3-6 そろそろ今日をはじめよう
なんだか、妙に鼓動が早い。
あたしはみんなに送り出されて局を出ると、創村祭の準備の人たちでこんなに朝早くから既に賑わいはじめているスピリーツェの村を走った。全力疾走しているからどきどきしているのか、それとも――
――恐いのか。
恐いのなら、何が恐いのだろう。こうやって一人で出歩くとまた誰かに襲われそうで恐い? それとも、珍しく本気で声を荒げていたディアンが、恐い?
いや、それは違う。たぶん違う。だって、ジークはディアンとぶつかったとだけ言っていた。普段はたいして怒りもしないくせに珍しくあんなにキレて飛び出していったディアンに遭遇したのに、ぶつかった、と、だけ。
局を飛び出したディアンの向かいそうなところといえば、どう考えても自宅。仕事が終わったんだから、家に帰って寝るのが順当ね。
「ぅわっ」
ディアンの家への近道を選んで角を曲がったあたし、その勢いのまま思いっきり転びそうになる。足元につまずいたというより、膝のあたりから思いっきり脱力したのだ。
考えてもみて欲しい。さっきまで険しい顔で大喧嘩していた男が、果物籠を持つおばちゃんからリンゴをもらってこの世の幸せここにありみたいな顔でにっこにっこと笑っているのだ。いろいろ心配していたあたしとしては、どきどきしていた心臓が止まるほどの脱力だった。
思わず立ち止まって両膝に手をつき肩で息をしていると、あたしに気付いたのか目が合ったディアンが数度瞬きをした。
「ちぃ」
しゃく、やたらと爽やかな音をたててリンゴを食べつつ、彼はこっちを向いてあたしを待っている。いつも通りのんびりのほほんとしたその様子は、ついさっきまでの彼からは想像もつかない。なんなのよー、そのギャップは。
あまりに気が抜けたのと走ってきたのと、その両方でぐったりしてしまったあたし、肩で息をしながらうなだれてしまった。しゃくしゃくとリンゴを食む音が微笑ましいぐらいほのぼのと耳に届くのが、少しだけ癪に障る。
こいつはもー。人の気も知らないで。そりゃ、あたしも悪かったけどさ。
心臓に悪いから、やめてよそういうの。
「遅かったから、ちぃにはやんない。全部食べちゃう」
あっという間に食べ終えたディアンは、近くの井戸で手を洗いながら冗談めかして言った。
「もうキレるのはおしまい?」
「まぁ、怒ってるけど」
くしゃくしゃのハンカチで手を拭いながら、ディアンは肩を竦める。飄々としているそのさまは、どう見ても怒っているようには見えない。
「みんなは?」
「始業準備に決まってるでしょ? 可哀想なくらいおろおろしてたわよ。あんたがダッシュでいなくなるから」
「あは、やっぱり」
みんなの反応どころかあたしの反応にさえたいして驚きもないようで、ディアンは小さく肩を竦めただけだった。
「やっぱりじゃないわよ。感謝はしてるけど、ああいうやり方って心臓に悪いからやめてよね」
「自業自得。たまには痛い目みればいいんだよ、人の気も知らないで」
にぃ、歯を見せて笑い、ディアンは得意げに胸をそらした。
「ちぃと一番仲良い俺がさ、あんだけ怒ればドン引きするだろうしね。みんなの言いたいこと、結局俺が先に言っちゃったわけだし。だからもう誰も怒ってなかっただろ? 俺ってスゴイ!」
「……思いっきり、同情されたわ」
「おー、計算通り! 褒めて褒めて」
なーにが、計算よ。
思わず素でぶーたれて唇を尖らせると、ディアンは心持ちかがんであたしと視線を合わせた。
「ああいうゴタゴタって、長引くと悪化するしね」
にっこり、笑ってこっちを覗き込む瞳はやっぱり少しばかり不機嫌を湛えていて、けれどどこか悪戯っぽくて。
あぁ、と、ため息をつきたくなる。
ディアンは、優しいのだ。何のかんの言っていつもあたしに甘い彼があれだけ怒れば、そりゃみんなはそれ以上怒る気も失せてしまうだろう。ディアンが本気で怒ることがあたしにとって一番こたえるはずだって、たぶんみんな知っているから。笑えることに、あたし自身は全然知らなくてついさっき気付いたのだけれど。
だから、ディアンはあえてあんな役を買って出たのだ。人の話を聞かずに、あたしの都合も考えずに、短気にキレる役柄を。
そりゃ、最初は気付かなかった。だけど、ジークがディアンとぶつかったって言っていたのに不機嫌だったなんて一言も言ってなくて、だからおかしいと思ったんだ。いつもぼんやりしているディアンが不機嫌だったら、目立つはずだもの。それをスルーするなんてあんまりあり得ない。ということは、なんかあるんだろうと思ったんだ。
バカだね、ディアン。変なところで気がきいちゃって。そうやって甘やかすから、あたし図に乗るんだよ。気付いてないんだろうけど。あたしは図に乗っているんだ。
「……びっくりした」
思ってはいても、緊張はしていた。でも、それが確信に変わって、あまりにほっとしたあたしは俯いてしまう。
「ディアンがあんなに怒るなんて、思わなかったもん」
「演技演技。ちぃはちゃんと気付いたんでしょ? まぁ、虫の居所が悪かったってのもあるけどさ」
虫の居所が悪いくらいで、あそこまで怒らないでいただきたい。いや、マジで。憮然として、あたしは思わず呟いた。
「……ちょっとは本気で見捨てられたかと思ったのに」
「ひっでー。俺がそんなことするわけないじゃん。ホント信用ないな、俺」
リンゴの匂いのする手で前髪をかき混ぜられ、あたしは申し訳ない反面ふつふつと怒りがわいてくる。昨日話をしようと思ったあたしを突き放したのはどこの誰だ。
「悪かったわよ――けどあたし、昨日の夜ディアンには話そうとしたんだからね。聞かなかったのはディアンの問題だと思うしっ! あんなに怒鳴ることないと思う!」
ねぇ、そうだよね? あたしは間違ったこと言ってないよね? あのときディアンが聞いてくれたら、少しは状況変わってたよね?
「……まぁ、それはホラ……」
「あたしばっか悪者扱いして、ひどい! あんなに怒鳴って、意味わかんなくて怖かったんだから! ホントはすっごい不安だったんだから、あんたキレてんのにみんな何も言わなくて、助けてくんないし!」
「うん……ごめんちぃ」
あたしは、もっともっと言ってやろうとして――けれどなんだかどっと疲れて、うなだれるとぽつりと言った。
「ちがうの……信用してないんじゃない。そんなわけないじゃない」
「結局俺ら信用されてないから話さないんじゃないの?」って、あのとき吐き捨てるように言われて本当は悲しかったから。ただ、言い返せるだけの説得力というのを持っていないだけなの。それは今も変わらないことだけど、それでも言っておきたかった――たぶん、ディアンには。
「うん、わかってるよ。ごめん」
「わかってるのにあんなこと言うのはひどい」
「ごめん」
詫びのつもりだろうか。人通りがないのを確認して、ディアンは一瞬だけあたしを抱きしめた。ぽんぽんと背中を叩いて、あったかいと思う暇も与えずにすぐに身を離す。
「で? どうするの」
ディアンの言わんとすることがわからなくて、あたしはきょとんとその目を見返した。背の高い彼の顔は逆光になっていたけれど、悪戯っぽくあたしを見つめてにっこりと微笑むのは不思議とはっきり見える気がする。
「ちぃは、仕事があるのにどうして今俺のとこに来たの?」
「来ること、予想済みだったくせに」
あたしが来るのが遅いからリンゴを一口もくれなかったのでしょう? 朝ごはん食べてないのはあたしも同じだからお腹空いてるのに――そう言ったら、ディアンは声を立てて笑った。つられてあたしも笑みを作ると、彼は照れくさそうに俯く。さらりと揺れた髪が、ディアンの表情を隠してこちらからは見えない。
「局にね、連れ戻しにきたの。決めたんだ。みんな話す。だから、あんたもいないとね」
「うん」
俯いたまま小さく頷き、ディアンはあたしに手を差し出した。
「怖かったの? 怒鳴ってごめんね。俺、怒ってないよ」
「何言ってんの、あんた謝ってばっかり。あたしのためでしょ」
だって、ディアンがあたしを怒らなかったら、局のみんなはまだあたしを許してくれていなかったかもしれないじゃない。そう言ったら、ディアンは顔を上げて小さく笑った。
「かっこつけたけど、ホントはけっこう八つ当たりだから――」
消え入るような声で言った彼の手を、あたしはそっと握る。
「行こ」
八つ当たりでもなんでもあたしはあんたに助けられたわ――ディアンの手を引きながら言ったあたしに彼は小走りに駆け寄り、彼とあたしは並んで局への道を引き返した。




