの・・・」
後ろからかかる、遠慮に潰された小さな声。
振り返るのももどかしく、「何?」と少しつんけんした声で返してしまい、背後の気配からさらに遠慮の成分が抽出される。
「あ、あの・・・えっと・・・気をつけて・・・ください」
小さな声。
どうにか聞き取れるギリギリのラインだ。
「分かってるよ。分かってる。俺も同じくらい怖いんだから!できれば見つかりたくないよ!」
「あの・・・っ!違うんです!そうじゃなくて・・・」
「なんだよ?何が違うの?」
立ち止まり、振り返る。
遮蔽物のない長い廊下で立ち止まるのは本意ではない。
しかし、このまま会話を続けながら砦内をウロウロするよりは、ここで片付けてしまう方がいいと判断。
「私を誘拐した人たちの中に、支配者<ドミネーター>がいるんです・・・!」
聞きなれない単語がリーフの唇を震わせ、俺は思わず眉根を寄せた。
「どみねーたー?」
「ええ・・・。私も必死に逃げたんです・・・。でも、ドミネーターが・・・凄いものを従えていて・・・抵抗しきれませんでした…」
「凄いもの・・・?」
嫌な響きだ。
非常に。
思わずレグルスの名前を連呼しかけて、どうにか理性が打ち勝ち踏みとどまる。でも、多分きっとその凄いものには出会わないだろう。
そう、アルヴィンやレグルスが騒動を起こすのだ。
なら、その凄いものもそっちへ行くはずである。
希望的観測なのか・・・。いや、あの破壊力無限大なレグルスが真剣に暴れれば、その凄いものもきっとその場に釘付けにされて俺たちを追いかけることなどできないはずだ。もうこの際希望的観測でもいいからこれ以上のヤバイものはいらない。正直危険はお腹一杯だ。
「あの、凄いものです。炎のまじ・・・」
リースが言いかけて言葉を飲み込む。
「炎のマジ?・・・マジ怖いヤツ?マジ凄いヤツ?炎の・・・え?」
問い返したが、反応はない。
リーフの顔色は青どころか白くなっており、まるで死蝋を思わせた。
オマケにじわりと眼の端に涙が溢れ出し、小刻みに震え始める。
そしてそっと白くほっそりした指を持ち上げ、俺の背後を指差した。
後ろ。
何か、妙に熱気っぽいものを感じる。
さっきまではむしろヒヤッとしていたはずだ。
“炎”のまじ。
その続きは分からないが、嫌な予感はリアルタイムに襲い来る。
炎の。
炎。
背後の熱気。
「走れ」
リーフを見て、呟く。
彼女は理解できないというように小首をかしげ、眉根を寄せて口元はできそこないの微笑みのように引きつっている。笑いながら泣いているような、そんな表情。
「走れ。」
そっと左手を離す。それから繰り返すと、リーフの口元から笑みが消えた。
「行け!!」
叫ぶとリーフは弾かれたように俺に背を向け走り始めた。
それを確認してすぐさま右手をポケットから引き抜き、スタンガンを構える。
同時に体を翻し、背後にいたものと正対。
炎の。
それは、まさしく炎の。
――ヴォオォォオオォおぉ
『それ』が啼いた。
圧倒的な熱気が吹き付けてきて、俺は顔を庇って左手をかざし、喉を焼かれて咳き込んだ。
『それ』は、まだ少し離れたところにいた。
だが、薄暗い廊下にいて、『それ』は圧倒的な存在感と、それ以上の熱気を放っていた。
捩れた角を持った牛。
そんな姿。
だが、牛のような四足歩行のまったりしたイメージは皆無。
猛々しく、荒々しく、荒れ狂う炎。
がっしりした人間の男の体に、前述の牛の頭が乗っかっているのだ。
冗談のような、悪夢のような、だがしかし実体のあるもの。
纏う衣は炎で、溶岩のようにトロリと赤い目が俺を捕らえた。
牛は明らかに笑った。
いや、嗤った。
粒ぞろいの臼歯が覘く。
変なところだけ牛そのものだ。だが、本来なら闇に飲まれるはずのその奥、喉は灼熱に焼け、体内にも火種を抱えていることが否応なく知れる。
炎の魔神。
それが、多分リーフが言いかけて言えなかった言葉。
『それ』の名前。
あんなものの前では、スタンガンなど玩具にもならない。
ましてや棒切れなど。
牛がゆるりと近づいてきて、背後に人を従えていることが分かった。
牛のインパクトが強かったが、背後の人は暑さなどまるで感じていないかのように涼しげな顔で、笑みすら浮かべてこちらを見ていた。
・・・これが、支配者<ドミネーター>なのかも知れない。
先ほど牛が人を従えて、と描写したが、牛の方が“従えられて”いるのだ。
牛の後ろにいたのは男だった。
アルヴィンと同じか少し上くらいの年齢。
髪の色は銀。
魔術師だ。
だが、アルヴィンの静謐な湖の青を思わせる瞳とは違い、眼前の男の目は赤だった。燃え盛る炎の、全てを喰らい尽くす獰猛な赤。
逃げるしかない。
俺では絶対太刀打ちできない。
本能が言っている。
逃げろ。
足ではまだ俺に分があるだろう。そう信じないと、腰から砕けて座り込んでしまいそうだった。
ポケットにスタンガンを戻し、再び牛に背を向ける。
後はもう、走る。走る。走る。
景色が飛んで、リーフを先に逃がしたことを後悔する。
もしも会えなかったら。もしも、すでに砦の連中の手に落ちてしまっていたら。アルヴィンの努力も、レグルスの苦労も、ダリルの頑張りも全て無駄になってしまう。それだけは。それだけは何が何でも防がねばならない。
考えながら、真っ直ぐに走っていく。
背後の熱気は遠のいて、シンと冷える空気が耳元でうなる。
リーフの名前を叫びたい衝動に駆られ、しかしそれをすると余計な注意まで引いてしまうことを必死に自分に言い聞かせる。
どこかの角を曲がって、どこかの部屋に隠れているのだろうか。
それとも、このまま真っ直ぐ走って行った先にいるのだろうか?
距離だけで言うとそれほど離れていないはずだ。
牛の姿を確認してすぐに走り始めたのだし、俺の足は常人とは違う。
怯えていたリーフの表情が蘇り、焦りが一層募ってゆく。
見つけ出さなければ。
何がなんでも。
それが、俺の使命なのだ。