4-1 局長と学者のずれた世界
ため息をついて、がっくりと肩を落とす。
生成りのカーテンを窓からはみ出させる風は、どこか消毒の匂い。ここは診療所の庭、ポンプ式の井戸のある洗い場だ。この前診てもらったばかりだっていうのにまたもやお世話になってしまった。アリエラさん、面倒かけてゴメンナサイ。
いつの間にか水が止まっていた事に気付き、慌てて水を汲み上げる。流れ出る冷たい水に左手を浸し、あたしはもう何度目かもわからないため息をついた。
スピリーツェ創村祭、女たちの主な役割は料理作り。舞台設営と違って、生ものだから創村祭の前日に全員がかりで作るの。もう食べ物を見るのも嫌ってくらいたくさん作るんだ。なにせ、子供から大人まで村中の人間が好き放題飲み食いするのだ。その量の多さときたら、半端じゃない。
もっとも、全員がかりと言っても村中の女が一日中料理できるわけじゃない。あたしたちのような働いている女性もたくさんいるし、ケインの奥さんみたく乳飲み子を抱えた人だっている。それから、風邪をひいちゃったとかいう人が料理を作るのも迷惑な話。だから一日中料理に立ち会うのはほんの数人で、残りの人たちは交代制だ。
ナルとルティシアは朝一番に材料の野菜を洗いに行ったし、同じ時間にはおそらく肉やら魚やら捌かれていたことだろう。二人が郵便局に帰ってきてから出掛けたフィーアは、帰ってくるなりたまねぎの匂いがぷんぷんする手をごしごし洗いながら、しばらくたまねぎなんて見たくないとぼやいていたっけ。
あたしはというと、下ごしらえをちょっと過ぎたあたりの段階に呼ばれていた。あたしもナルとルティシアやフィーアと同じシチューを作る班で、ナルたちが洗ってフィーアが切った材料を炒めたり、もう前の順番の人が火にかけておいたストックの面倒をみたりする。
料理は、苦手じゃない。けれど、あたしは少しぼうっとしていた。どうしても、気になることがあったのだ。そうでなくても、寝不足だし。
ただ、ふとしたきっかけでふらついて、慌てて左手を伸ばした先が下ごしらえのために熱せられた鉄板だったのは、たぶんあたしの運が悪いからだろう。鉄板の面ではなく、持ち手だったのは、日頃の行いが良いからだ。
あたしの運の悪さと日頃の行いの良さが戦った結果、左手を火傷してしまった。小指側の手のひらで、下の方。鉄板の持ち手に触っただけとはいえそれなりに赤くてひりひりするけど、その程度。
そもそもたいしたことはないし、すぐに手は離したし素早く冷やしたし大丈夫だと言ったんだけれど。
傷が残るだのお嫁に行けないだのおばちゃんたちに大騒ぎされてあれよあれよという間に診療所に運び込まれてしまった。おばちゃんパワーってすごいよ、言い返す隙も何もありゃしない。
アリエラさんは、あたしの手を見てしばらく冷やしていなさいと言った。水ぶくれができて赤くなっていて――正直、とーっても痛かったのだけれど、これなら仕事の師匠にもならないと思うし跡も残らないわよって言っていたことだし一応安心している。
まったく。不覚だわ、こんな怪我しちゃって。顔にも肩にも腕にも手にも―-身体中ズタボロじゃない。嫁入り前の乙女なのに。
あたしはため息混じりに、こんな怪我を負った原因とも言える出来事に思いを馳せた。
***
「こんにちは」
親のカタキってくらい必死に野菜を炒めているあたしに、話しかけた人がいた。聞き覚えのない男の声で、野菜を炒めるのにいっぱいいっぱいだったあたしは正直無視してやろうかとも思ったのだけれど一応顔は上げてみて。
そこにいた人に、少なからずびっくりしたんだ。
ボサボサの髪、知的な顔立ち。この二日間、いろんなことがありすぎたからだろうか。一昨日会ったにもかかわらず、フィルさんをなんだかとっても久しぶりに見た気がして、あたしは料理の手を止めて集団を少し離れた。フィルさんがあたしに声をかけるのだから恐らくベイシス・バイブル絡みだろうし、だったら他人にはなるべく話を聞かれたくないっていうのが本音。
「フィルさんは設営?」
「いいえ、図書館へ行くところだったんですけど貴女が見えましたから」
彼の腕にはベルトで止められた本が数冊抱えられていて、あたしはさすが学者さんだと感心した。だってあたしなら、どうせ読み終えられないんだろうからわざわざ本を借りようだなんて思いもしないもの。本を一冊読み終わる間に、いったいどれだけの書類が仕上がるだろう。
「調子はどうですか?」
「調子って――あぁ、『あの』こと? うん、平気。内密に進めてるから安心して。わりと順調」
どうだ気が利くだろうくらいの勢いで、あたしはそう言った。だってそうでしょう? 誰に狙われるかもわからない貴重なものを、極秘裏に取り扱う――当たり前のことかもしれないけど、とにかく依頼した方のフィルさんにとってはありがたいことじゃない? ちょっとくらいアピールしたっていいじゃないか。
「はぁ……そうなんですか」
だから、すごくそっけなく言われたあたし、拍子抜けしてしまった。
一応弁解させてもらうと、別に感謝されたかったわけじゃない。こっちだって仕事なんだから。だけど、怪我をしてみたり局員たちと喧嘩してみたり睡眠不足で若いお肌に隈を作ってみたりしてるわけ、こっちも。少しくらいねぎらいの言葉をかけてくれたっていいじゃないのよ。たとえそれが社交辞令でも。
そんな気持ちがあったからだと思うんだけど、思わず憮然とした顔をしてしまったあたしは、なにやら考え込んでいる様子のフィルさんを問い詰めた。
「この傷も、こっちの絆創膏も……あたし襲われたんですよね。心当たりあるはずですよね、一体誰なんです?」
「襲われた――そのことを自警団には?」
ハッと顔を上げたフィルさん、逆にあたしを問い詰める。怪我した方の腕を掴まれて痛みに怯んだあたしは、やましいこともないのに口ごもってしまった。
「安心して。届けてないわよ――極秘って言ってるじゃない」
あたしは、この判断間違っていないと思うの。だって、フィルさんだってベイシス・バイブルを届けてもらいたいはずでしょう? 自警団に届けたら狙っている奴はどうにかあしらえるかもしれないけど、ベイシス・バイブルのことを根掘り葉掘り聞かれるに決まっているもの。下手をしたら、創村祭で忙しい時期にやっかいごとを村に持ち込むなと配達日の変更を要請されるかもしれない。
「そうですか……そうなのですか……」
なのにフィルさんは微妙な表情で、あたしが呼び止めても上の空なまま歩いて行ってしまった。
たった、これだけ。別に怪しげな言葉のやりとりなんてなんにもない。けど、何にもないからこそ、違和感が拭えなかったのは事実。何がおかしいとか何が怪しいとか上手くは言えないのだけれど、あたしの胸にしこりを残すにはじゅうぶんなやりとりだったのだ。




