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POSTAL HEART  作者: KKN
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4-2 世界の真実はまだ見えない

 綺麗な指が伸びてきて、あたしの手に触れる。ハッと我に返ったあたしは、ずっと遠くまで行ってしまっていた思考を引き戻した。

「生傷が絶えないわねー、あなた」

 アリエラさんが笑いながら、布で水を拭ってくれる。少し痛かったけれど我慢して、あたしは苦笑を浮かべた。

「この二日で一生分の生傷作る勢いですよね、あたし」

 青っぽい消毒液で火傷を洗ってくれながら、アリエラさんはつられたようにくすりと笑った。

「仕事の調子はどう? 創村祭前だし大変でしょう?」

 心臓が跳ね上がる。

 アリエラさんには当たり障りのない世間話なのかもしれないけれど、今のあたしにとってはあまり触れられたくないことだ。咄嗟になんでもないふりをしたけれど、あたしの様子がおかしいのに気付いてしまったのかアリエラさんは処置の手を止めた。

「どうしたの?」

「別に……いえ」

 苦笑を浮かべ、あたしは言葉を濁した。アリエラさんがしばらくこっちを見つめていたのはわかったけれど、あたしは目を合わせることなく俯く。

「ベイシス・バイブルって……そんなに重要なものなんでしょうか」

 その言葉は、無意識のうちに口をついていた。あたし、ハッと我に返って慌ててあたりをうかがう。

 あたしたちのいる場所は、割と見通しが良い。人影はない。側には診療所の建物があり、窓が見え、そこからカーテンがひらひらと風ではみ出している。人影はないから中に人がいるとは思えないし、いたとしたらアリエラさんが患者をほっぽって出てくることはなかっただろう。もしも建物の中で物陰に潜んでいるとしたらこんな独り言みたいな呟きでは聞こえるはずがない。

 ようやく安心。あたしは息をついた。

 そりゃ、アリエラさんも巻き込んでしまうとか考えないわけじゃない。局員以上に無関係だし、巻き込んではいけないと思っている。

 それでも、どうやらあたしはその疑問をどうしても口にしたかったみたいだ。その証拠に、呟くだけで随分と胸がスッとした。

「世界について書かれていようとなんだろうと、たかが本じゃないですか」

 頬や肩、腕の傷が疼く。ディアンが助けてくれなかったら、もっとたくさん怪我していたかもしれない。

 ふふ、ディアンと言えば、びっくりしたなぁ。本気で怖かったぞ、マジギレ状態の奴は。みんなともギクシャクして、嫌だった。ウチの局は、局員の仕事能力とそして人間関係がとても良いのが自慢だったんだもの。

 そんなみんなも、もうベイシス・バイブルの配達のことを知ってしまった。あたしみたいに、見知らぬ人に切りつけられてしまうかもしれない――

 あれもこれも、みんなベイシス・バイブルのせいだなんて。

 普通、考えられる? たかだか本一冊が、こんなにあたしを――あたしたちを、苦しめているだなんて。なんか、すごく悔しい。

 アリエラさんはしばらく窺うようにこっちを見つめていたけれど、やがてついと目をそらし、傍らに持ってきていた処置道具から布を取り出してそれに膏薬を塗り始めた。まるで天気の話でもするみたいに、何気ない口調で言う。

「なんだか随分とベイシス・バイブルにこだわるのね」

「それは……えっと」

 膏薬を塗りたくられたせいで冷たくてぺっとりしている布を火傷に置き、布で固定する。お医者さんなんだから当たり前だけど、アリエラさんは慣れた手つきで処置を終えるとくみ置きの水で手を洗った。

 一連の動作を眺めながら、あたしは布の巻かれた手をもう片方の手で覆う。軟膏が塗ってあるとはいえ異物であるのにはかわりがない布きれが擦れて、少し痛い。

「あなたにとって、ベイシス・バイブルってなぁに?」

「……よくわからん本ってとこですか」

 とりあえず本音を簡潔に述べると、アリエラさんはくすくすと笑う。

「それでいいんじゃないの?」

「え? それでいいって――」

「世界がどうのなんて、関係ないじゃない? それが重要かどうかは、局長ちゃんが決めるべきだわ」

 あたしに向かって口元を綻ばせ、アリエラさんは目を細めた。笑顔とは少し違う感じがする――あたしを見ているようで、もっと遠くにある何かを見つめるような、そんな眼差し。

「局長ちゃんを見ているとね、昔を思い出すのよ。この村へ来た頃」

 この村へ来た頃と言われても、あたしはおそらく生まれていない。けれど、彼女が他の大陸から渡ってきた移民で、単身この村にやってきて開業したのだということは村の中じゃ有名な話。

 口で言うだけなら簡単だけど、信頼を勝ち取るまでは色々大変だったんだろうなぁと思う。確かにあたしは若いながらに局長なんていうポストに就いて日々バタバタしているから、働くうら若き女の子っていう意味では似ているのかもしれないかな。もっとも、ゼロから始めたアリエラさんに比べれば、あたしは随分楽をしているけれど。

「余所者だとかいう人もいたけれど、どこの町出身かなんて私にとっては重要じゃなかったの。私にとって大切だったのは、この村には医者がいなくて、私は開業先を探す医者だったということ」

 怪我をしていない方のあたしの肩にそっと手を乗せ、アリエラさんは柔らかく微笑んだ。

「ただでさえ毎日毎日仕事に追われるせいで目が回ってわからなくなってしまうのに、そのうえ他にも何か自分を悩ませるようなものがあったりすると混乱するのもわかるわ。でも自分にとって本当に重要なことが何かというのを見誤らなければ、大抵のことはなんとかなるものよ」

 アリエラさん、意外と大雑把なんですね。少しだけ呆れて見上げたあたしを、彼女は悪戯っぽく覗きこむ。

「あら。大雑把でも何でも、人生の先輩が言うんだから間違いないわ」

「――はい」

 あたしにとって、重要なもの。

 うーん、正直、わからない。ならせめて、ベイシス・バイブルは重要なのかだけでも――ダメだ、わからん。

 混乱しているとかそういうんじゃなくて、本当にわからないのだ。アタシにとって本当に重要なこと。それは何?

 考え込みそうになって、あたしは頭を振った。今はだめ。

 火傷は少し痛むけれど、ベイシス・バイブルの価値もわからないしフィルさんの態度も少し気になるけれど、今はそれでもいいや。嫌でも明日はすぐそこだもの。うじうじ悩んだりするより、万全の体調で明日に挑もうじゃないの。


 結局、料理当番の時間は終わってしまっていた。おばちゃんたちの顰蹙を買うかなぁと思ったけれど、考えてみれば大丈夫って言うあたしを無理やり診療所に詰め込んだのはあの人たちだもの。文句言われる筋合いはない。

 あたしはアリエラさんにコーヒーとお菓子をゆっくりたっぷりご馳走になって、明日の準備に浮き足立った人たちの行き交う道を局へと急いだ。


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