若き元社長の、自由。2
――――死んだか。
大地は何も見えない空間に、一人取り残されていた。
高層ビルの屋上から落ちたのだ。どんな生物でも即死だ。
だが、自分が死んだ事に対して、何の感想もなかった。
新たな命となり、一般人として、何も知らない人生を歩むのもアリだな、と大地は常日頃から考えていたからである。
しかし、わずかに音が聞こえる。
まるで、川が流れる音。
穏やかな水の流れ、小鳥の囀り。
木々達が風に揺れる、心休まる音。
次第にソレは大きくなっていき、やがて、自然が生み出した物とは別の音が、大地の空間に流れてくる。
「……ぶですか」
ぶですかって何だ? っと大地は怪訝に思った。
大地にとって知らない言語はない。勉学も世界でトップクラスである為、基本的に分からない言葉はない。だが、ぶですか、と発音をする言語は彼の辞書には登録されていない。
しかし、全く知らない、というわけでもなく、日本語のニュアンスに聞こえなくもない。
――――っという事は、俺は死ねなかったのか?
すぐに思い浮かんだのは、自分が死んだわけではなく、誰かに助けられたという事。
つまり、落下はしたものの、肉体は無事だったのかもしれない。
死ねなかったのか。っという落胆が大地の胸中を支配した。
やがて、暗闇の空間が晴れてきて、徐々に光景が浮かび上がる。
森に囲まれた大地。
木々の枝には、小鳥たちが休み、歌っている。
川の音が聞こえてくるのは、大地が川に浸かっているからだ。
上体を起き上がらせると、水に濡れたせいでスーツが汚れていた。
「……何県だろうか」
空は青い。
空気は透き通り、上質の水のように美味しい。
周囲を見渡すと、何者かがいた。
大地を呼んだのはその子だと思い、朗らかに笑って見せた。
「君が俺を助けてくれたのかい?」
その者は、保存大樹のように太い木々に身を隠してる。
だが、完全に隠れきっているわけではなく、赤いスカートが大地の目に入る。
多分、大地を警戒しているのかもしれない。
優しい呼びかけをしたおかげか、その者は姿を見せた。
「……ね、猫耳!?」
大地は思わず声に出してしまった。
燃えるような赤い瞳を宿し、紅葉の如く美しい色をした腰までの髪。アニメ・漫画顔負けの整った顔。さらに言うのならば、その猫耳は反則的な可愛さを醸し出していた。
しかし、大地の恋心を揺るがすほどではない。なぜなら、彼女は幼女のように小さいからだ。
赤いワンピースを着た彼女は、大地に恐る恐る近づいてきた。
「ね、猫耳……じゃ、ダメですか?」
「いや、ダメも何も……それコスプレだろ?」
「こすぷれ? 何ですか、それは」
「いや、この際どうでもいい。ここは何県なんだ?」
大地の中で、彼女への関心はそこで終了した。
しかし、あからさまに自分への関心を消されたとなると、どんな女性でも怒りたくなるのだろう、少女は目をつり上げた。
「この際どうでもいいとは酷くないですか」
「え、ああ、ごめん。俺はあんまりコスプレとかには興味は――――」
「だからコスプレって何ですか!?」
「コスプレはコスプレ……って」
そこで大地は考えてしまった。
この猫耳ってカチューシャとかじゃないのか? と思い、大地は少女の猫耳を摘まんだ。
「……ひゃぁんっ」
「え?」
「そ、そこはらめぇ……」
「あ、悪い」
大地は冷静に見えるが、内心動揺を隠せなかった。
猫耳を摘まんだら、喘ぎ声を出されたのだ。しかもまだ年齢的に幼い。
一応二十歳の大地としては、それは犯罪的な行為になるのでは? と思い、すぐに手をひっこめた。
すると、少女は自分の猫耳を華奢な両手で隠し、涙目で睨みつけてきた。
「……悪かったよ、そこ、君の性感帯か何かなんだろ?」
「……最低です、まさか初めて遭った人に触られるなんて……。お嫁に行けないじゃないですか!」
「そこまで重要なのか」
「もちろんです! 乙女の問題なんです! 私のようなクリティリィム族の耳に触れるというのは、つまり、そのー……、えっと……」
恥ずかしがる少女。
大地は呆気に取られていた。
性感帯が猫耳にあるだなんて初めて聞いた話である。つまり、この少女は人間じゃない。
一体何なんだ? っという混乱に頭を悩ませていた。
しかし、少女は叫ぶように言った。
「こ、子作り的行為なんですよッ!」
「はぁぁぁ!?」
「ひぃ!? ち、違う……かもしれないです……」
「いや、あ、ごめん、順を追って説明してくれ」
「二度としません!」
大地は初めて、人に叩かれた。
◇
頬に紅葉型の跡を残し、大地は少女に話を聞いた。
まず、少女の名前はクリティリィム族のフフィ・クリティリィム。つまり、種族の本家なのだろう。
フフィが、森にて薬草の採取を行っていたら、いつも静かな川に何かがぶつかる音がして、来てみれば大地が流れてきたらしい。
何とも信じがたい話ではある。
そして、大地はずっとここを日本のどこかだと思っていたのだが、実際は違っていた。この大地は日本などがある世界とは異なる世界なのだ。それはフフィと話して感じ取ったのだ。
何はともあれ、怪我もなければ、携帯も財布もない。
大地はもしかしたら、最後に『旅をした方がマシだったかも』というセリフを神様が聞いて、異世界という舞台で旅をしろ、と言っているのかもしれないと思った。
目覚めた時間は、この世界では遅い方だったらしく、その日はフフィの家に泊めてもらう事になった。
とりあえず、フフィには記憶障害と話しているのだが、実際は記憶があって、異世界を知りませんなんて話したら、大事になるだろうと思い話せなかった。
フフィの家は木造のツールーム。
部屋とベットが二つあって、簡易キッチンがある、小さな家だ。
森に囲まれている事から、生活はどうしているのだろうと、つい考えてしまう。都会に住んでいる者の悪い癖だ。
「じゃあ、大地さんは、記憶が全くないんですか?」
「ああ、これっぽちもないよ」
「アブソーションも知らないですか?」
「アブソーション?」
「はい、ここら辺に住んでいると稀に魔物とかが現れるので、それを撃退する魔法を覚えるのに必要なもの、ですかね?」
「魔法を覚えるのに必要なモノ、ねぇ……」
そう、この世界にはアブソーションと呼ばれるモノが存在する。
アブソーションとは、スマートフォンほどの大きさの氷の板だと思ってくれればいい。つまり、半透明な板。
それは、スキルと呼ばれるモノを操作するのに使ったり、そのスキルから魔法やアビリティを習得する。
基本的にアブソーションは端末単体で使えるものではないらしく、使用者の情報を魔力伝いで知るようだ。簡単に言えば、人の端末を盗んで勝手に魔法を使えない、というわけだ。
「もしかして、失くしたんですか?」
「……かもしれないな」
記憶喪失じゃないのに、失くした。なんて言うのは大地の中で罪悪感が沸いていた。
しかし、そうとは知らずにフフィは箪笥を調べ始めた。
んしょ、んしょと掛け声をかけながら、何かを見つけ出したようだ。
大地の近くに寄り、探し物を見せてきた。
「これが、アブソーションです」
「へぇ……」
アブソーションを手に持つ大地。
そのまま画面に、人差し指を触れると、まるでスマートフォンのように画面が光り、そこに情報が書き込まれていた。
種族:人間
初期スキル:素手、人界魔法、採取……。
その情報を見てから、もう一度画面をタップする。
そうする事によって、画面はスキルから魔法や技・アビリティを習得する画面に切り替わる。
なんとも便利なモノだな、と思ってしまった。
「……本当に記憶喪失、なんですね」
「ん、まぁね」
操作方法が手慣れているからだろうか。
多分、フフィにして見れば、この操作速度が通常なのかもしれない。
色々と怪しまれないようで、内心ほっと一息吐く大地。
だが、ここまでしてもらって何もしない、というのも大地は場違いだと感じ、口を開いた。
「もし、良かったらなんだけど、俺にできることってないか?」
「大地さんにやってもらう事、ですか?」
「ああ、助けてもらってばかりで悪いしさ、それにアブソーションまで貰って悪いからさ、何か手伝うよ」
「良いんですか?」
「遠慮するなよ」
そう言うと、嬉しかったのだろうか。フフィの耳が円を描くように回った。
顔を見ると、満面の笑みだった。
「そ、それじゃあ、薬草集めを手伝って欲しいんですけど……、いいですか?」
「お安いご用だ」
こうして、大地は色々と教えてくれたフフィの仕事を手伝う事になった。