6-3 配達した、もの
「本当に届くとは思いもしませんでした、と言っただけなんですが」
「あ?」
不機嫌そうに一歩踏み出したのは、ジン。
確かに仕事として配達をしている彼としては許せない言葉だろう。別に配達には特別携わっていないあたしだってムッとしたもの。こんなに頑張って届けたのに、まるで届かないことを前提にしているみたいな言い方するなんて――
――届かないことを、前提にしている?
あたしは唇を噛んだ。
あたしが気付いてしまったんだ。あたしなんかよりよっぽど察しの良いみんなが気付かないわけがない。
「ちょっと――聞き捨てならないわね」
案の定、眉間に深い皺を刻んだフィーアさんが吐き捨てる。やっぱり、あたしと同じ考えに行き着いたんだわ。声がちょっと怖いもの。
本当に大事なものなら――『それ』がベイシス・バイブルの写本なのだとしたら、届かないのは困るはず。だけど、もし、『それ』は囮で、届かないことを前提にしているとしたら?
つまり、あたしたちが必死になって守ったものは――
考えたくなくて、あたしは俯いた。ゆっくりと、頭を振る。
「はじめから僕らが配達することなんて期待していなかった――そういうこと?」
呟かれたユウキの言葉を、フィルさんが訂正する。
「いえ? 期待していましたよ。あなたたちならきっと大騒動を起こしてくれるだろう、と」
殴りかかろうとしたのだろう、ぎゅっと手を握り締めて飛び出したジンを、両脇にいたユウキとケインが掴んで止めた。それをぼんやりと眺めるあたしの耳にも、フィルさんのある種残酷な言葉は突き刺さる。それは痛くて、考えたくなくて、だけど至極もっともな言い分だった。
「予定では、もっと大騒ぎになって他の連中の目も引いてもらうつもりでしたが。局長さんのような女の子なら馬鹿騒ぎが期待できると思ったのですがね――まぁ、あいつを足止めできただけでも充分ありがたいことでしたよ。その間に、ベイシス・バイブル九分冊の写本はきちんと雇いの運び屋が届けてくれましたから。あなたたちにもご苦労をおかけしましたね。ありがとう」
嬉しそうに言って、一人でうんうんと頷いている。
あたしはちっとも嬉しくない。つまり、あたしがベイシス・バイブルのことを知れば分別なく大騒ぎすると思われたわけだ。職務とかそういうの、全部むしして大騒動を繰り広げると、そう思われたわけだ。あたしの仕事に対する考えなんて、そんなもんだと思われたわけだ。あたしが寝る間も惜しんで、同年代がキャッキャと喜んでいるいろんなことにそっぽを向いて、鬼秘書にどやされながらなんとかかんとか頑張っていること。そういうのが、その程度だと、思われていたわけだ。
それって、すごく腹立たしい。腹立たしい、はず。
あぁ、だけど、なんだかドッと疲れて怒る力もわいてこない。確かに心のどこかに不安はあったけれど、いざそれが真実になってしまうとものすごくむなしい。
「これは、囮です。だから、正直なところ必要なものではありません」
にっこりと、フィルさんは笑った。
嫌な予感がした。
あたしはとっさにみんなに仕事に戻るように呼びかけようとしたけれど、なんていうか弱い心が邪魔をして、喉が詰まってしまった。あたしに、呆けている隙なんてなかったのに。あたしが呆けていては、いけなかったのに。
後に、あたしは死ぬほど後悔する。フィルさんの依頼を独断で受けたことよりも、ここでみんなを帰局させなかったのは、最大の失敗であると。
だけど、できなかった。甘ったれたことかもしれないけど、あたしだって、ショックだったんだもの。
「しょせん、ただの紙束です」
フィルさんは当たり前のように言い放った。
彼は他には特に言うこともないようで、よれよれになっている上着のポケットからシガレットケースを取り出して、取り出したマッチで開けられることさえなかった小包に火を点ける。
たぶん、悪気はない。悪気はないのだ。
けれど、だからこそ凶悪だよ、この人。
言葉にできない。炎に包まれた小包が地面に落ちる音。あたしたちが休み返上で頑張って頑張って守りきった、ベイシス・バイブルだと思っていたものの、成れの果て。
本当は、大声で叫びたかった。あたしのやってきたことはなんだ。あたしがみんなに強いたものはなんだ。こんなもののために、あたしはみんなに危険を押しつけたのか。愚かなことと知っていて、みんなはあたしに協力してくれたのか。
ふざけんな。
ふざけんな――だけど、フィルさんに悪気はない。だって、これが彼の作戦なのだから。愚かなのは、あたし。
「ふざけるなっ!」
ジンが、今度こそ飛び出す。ユウキもケインも、今度は止めなかった。呆然としているナルの傍らにいたフィーアも鋭く睨みながら男に歩み寄る。
「つまり、あんたは私たちを囮として利用しただけ――そういうことなの?」
フィーアみたいなボーイッシュな美人がすごんでみせると、なかなかの迫力だ。さすがのフィルさんも驚いたように目を丸くしたが、その表情は、何故フィーアが怒っているのかわかっていない様子。
「許せないわぁ!」
いつもはお客に何を言われてもゆったり聞き流しているナルが珍しく詰め寄り、飄々と煙草を吸っている印象が強いジークも一歩踏み出そうとする。
ここまできてやっと慌てたのは、フィルさんだ。
何度も言うようだけど、表情や態度から推測するにこの人には悪気はないんだろう。あたしたちを利用したことにも、そのあたしたちの前でこんなに無邪気に小包を燃やすことにも。きっと、あたしたちに不愉快な思いをさせているのにも気付いていないんだわ。ベイシス・バイブルの写本とやらを手にすることだけにいっぱいいっぱいで、あたしたちのことまで考える余裕なんてないんだろうね。
――ああ、あたしにはこの人を責める権利はない。今日のこの配達のことでいっぱいで、みんなを怒らせたこのあたしには。
「やめて」
やっと言葉にした音は、あたしの心みたいに、ひしゃげていた。




