5-8 創村祭に感謝を捧げ ~お粗末、結末~
「も……もう、ダ……メ、ゆ、るし……て」
ああ、どこかで見たと思ったら性少女以下略のセリフだわ。
けれどあたしの言葉は、いかがわしいセリフでもなんでもない。走りすぎて足はがくがく息もたえだえ、朦朧とする意識の中で発せられたなんともかわいそうな言葉なのだ。
ジンの方ももうあたしをからかう余力もないらしく、荒い息の中で男を見失わないように必死に走っている。
あたしたちの追いかけっこは、それくらいに随分と長い間続いていたのだ。
半泣き状態のあたしと厳しい顔つきのジンによるハイスピードな追跡は、フィーアさんとの無線を切ったあとから休むことなく続いていた。ディアン……いや、この際誰でもいいから、助けてほしい。助けなくてもいい、この追いかけっこを止めてくれ。
あたしの願いが、男に届いたのだろうか――いや、あんまりそうとは思えないけれど。
「う、うわあぁあああぁっ」
男が、予告もなく急に立ち止まった。
「わっ」
「ぎゃあぁああぁああっ」
止まりきれなかったあたしとジンは、手を繋いだまま男に突っ込む。そこまで大柄ではないあたしたちでも、二人分、しかも勢いが付いている状態では、男の背中が受け止めてくれるわけもなく。
「きゃあぁあああっ」
「やーんっ」
聞き覚えのある、女性の声が二つ。
状況を把握している暇なんてなかった。我に返った頃には全身に激痛が走り、あたしは何故か身体が動かないという大ピンチ感がひしひしと身に染みる状況にいた。
「い、いたたたたた……」
そんな声が、上から聞こえる。ジンの声だ。
彼の声が離れて身体が急に軽くなったので身を起こすと、あたしはどうやら人間でできた山の上にいるみたいだった。
すぐ下にはスピリーツェでは珍しい金髪の巻き毛があって、耳に届くのはやたらと間延びした緊張感のない唸り声。
って、ルティシアとナルじゃないか。どうしてこんなところにいるのだ。
混乱したままあたりを見回す。
行き止まりに程近い路地の奥に、あたしたちはいた。
あたしたちっていうのはつまり、こめかみを押さえつつ頭を振っているジンやあたしの真下で伸びているルティシアや、のんびりと唸っているナル、それにすべての元凶である男のことで。
あたしはとりあえず、ルティシアとナルと男の山からずり落ちるようにして地面に下りる。なんだか、まだ頭がくらくらするわ。
この状態から見て……ルティシアとナルにぶつかった男にジンとあたしが突っ込んで、ごろごろ転がったってとこかしら。
でも、なんでルティシアとナルがここに? 二人とも郵便局にいるはずじゃないか。ていうか、窓口はどうした窓口は。
ばさりと音がして、路地の入り口から風が吹き込んでくる。路地の中に降りるには翼が邪魔だったのだろう、ミルッヒが少し見切れた状態で顔を覗かせた。あたしと目が合って、キュイィと啼く。
「て、ちょ、なにやってんのみんなして……大丈夫?」
ミルッヒを降りてきたディアンが路地の中に入ってきて、半ばうんざりした顔で呆然とこっちを見ている。あたしは混乱でくらくらする頭にてをやりながら、その姿をぼんやりと見つめた。
確かにこの、全力疾走の挙句の果てに作られた、人でできたおダンゴはちょっとみっともない。呆れたくもなるだろう。しかも、みんな、息が切れているし。
ふと視界の隅に小包が映って、あたしは我に返った。隅っこに、『ジン』と名前が書いてある。きっと、これが件の『性少女以下略』だ。
「あ……」
すぐ目の前にある小包に手を伸ばした途端、ふとフィーアの言葉を思い出す。
ジン以外手を出しちゃ、ダメ……?
どうしてかな、でもこれ、拾わない方がいいのかな。
座り込んだままぼんやりとしているあたしの腕が、急に強い力で掴まれた。
***
ものすごい力で、急に怪我をした腕を引っ張られたのだ。当然、傷口に熱いような痛みが走る。
「痛っ」
いきなり引っ張り上げられることに嫌な予感がしてあたしを抱きすくめる人を見上げたけれど、それはあの男ではなくディアンだった。
安堵の息をついてしがみついた腕はどこか緊張しているようで、首を傾げたあたしはいつもの彼らしくない表情にやっと気が付く。
彼は、厳しい目で前方を睨んでいたのだ。
視線を追うと、さっきまであたしがいた位置近くに刃物を持ったあの男がいて、ディアンと睨み合っていた。ということは、あたし、また狙われちゃっていたのだろうか。モテ期か。このしつこさは、人生最大のモテ期か。モテたって嬉しくないわこんな男。
こくんと生唾を飲み込み、ディアンの腕から離れる。
『性少女以下略』の包みを拾い上げた男は、血走った目でこっちを睨み続ける。まあ、これだけあたしたちに振り回されているんだから、いい加減頭に血が上っても仕方がないよね。うふふ。ざまあみろ。
一方、うずくまって唸っていた状態からもそもそと動き出したジンが、男の背後で目を回している他の二人を揺り動かしていた。でも、二人はまだぼんやりしている様子。
あたしは唇を噛む。時間稼ぎをした方がいいかもしれない。相手は刃物を持った男で、しかも、守るべきは女子二人。少々分が悪い。
適当なことを言って気を引こうかと口を開きかけたけれど、あたしが何か言う前に、ジンの靴がカツンと音をたてた。
「動くなっ」
ジンの動きに気付いた男が、身体全体で振り返って刃物を振り回す。ジンは女子二人を助け起こしきれないうちに跳び退った。
ああ、もう。やっぱり間に合わなかった。あたし、結局何も言えないままにもう一度唇を噛む。
ルティシアはなんとか距離を取ることに成功したみたいだけれど、普段からのんびりしているナルはいとも簡単に男に捕まってしまった。突きつけられた刃物の切っ先を、怯えたように凝視している。
「ナルになにすん……っ」
飛び出そうとしたあたしは、ディアンに押さえつけられる。
チッと舌打ちして、あたしは男を睨みつけた。確かに飛び出したらナルは危険に晒されるのかもしれないけど、それでも許せないし、許したくない。
「ナルをどうするつもり」
精一杯低い声で言い放つ。しかし無理矢理作った声は、野良犬が歯を剥き出しにしているときのような音となっただけだった。だから、男はあたしの問いかけには一切答えない。
「一歩でも動いてみろ、こいつを切り裂くぞ」
そう言ってわずかに刃物を揺らしたからだろう、ナルが言葉としては意味を成さないような声をあげた。そりゃ、思わず悲鳴をあげるほどに怖いだろう。
怖いだろう、けれど。
――たぶん、ハッタリだ。
だって、今、ナルは唯一の人質なのだ。
男から見て路地の入り口方向にいるあたしの後ろにはディアンがぴったりとくっついているし、ルティシアとジンもあたしたちに割と近い位置で立っている上に男のナイフを持っていない側……つまり利き手の逆側をキープしている。路地の入り口はミルッヒが目をくりくりさせながらこっちを見つめているし、反対側は行き止まり。
彼女を殺したとしたら男は人質がいなくなってしまうわけで、だけど逃げ場はなく、立場が悪くなるだけだ。
なのに。
そんなのは承知のうえなのに、あたしは動けない。刃物で脅されるのがどんなに怖いか、切られるのはどんなに痛いか、あたしは知っているんだもの。つい最近、知ってしまったんだもの。
ディアンとジン、ルティシア、あたしの四人に睨みつけられている男は、それでも動けないあたしたちを嘲笑うかのようにナルを引きずって壁際に寄った。そして壁に背中を預けたまま、じわじわと路地の入り口の方へと移動していく。そのじわじわがわざとらしくて、ものすごく苛々する。
このままじゃ、『性少女マリア以下略』を持って逃げられてしまう。……あれ、それは別にいいのか。いやジンにはよくないのか。ていうかいっそマリアちゃんを連れて逃げてもらいたい気もしてきたけれど、ナルは置いていけ、ナルは。
決して広いとは言いがたい、近隣住民のがらくた置き場と言った感じの空間だ。ミルッヒが翼を広げて立ち塞がれば簡単に通せんぼできるけど、そのぶん危険が伴う。ミルッヒは「どうするの?」と問いかけるようにくるくると喉を鳴らしている。それに気付いたディアンが、あたしを伺うように肘でつついてくる。
……ああ、どうしてくれよう。
「そこまでだ!」
怒りで我を忘れそうになったとき。
なんだかやたらとかっこいい声が張り詰めた空気を割いた。
***
声の主があっという間に路地に駆け込んでくる。それなりに引き締まっているディアンやジンと比べても、屈強な男――
――たち。
ムッキムキの男たち。
彼は、彼ではなく、彼らだったのだ。
お揃いの制服を着て、手にはそれぞれ長めの棍。肩に縫い付けられたワッペンの紋章には見覚えがある。
――自警団?
彼らがやってくると、路地はムキムキで急に狭くなった気がした。こんなにたくさんやってきたら、確かに路地は塞がるけれど、この人たち自身も動きづらそうだなぁ。
「この男です、泥棒はっ!」
ムキムキの最後にこの場に駆けつけたのは、留守番をしているはずのフィーア。彼女がナルを人質に取ったまま突然のことに動くことができないらしい男をびしっと指差す姿は、ムキムキの間から見えた。
「そうです、俺の大事なものを盗みました! 今手に持っているやつです!」
「しかもナルさん人質にとってます! 最低です!」
「人でなしですわよね、それになんて野蛮な」
瞬時に物事を理解したらしいジンとディアンとルティシアが、フィーアと同じように男をびしっと指差し口々に言い放つ。
状況がつかめていないのは、どうやらあたしと男だけみたいだ。
何を言えばいいかわからず、あたしはもじもじとみじろぎした。
一方、非難の視線を全身に浴びた彼は、口をあんぐりと開けた間抜け面。
「ど……どろ……」
自警団の皆さんは、そんな男をぐるりと取り囲む。男は背中を壁に預けているから、今度こそ逃げ場はない。
男の手が緩んだろう、ナルがへなへなとへたり込んだ。
「ナル!」
ムキムキをかき分けて駆け寄り、彼女の背中を支える。それに気付いたのだろう、男と自警団の間に緊張が走ったのがわかったけれど、あたしは全部無視してナルを抱き寄せた。
ムキムキたちは男の前に割り込むようにして動き、あたしたちを後ろへ追いやる。ムキムキの林を抜けると、そこは安全な場所だった。
「……な、なんとかなった……」
あたしは安堵の呟きをもらす。しかし一番危険な場所にいたナルはやはりそれどころじゃないようで、まだ小さく震えていた。申し訳なさにあたしは思わず抱きしめる。お茶と花の混じった香りが、ふわりと胸に飛び込んできた。
ここまで来てやっと安心したのだろう。ふえぇ、と、ナルは情けない泣き声を上げる。「ごめんね」と呟きながら、あたしはその背中を撫でた。
「何を盗まれたのですか?」
「俺の大事なプレミア本ですっ!」
ムキムキした問いかけに即答したジンに目を向ける。彼の答えに「これですか」と自警団員の一人が男から取り上げたダミー小包の紙を開けたところだった。
まるで何度も開かれたかのようにくたびれた表紙に書かれた文字は、『性少女マリア~秘蜜の花園~』。くたびれてはいても、きちんと読み取れる。
包みの中から出てきたものを見て捕まえられたままの男は目を剥き、ムキムキたちは呆れたような笑いを浮かべた。
そりゃそうだろう。出てきたのは、プレミア付きとは言えど結局のところただのエロ本なんだもの。
「じゃあ……お返しします」
差し出された本を嬉しそうに受け取り、ジンがふぅと息を吐く。その安堵したような態度とは裏腹に、男は狂ったように暴れ始めた。
「違う! 違う! そんなもの盗む気じゃなかった!」
「盗んでいるだろう、実際!」
うん、そりゃそうだ。ムキムキな皆さんがおっしゃることに、ひとかけらの間違いも無い。エロ本だろうとなんだろうと、奴は実際にマリアちゃんを盗んだのだ。
「もういい、詰め所で話を聞いてやる。ほら、歩け!」
ムキムキたちが、暴れる男を無理やり押すようにして連行する。
彼らにとっては、往生際の悪い犯人が暴れるだなんてよくある話なのかもしれない。その一連の流れは特筆することはなにもないくらいにスムーズで、あっという間だった。
あたしたちはそれを無言で眺めていた。ずっと――見えなくなっても。
「違う……違う!」
見えなくなっても、聞こえてくる叫びが遠く消えるように小さくなっても、しばらく立ちすくんでいた。




