2-3 病弱系女子と神の本
ベイシス・バイブル――あたしはそれを古代史で習った記憶がある。もしかしたら地理なんかで習った人もいるんじゃなかろうか。
読んで字の如く、基礎の書といわれるそれ。あたしの試験前詰め込み型知識を総動員したところ、全九巻とも全十巻とも言われていた気がする。確か。全体的に世界について書かれた本で、筆者は不明。まだ本を作るという概念がない頃から存在していたというので、一説にはいわゆる神の書いたものだとも言われていて、それが古代史でベイシス・バイブルを学ぶゆえん。
じゃあ、地理で習うわけはというと。
ベイシス・バイブルは、所在不明といわれている数冊を除くほとんどが、圧倒的力を持つ一つの国に集められているから。
大陸国家セラフィン――勉強嫌いのあたしでも授業で習う前から知っていたのだから、たぶん世界中の誰もが知っているであろう強国だ。かなり大きな大陸を一つの王家が統治していて、そこはあたしたちの住むここでは考えられないような文化――例えば魔法といわれるものや、科学といわれるもの――で栄えている。セラフィン王家は……というより一説によると王家ではなく宮廷魔術師と呼ばれる存在の人たちは、ベイシス・バイブルを集めてその研究をしているらしい。
また、スピリーツェのある大陸のほぼ真ん中にあるだだっ広い荒れ地、その真ん中にある『塔』。世界中の書物という書物すべてを保管している国際図書館と言われるそこも、その本の写本を集めて研究している。ちなみにそこは、荒れ地がだだっ広すぎて普通の人間は滅多にたどりつけないけど、我らが郵便局は飛竜という特権があるのでそれが実在する場所だと知っている。
とにかく、そういった地理的な特徴として扱われてしまうくらいに異質な書物。それが、ベイシス・バイブル。
神の書。
大国、または国境なき組織の、門外不出の書。
いくら写本とはいえ、そんなシロモノなら確かに狙う人は多いかもしれない。
冷たい感触にぼんやりと目を開けると、あたしの額に乗っていたらしい濡れタオルをひっくり返していたディクスが目を丸くするのが見えた。
「ディ……クス」
半身を起こす。一瞬目眩と吐き気に襲われたけれど何とか耐えて、あたしは瞬きをして焦点を合わせようと試みた。
見知らぬ、部屋だ。
板張りで、生成りのカーテンとサイドボードの上にある花瓶が辛うじて彩りを与えているだけの地味な空間。本気で、見覚えがない。あたしの部屋のカーテンも生成りだけど小さな花の刺繍が下の方に施されているし、祖父にもらった犬のぬいぐるみがいたりして、全体的にもうちょっと飾り気があるもの。ここ、つまんないくらいに味気ない。
「ここは……?」
「診療所よ。寝ぼけてるの? 病人をパン屋に運び込んだりしないでしょう、普通」
ディクスの後ろの方にあったドアが開き、長身の女性が笑いながら入ってきた。かなりの美人さん。長い白衣の前ボタンを開けて、簡素なシャツとミニスカートといったごく普通の恰好を覗かせている。ほっそりした体型や爽やかな微笑みは若く見えるけれど、彼女はそれでも四十過ぎのおばさんなのをあたしは知っていた。
スピリーツェ唯一のお医者様、アリエラさんだ。
アリエラさんはあたしに近寄り、すらりとした指先であたしの額に触れる。ふわりと消毒液の匂いと花の香りが混ざったような匂いがして、あたしは瞬きした。親子ほどに年の離れた人なのに、なんとなくドキドキしてしまったからだ。おそるべし、美人パワー。
「熱はないわね……だいじょうぶ、一日休めば回復するわ。若いんだから」
薬か何かなのだろう、やたら酸っぱくてほんのり苦い水をあたしに飲ませ、アリエラさんは頷く。
「夕方まで、眠りなさい。薬なんかより休養が有効な体調なんだから。今日は暑いし、涼しくなってから帰るといいわ」
え? 仕事があるんだけど。
――言いかけたあたしは、しかし静かに枕に身を沈めた。仕事はあるけれど、体調をどうにかした方が得策のような気がするから。だって、誰かがベイシス・バイブルを狙っているのかもしれないんだもの。今、体調を崩してヘロヘロになるわけにはいかないじゃない。今溜まっているであろう今日の午後の仕事には悪いけど、明後日んの大きな一仕事の方がずっとやばい気がする。
「すみません、迷惑かけて……」
「何言ってるの、これが私の仕事よ」
アリエラさんは綺麗に笑って、部屋を出て行った。一緒にいてくれるないのかとも思ったのだけれど、まあ、アリエラさんにだって他にやらなきゃいけない仕事はあるもんね。
「チェリス、寝てていいよ」
今まで黙っていたディクスが優しく言って、あたしの頬に触れる。あぁ、冷たくて気持ちがいい。
あたしはほうと息をつき、視線を左右に巡らせる。思っていた人影がないって言うのは、想像以上に心細い。ディクスに視線をやると、彼は小さく首を傾げた。
「どうかした?」
「シアは?」
「君が目を覚ますまでいるつもりだったみたいだけど。仕事が忙しいだろうから、チェリスは僕に任せてって帰した」
そっか。まあ、それがベストか。
あたし、目を閉じて枕に沈み込む。病室の枕は自分の枕よりも少し固くて、消毒液の匂いがした。
「ディクスも、帰ってて。迷惑かけてごめんね」
「そんな、いいよ。一緒にいるから」
ディクスはそう言ってにっこり笑うけれど。
あたし、少しだけ眉をしかめる。気持ちはありがたい。ありがたいけれど、実は、思い出したのだ。思い出しちゃったら、もう、ディクスが邪魔で邪魔でしょうがない。
アリエラさんはセラフィンの出身なのだ。セラフィンとは、世界最大にして最強の大陸国家。それ以外の国が歴史や地理で最強として学ぶくらいにすべてにおいて秀でているし、その例に漏れずベイシス・バイブルを多数所有している国でもある。つまり、ベイシス・バイブルのこと、少しは知っているかもしれないのだ。
そのあたり詳しく聞いてみたいところだけど、あんまりディクスに聞かれたくないなぁっていうのが本音でもある。だってディアンに漏れる可能性が高いし、漏れなかったとしてもディクス本人を巻き込んでしまうかもしれない。
実は、昨晩から思っていることがある。一段落するまで、周囲にはベイシス・バイブルのことは黙っていよう、と。
特に、郵便局の面々。ただでさえ仕事が大変なのに、余計な負担、かけたくないもの。頼られて舞い上がっあたしが、その『ベイシス・バイブル』を見極めずに安請け合いして頼まれたことなんだし。そうでなくとも無能な上司に悩まされているだろうに、これ以上の負担はかけたくない。
だから、できることなら一人で決着をつけたいのだ。もしかしたら、それは、回りに頼りたくないっていう見栄なのかもしれないけれど。
「あたしは大丈夫だから。創村祭の準備もあるでしょ?」
「え……うん、まぁ」
あたしの様子がおかしいと気付いたのだろう。ディクスは曖昧に頷いて言葉を濁した。
「わかったよ。じゃあ僕は、先に戻る。夕方、お見舞いに行くからね。一緒に夕飯食べよう」
くしゃっとあたしの前髪を撫で、立ち上がる。
「ごめんね」
「何を謝ってるのさ」
あたしの言葉にクスクス笑って、ディクスは小さく手を振ると出て行ってしまった。予想していなかたくらいにあっさりと。ごめんねと、何度も胸のうちで呟く。優しくて、気を遣ってくれて――あたしにはもったいないくらいの友達よね。
ゆっくりと、身を起こす。少しまだクラクラするけど、あたしはそれを無視して寝台を降りた。火照った足の裏に、ひんやりした床が気持ちいい。病室用らしいスリッパを借りて、あたしはよろよろと部屋を出た。
当時サイトでやってた別作品に出ていたキャラクターが成長した姿。
郵便屋さん話を終えたら、その話もここに整理していきたいな。
でも手直しに郵便屋以上に時間かかりそう…(笑)。
■ アリエラさん ■
「自分にとって本当に重要なことが何かというのを見誤らなければ、大抵のことはなんとかなるものよ」
他の大陸からやってきて一人で開業したという女医さん。
中年女性のはずなのに若くて魅力的。
同じ『働く女性』としてチェリスを応援している。
少し影のある大人の女性と見られているけど、実は気楽な一人暮らしを満喫している元お嬢様。