6-7 ウィーアー・ポストマン
「ホント、ありがとう」
ありったけの感謝を込めて。
あたしはもう一度お辞儀をする。ディアンは困ったように、あたしのそれをやめさせた。
「え……あ、うん」
しどろもどろになったディアンが、口ごもる。
彼はしばらくもごもごと何か言葉にならない音を発していたけれど、やがて思い切ったようにあたしに向き直った。
「迷惑とかじゃないし、別に……それよりさ、ねぇ。その、さ、聞きたいんだけど」
グラスを傾け、彼は言い出しにくそうに言葉を詰まらせる。
「なに?」
聞き返すと、ディアンは困ったように視線を泳がせる。
視界の隅っこでは、青い光がちらちら揺れる。
「うん、えーと……何から言えばいいんだろ……なんでさ、ちぃは、俺だけ追いかけてきてくれたの?」
一瞬何のことかと首を捻ったあたしは、彼の言わんとすることに気付いて顔が熱くなった。だって、気付いていなかったんだもの。無意識だったんだ。だけど、無意識だったということが、すごく恥ずかしい。
なのに、うまい言い訳が思い浮かばない。
逃げたルティシアはディクスに追いかけてもらって、帰ってしまったディクスはディアンに追いかけてもらって。
それでもあたしは、ディアンを追いかけた。無意識だろうとなんだろうと、それは事実だから。
あたしが真っ赤になってうつむいたのを確認したのだろう、ディアンが気を引くようにあたしの両肩に手を置いた。それでもうつむいたままでいたら、遠慮がちにその手が頭に回され、顔を上げさせられる。
視線がぶつかって、あたしはお互い様だということに気付いた。
「この前の晩、虫の居所が悪かったのも……本当に、わからない?」
ディアンは、一言一言噛みしめるようにゆっくりと問いかけてくる。この状況でそれを聞くのか、こいつは。
あたしは苦笑いした。言い訳させてもらうと、あのときは本当にわからなかった。それが今になってなんとなくわかるのは、あたしも暇というか『そういう』余力のある人間になったということかもしれない。あたしは、うらやましいと言いながらも心のどこかで馬鹿にしていた、そんな暇人になってしまったのかもしれない。
これって、小さいけれど劇的な変化かもね。結果は大成功とはいえない今回の仕事も、きっとあたしを少しはマシな人間に成長させてくれたんだろう。
だって、そうじゃなければ説明がつかない。仕事以外の些細なこと、こんなにくだらなくて、でも決して嫌な気分にはならないことに、いつの間にかこうして意識を向けていて。それに対する言い訳なんて、一つも見つからないもの。
だけどきっと、これは、悪い変化ではないんだ。誰かを大事に思う気持ちに、良いも悪いもあるもんか。それはごく普通の、当たり前のことなんだ。世界を救う勇者とか、なんかすっごい王様とか、そういう人でもない限り、そういう当たり前のことがうんと大事なんだ。当たり前のことを当たり前にできるのが、マシな人間ってやつなのだ。きっと。
少なくとも、信じたい。
あたしはダメ局長かもしれないけれど、足りないところはいっぱいあるけれど、少しずつマシになっているんだって。これはきっとその最初の事件で、これからもきっと、いろんなところが当たり前になって、マシになっていけるのだって。
あたしは試しに、ディアンを見つめていた目を閉じた。
「ちぃ……っ」
焦ったように声を上ずらせたディアンに、がっしと両肩を掴まれる――あの、怪我してるもんでそこを強く掴まれると痛いんだけど。
文句を言ってやろうと瞼を上げたあたしの目には既に間近に来ていた緊張気味のディアンの顔が映り――もう一度、目を閉じる。
……まあ、いいか。痛いのなんてすぐ治る。
暇で余力のある人生か。それも悪くない。
思ったよりも遅いスピードにしびれをきらしたあたしが、わずかに踵を上げて距離を縮めようとつま先に力を入れた――
――その瞬間を、まるで、狙っていたかのように。
「差っし入れだよーっ」
突如わいた大声に、あたしたちはお互いを突き飛ばしてこれでもかというくらい飛び退った。
今更ながらに恥ずかしくなってきて、あたしはしゃがみこんでばくばく言っている胸を押さえる。視界の隅ではディアンが頭を抱えていて――意外と似たもの同士らしい、あたしたち。雰囲気に流され過ぎなかったことに、お互いホッとしているに違いない。
……残念に思う気持ちが皆無であるとは、言えないけれど。
「ディクス……?」
局員用のドアを開け、やたらと笑顔のディクスが酒瓶を何本か抱えてドカドカと入ってくる。彼とも長い付き合いなので、あたしは知っていた。これは作り笑いだ。その証拠に目が笑っていない。なんか怖い。
その後ろから、フリッターをお皿に山盛りにしたルティシアが視線を泳がせつつ入ってきて。
「せっかくですから、その、お料理でも、と……」
応接用のテーブルの上に、自分たちの持ってきた酒瓶やらお皿やらを置く。
「あ……そう、わざわざどうも……」
顔が熱い。耳まで熱い。もしかしたら、きっと指先まで赤くなってるんじゃないだろうか、あたし。
「打ち上げ打ち上げー」
「わーいわーい」
ドヤドヤと、他の面々も手に手にお皿を持って入り込んできて。あたしが引きつった笑顔を固まらせたまま立ちすくんでいる間に、室内はディクスと局員で一気に騒がしくなった。もう、遠くの喧騒も聞こえない。
なんなの、なんなんですか、どうしてみんなここにいるわけ? 仕事が終わって創村祭に行ったんじゃなかったの?
お酒でグツグツ煮込んだ骨付き肉、川魚のソテーとそれにかけるためのオレンジソース、生ハムの乗った各種フルーツ――彼らが持ってきたのは、お皿がないと食べられないようなちょっといい料理。応接用テーブルに所狭しと置かれたそれはとても美味しそう。
美味しそうなんですが、みなさん。
もしかして今のタイミングって……
「さー、みんなグラス持ってー」
フィーアの号令で、一同グラスを掲げる。慌てて飲みかけだったレモネードのグラスを掲げたあたしを、ルティシアが軽く小突いた。
「貴女が音頭を取るんですわよ」
え? あたし? あたしなの? なんでまた?
「何をぼんやりされてますの、当然ですわ。貴女局長でしょう?」
展開に取り残されているあたしは、きょろきょろとみんなを見回す。
局員たちみんなあたしを見ているのに気付いて、頬に引きかけていた熱が戻った。
――何を言えというのだ。この状況で。薄笑いを浮かべたアナタたちに。
「えぇと」
小さく咳払い。
「今日は、お疲れ様――その、えっと、あー……」
一瞬、ディアンと目が合う。さっきまでのあれやこれやを思い出し、ついでに、だいぶ最初の方から不自然に揺れていた青い炎も思い出し、あたしの顔はいっそう熱くなった。うぅ、いたたまれない。
「乾杯っ!」
ヤケになって叫ぶ。喉を鳴らして一気に飲み干すと、他の面々がわぁっと歓声を上げた。
「さすがいい飲みっぷり!」
まあ、レモネードですけどね。
「かんぱーい!」
「おめでとー!」
「残念でしたー!」
「ざまぁ!!!」
何故かみんなに小突かれているディアン。そういえば、なにやらあがった歓声も創村祭にはあんまり関係ないわね。あたしは静かに確信した。
……あぁ、やっぱり覗いてたんだね、あんたたち全員。ほぼ最初から。
「偶然ですわよ」
ルティシアは素知らぬ顔でそう言うけれど――どうなんだか。
怒る気にもなれなくて、あたしはしかめっ面でどっかりと自分の椅子に腰掛ける。傍らに立ったルティシアが、我慢できないというように吹き出した。
のんびりとしたナルの声援を受けた配達隊に次々と酒を注がれ、ディアンは目を回している。ディクスはそんな彼を庇うでもなく、後ずさるディアンのお尻をブーツの底で押し戻しながら騒ぎをあおっていて、フィーアとジークに苦笑されていた。
レモネードから果実酒に変わった二杯目のグラスを、そっと翳す。きらきらと光を反射するお酒に透けて、局の中を見つめた。
笑い合うみんながこの数日どれだけ苦労したかなんて、あたしたち以外誰も知らないんだろうな。
頑張っても頑張っても、どうしようもないことってあるけれど――たとえばそれは今回のようなことであったり、もしかしたらもっと大きな事件だったりするのかもしれないけれど。
大丈夫だ、きっと。みんないてくれるし、あたしはダメ局長だけどきっとこれから立派になれるし――なるように、頑張るし。せめて、足を引っ張らないくらいには。
だって、たとえそれがなんであろうと、あたしたちはこれからも今日と変わらず郵便物を届けなくちゃいけないから。
それはつまり、きっと、今日みたいに嫌なこともいっぱいあるということ。悔しくて、暴れたくて、それができないから我慢するしかない、そんなこともいっぱいある。
それでもあたしたちはそれぞれに郵便物を受け付けて、区分して、運んで、配達する。だってそれが仕事だもの。
だから、他の誰もねぎらわなくても、あたしはいつだってみんなに言うわ。心の底から。
みんな、いつもありがとう。毎日お仕事お疲れさま。
きっと明日もそんなふうに嫌な気持ちを押し殺して仕事に従事する、あたしの大事な部下たちに。
あたしたちみんなの、このスピリーツェの郵便局に――
「――乾杯」
呟きに、喧騒の中のみんなが答えるはずもなく。
だけどあたしは満足してグラスを傾けた。




