2-5 わるもの系おっさんと倉庫街の死角
創村祭の舞台設営を担う男衆は相変わらず頑張っているみたい。少し離れているこの道にも、喧騒が聞こえてくる。
一眠りしたら、なんだかすごく身体が楽になっていた。睡眠大事。
お財布をルティシアに預けてしまったと青くなるあたしに、アリエラさんは料金は後払いでいいと言ってくれた。なんという女神。
そんな彼女にお礼を言って、今、早足で局に帰るところ。遅くなっちゃったから、みんな心配しているかもしれない。急がないとね。
普段なら曲がらない角を、ちょっと考えてから曲がる。この先にある倉庫街を抜けて突き当たりにある柵を越え、煉瓦の壁に設置されている掃除用の梯子を伝って降りると、かなりの近道なのだ。ただ、もう十代も半ば、そろそろ後半というところに差し掛かった今、それをするのはどうかと思って最近はずっとご無沙汰のルートだけど。
でも、もう配達隊の帰局の時間だもの。あたしが局に帰らないと、みんな仕事を終えずに待機しているかもしれない。あれでみんなけっこうお人好しだから、ありえる話だ。
早足に倉庫街へ踏み入ったあたし、しばらく進んだ後ふと思い立って立ち止まった。
倉庫街は、その名の通り倉庫がずらっと立ち並んでいる通り。倉庫にはそれぞれ窓もなく、けれど倉庫と倉庫の間にはわずかな隙間があって、死角の宝庫。一応倉庫番のおっさんが見張っているけれど、彼が居眠りしているイメージが定着しているほどに普段から人通りは少ない。その上居眠りばかりの倉庫番のおっさんは、今日は舞台設営。倉庫を利用している商店や団体には、あらかじめそういう連絡がきちんと入っている。
――この道、やめよう。
あたし、踵を返して走り出す。ベイシス・バイブルのことを考えると、人ごみも怖いけれど人のいない道はもっと怖い。
「ぅわわわわわっ!」
全力疾走で戻ろうとしたあたし、しかし倉庫と倉庫の間から突然にゅっと飛び出した棒切れに足をとられて勢いよく転倒してしまう。
「いったぁ……」
なんでこんなとこにいきなり棒切れが飛び出してくるのよさっきまでなかったじゃないの。身を起こしながら振り返ろうとしたあたし、襟首を掴まれて倉庫と倉庫の間に引きずりこまれてしまった。
なんて、冷静に受け止めているような言い方だけど、実はあたし、大パニックを起こしている。だけど慌てて騒ぎ出す余裕もないくらいこの出来事は突然で、あっという間だった。
喉元への刺激にゲホゲホと咳き込みながら、回りを見回す。倉庫と倉庫の間、暗い場所だけれど相手の顔は見える。一人の男、年の頃なら三十代くらい、目立たないくらい普通の服装をしているけれど、スピリーツェみたいな田舎にはあんまりいないような雰囲気。なんていうか、とりあえず道を歩いてて前からこういう人が来たら、目をそらすかなっていう感じ。
男は脛のあたりをさすりながら、涙目であたしを睨みつけている。もしかして、さっきの棒切れはこいつの足だったんだろうか。なによ、そんな目で見たって、人の目の前にいきなり足出す方が悪いんじゃない。
そんな目――薄茶、の。
じりじりと、後退する。
逃げ出そうとしているのがばれたのか、男はもう一度あたしの襟首を掴んで引き寄せた。あたしの抵抗なんてものともしないって感じ。緊張と恐怖にドクドクうるさい心臓に苛つきながら、襟首をまだ掴んでいる男の手に爪を立てる。やられっぱなしなんて、腹立つもの。
「放しなさいよこの変態っ!」
噛み付きそうな勢いで怒鳴るあたしの口を、男が塞ぐ。もがもがと暴れながらなおも抵抗を続けるあたしの頬に、ふと冷たいものが当たった。
うん……、まあ、お互い冷静に行きたいわね。あはは。
とりあえず、暴れるのはやめる。あたしはこれでも善良な一般市民で、ごくごく普通の人間てのはそうそう顔に刃物をあてがわれたりしないもの。無論このあたしも生まれて初めての経験。いやぁ、貴重貴重。
あたしはなんと今、刃物で脅されているのだ。なんてチープな展開! 笑いがこみ上げてくるのはもうヤケになっているからだろうか、あまりの緊張におかしくなってしまったからだろうか。……なんか、両方な気がする。ルティシアやナルにドン引きされたあれとは違うのは確か。
「……お互い紳士的にいこうじゃないの。あたしは淑女だけど」
「ベイシス・バイブルを渡せ」
あたしの軽い冗談を思いっきり聞き流し、男は吐き捨てた。
「あら残念。あたし持ってないわね。そういうのはセラフィン王室にでも進言なさいな」
もちろん、嘘じゃない。あたしはそんな本持ってないし、ベイシス・バイブルの写本が局に来るのは明後日だもの。ついでにいうなら、局に来たってそれはお客様の郵便物であって、あたしのものではない。
「ふざけるな!」
声を荒げる男のセリフは、なんだかありきたり。大声出せば怯えると思ったら大間違いだ。いやすみません怯えてますけど。
「ふざけてんのはアンタよ。いい年してオンナノコ脅してんじゃないわ」
うーん、毅然とした態度のあたし我ながらかっこいい。声さえ震えていなければ。
本当は、怖くてたまらない。当然じゃないか、老若男女問わず、この状況を怖がらない一般市民なんているもんか。だいたいここは人通りの元々少ない倉庫街、倉庫番のおっさんは創村祭準備で不在。助けを呼んだって、ムダなのだ。怖くない方がどうかしている。
なぜかそういうことは冷静に考えることができて、肝心の対処法は浮かんでこないんだから、困ったもんだ。
「い、いたたたたっ!なによぉ」
男が、わずかに手を動かす。焼けるような痛みとはよく言うけれど、そんな温度なんて感じている暇なんかない。とにかく、痛い。
……って、いくらたいしたことない見た目っていったって女の子の顔に傷付けるんじゃないわよ! 跡残ったらどうしてくれるのさ、このおっさん!
「奴が、お前たちに輸送を頼んだのは掴んでいるんだ」
「ブー。不正解。『あたしたち』じゃないわよ、『あたし』に頼んだの! だけどあたしはずっと局と病院にいたわけ。持ってるわけないでしょ」
うわぉ。おっさん、やめてくれ。
冷たいものが、喉元に移動する。殺す気かよ、おっさん!
「意地を張ると、痛い目を見るぞ」
もう痛いんじゃボケ!
まるで小説を読んでいるかのような悪役の典型的な台詞を、男はあたしの耳元で囁いた。やめろっつーの。
そういうのはねぇ、ディクスみたいなかっこいい人とかアリエラさんみたいな美人さんがやるから嬉しいだけで、あんたみたいな怪しい奴にされたって鳥肌立つだけなの。せめて十年若返ってから来い。なんなら二十年後のロマンスグレーでも可。
「意地も何も本当に持ってないってば。配達は今日じゃないもの。物分かりの悪いおっさんね」
……今度は、肩?
歯を食いしばる。ちらりと肩を見ると、制服のシャツが裂けてわずかに赤く染まっていた。痛いんだけど、出血量はたいしたことない。多分シャツに邪魔されて、転んだら皮めくれちゃったとかそういう程度にしか傷ついてないんだろう。
でも、もしかして。傷がたいしたことないのって、わざとじゃないだろうか。こいつ、あたしがベイシス・バイブルを差し出すまでこうして脅し続ける気なのかもしれない。命に関わりそうな傷は作らずに、目に見える部分を少しずつこうやって切り裂いて――あたしが痛みか恐怖に負けて吐くのを待っているのだ。
ゆっくり、確実に脅せば、あたしなんて仕事をほっぽり出してすぐに口を割ると。
このおっさんは、そう思っていやがるのだ!
あたしは歯を食いしばった。畜生。負けてたまるかっての。
痛いのと悔しいのとごちゃごちゃで、鼻の奥がツンと痛む。絶対、ぜぇったい、局にベイシス・バイブルが来るのは明後日ですよぉとか言うもんか。
滲んだ涙で霞む視界に、だけど何故かはっきりとひょろ長いものが映った。それはすぐに視界から消えてしまったけれど。そういえば、ここは奴の家からすると通勤路の近道だ。
考える暇なんてなかった。あたしはありったけの力をお腹に込めて大声を張り上げる。
「ディアンっ! ちょっとディアーンっ! 戻ってこーい! こっち来て! つーかぶっちゃけ助けてっ! なんか変なおっさんがいる!」
視界に映った時間は、倉庫と倉庫の間にあるごくごくわずかな隙間を通り過ぎる間だけ。ひょろ長いものがディアンかどうかっていう確信は本当のところあんまりなかった。まぁ、あの長身は村にもそうそういないしそろそろ出勤時間でもあるから、可能性は高いけど。
とにかく、誰かが通ったというのを頭で理解した途端にあたしは叫んでたんだ。あたし一人では、もうどうしようもならないと思ったから。後から思えば、関係ない人を巻き込もうとしていたんだから随分自分勝手な話だけれど。
「黙れ小娘!」
「いったぁい、やめてってばぁ! あーもう放せおっさん!」
男はあたしを黙らせようと、脅しに使っていた刃物を今度は腕にあてがう。
ちなみに、あたしは暴れている。そのうえ、男は焦っている。
――それって、つまり。
「いたたたたたたたた――っ!」
それってつまり、逃げようとするあたしと引き戻そうとする男、パニック混じりのお互いの動きでかなり勢いよく刃が突きつけられちゃうということで。
今までのほんの少し皮を傷つけられる程度の傷とはわけが違う。あたしは何か思うより先に大声で叫んでいたし、制服の袖はあっという間に真っ赤に染まっていた。
「ちぃ、なんでこんなとこにいるのぉ……って、あれ?」
怒りと痛みと悔しさと恐怖と緊張と――いろんな気持ちが飽和状態になってきてヒステリーを起こして騒いでいるあたしの背中の方から、ひょいと見知った声が届く。
「ディアン!」
叫んだあたしとそれを押さえつける男を見比べて、見知った顔――ディアンは面白いぐらいに顔色を変えた。ツカツカと歩み寄ってきて、男を殴り飛ばそうとする。
「ちょっとあんた、何やってんだよっ!」
おいおいおい、刃物相手に素手が無理しないでよっ!
揉み合う男とディアンをハラハラと見守る。意外とディアンはこういうの得意なのか、男とはいい勝負だ。まぁ男の方は暴れるあたしというハンデがあるわけだけど。でもそのハンデが男には大きかったのか、奴は不意にドンとあたしをディアンの方へと突き飛ばした。
「あいたたた……」
腕の痛みに思わず悲鳴を上げる。ディアンが思わずあたしを支えている隙に、男は走り去った――あっという間に。あきらめ早いな。というか、あたしが本をまだ持っていないことに納得したのかもしれないけど。
「ちぃ? なんなの? 大丈夫? 怪我してるっ」
ディアンがおろおろしながらあたしの顔だの肩だの覗き込む。そうね、すっかり忘れてたけどあたし、怪我だらけ。
「とにかく、診療所行こ」
腕を掴まれ、あたしは痛みに悲鳴を上げた。もう、この血まみれっぷりが見えないか? 乱暴にしないでいただきたい。
「ちぃ……」
あ。やばい。なんか世界がぐらぐらする。ごめんね、あんた服が血で汚れるかも。
思いながらも、あたしは痛くない方の腕でディアンの腕にしがみついた。今更ながらに身体が震えて、そうするのがやっとだったのだ。正直、歩けるような状態じゃない。
「死ぬかと思った……」
あ、いや、死にはしないだろうけどね、あたしはまだベイシス・バイブルの写本について何も言ってなかったし。けど、なんというか、死にそうな心持ちだったのだ。ホント、ディアンがいなかったらどうなってたことか。
「ちぃ、アレ、誰なの?」
ディアンの声が遠くなる。
ホッとした途端急に意識が遠のいていくなんて、あたしもちょっと気合いが足りないのかもしれない。
独身が続きます。
この世界にはマザー・グースもいなければ不思議の国のアリスもないので書いてませんけど、イメージはハンプティダンプティ。
だけど中身は理想の上司。そんな感じを頑張って出そうとしてました。
結果は卵のおっさんでした。
余談ですが、卵は作者の好物の一つです。
■ ジーク ■
「……原因作ったの、誰だっけな」
配達は配達でも特殊係。町中の書留を一人で担っている。
とても頼りになるのだが、見た目は玉子のようでコミカルなおっさん。43歳独身。




