佳音
第一章 三浦順平
最近、佳音の様子がおかしい。
一年遅れで入学してきたかと思えば、僕のことを「先輩」と呼んできやがる。正直言って、気味が悪い。
二年前までクラスメイト以上の関係を持っていた僕に向かって呼ぶには他人行儀すぎるし、そもそも佳音が一年浪人しただけで、僕らはタメだ。「先輩」と呼ばれる理由なんか、僕にはない。
では、佳音にはその理由があるのだろうか。訊いても答えてくれなかったが、おそらくあるのだろう。そしてそれは、僕の知らないこの一年間で作りだされた。僕はそれを、見つけ出さなければならない。
ひとまず、佳音と同じ予備校にいった同級生にメールを送ってみた。
第二章 笹木涼子
佳音ちゃんがおかしくなったのは、夏期講習が終わった頃だと思う。正確なところは分からない。私は夏期講習は別の塾に行っていたから、異変に気付いたのが夏期講習を終えてからというだけなのだ。だから、私が知っていることは三浦くんが知っていることと大差ないと思う。でもメールには「できる限りの情報を教えてほしい」と書いてあったから、とりあえず三浦くんが高校を卒業してから今までのことを順を追って説明してみる。
四月、私と佳音ちゃんは予備校で偶然同じクラスになった。元々はそんなに仲が良かったわけじゃないけれど、他に知り合いもいなかったし、私と佳音ちゃんはすぐに親しい間柄になった。私は佳音ちゃんを「佳音ちゃん」と呼んだし、佳音ちゃんも私のことを「涼子ちゃん」と呼んでいた。
成績面で、佳音ちゃんは絶好調だった。一緒にいた私の目から見てもすごい勉強しているように思えたし、実際していたのだろう。浪人生はあまり成績が伸びにくいと言われているなかで、佳音ちゃんの成績の伸びは著しかった。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。問題は、夏期講習後。
彼女は二学期最初の授業のとき、私にこう呼びかけたのだ。「笹木さん」と。
たぶん、三浦くんが感じた違和感も同じものだと思う。自分と相手との関係が、何か別の異質なものに変わったような感覚。彼女が自分から遠い存在になったような感覚。
とにかくその感覚を生む原因となるようなことは、夏期講習中に起こったはず。これだけは確かなの。
夏期講習中に佳音ちゃんを教えていた先生のリストを送っておくから、その人に連絡を取ってみて。
私はこれ以上はちょっと。なんだか、怖いの。
第三章 赤村幸助
俺が桜木佳音の担当をしたのは、夏期講習のなかの三日だけだ。たしか第三タームの最後だったから、ちょうど八月の半ばあたりだった。自由英作文の講座で、受講者も少なかったから、受けたやつの顔は全員覚えている。でも桜木の話は聞いたことがあった。なんでもやけに伸びしろのある浪人生かいるってな。だから初めての授業のときに顔を確認して「ほお、こいつが例の……」と思ったんだ。
ただ、それだけだ。
俺は桜木個人とは話をしなかったし、その後の交流もない。だから俺が知っていることはほとんどない。あまり期待はしないでくれ。
二日目の授業の途中、あいつは体調が悪いと言って授業を抜けた。本当に顔色が悪かったし、その日は戻ってこなかったから、おそらく早退したんだろう。三日目の授業に、あいつは遅れてやってきた。まあ自由英作文なんてマイナーな講座だから遅刻者は毎年いたし、そのこと自体はあまり気になっていなかったんだがな。あいつの目に、すっげー隈ができていたんだよ。まるで、一睡もしていないような。
だから桜木に何かあったとしたら、おそらくそのタイミングだろう。それ以外のことは分からん。
あとは、桜木自身しか知らないだろうな。
終章 桜木佳音
どうやら先輩が探りを入れ始めたらしい。まあ、同い年の元カノから「先輩」だなんて呼ばれたら、薄気味悪く思うのは当然だよね。
でも残念、あたしはそんなに変わっていない。あたしが変わったというより、あたしの物の見方が変わったみたいな感じ。結局それはあたしの価値観が変わったわけで、それはあたしが変わったことになるわけだけど。それでもみんなが思っているほど劇的な変化ではないのだ。
※
その日、あたしは体調が悪くなり、家に帰るつもりで予備校を出た。そこに一匹の黒猫が現れたのだ。その猫は首に鈴をつけていて、動くたびにちりんちりんとひんやりとした音を鳴らした。真夏のうだるような暑さのなか、少し気分も悪く、頭もボーっとしていたからか、あたしはその猫を追いかけることにした。
猫はあたしを先導するように、あたしの歩幅に合わせて歩いた。人通りの少ない狭い路地裏を選んでいるようで、昼間なのに少し暗くて、むき出しの二の腕には鳥肌が立った。
二十分ほど歩き続けただろうか。あたしたちは路地裏を抜けて、広い空間に出た。そこは巨大な平面駐車場のようだったが、今は使われていないようで、そこら中のコンクリートのヒビから雑草が伸び放題だった。
陽炎が揺らめくなか、猫は駐車場を横切るように歩き出した。どうやら向かい側にある廃ビルへと向かっているようだった。ここまでにあたしは一抹の不安を感じていたが、それでも猫を追いかけた。
予想通り、猫は廃ビルに入っていった。あたしも彼についていく。
彼は非常階段の扉の前で腰かけた。あたしは彼に追いついてから聞いた。
「開けて、欲しいの?」
「にゃあお」
やけに人間臭い声で彼は鳴いた。
あたしが重い扉をギィ、と開けると、彼はそのまま上の階へと上って行った。追いながらあたしも階段を上っていくと、金属製の非常階段はカンカンカン、と耳障りな音を立てた。
五階まで上ったところで、彼は再び扉の前に座った。
「……開ける?」
「にゃあお」
さっさとしろ、と言っているようだ。
扉を開けると、廊下が伸びており、両側に三枚ずつドアがあり、六つの部屋があるようだった。彼は、一番奥の右手のドアの前で寝ころんだ。自分の仕事は終わった、とばかりに。
「この先に、何かあるの?」
「…………」
彼は黙っている。
「ねぇ、何があるの?」
にゃあお。
彼は顔だけ持ち上げ、口の端を歪めて、こちらに笑いかけた。
あたしは戸を開き、中を覗いた。びゅう、と冷たい風が顔に吹き付けてきた。中は暗かった。戸を完全に開ききると、外からの光で、中が少しだけ見えた。
そこに、何かがあった。それをあたしは覚えていない。だけど確かに、あたしの価値観を変えるような何かがそこにはあった。
※
その後あたしがどうしたのか。それもあまり覚えていない。一度家に帰ったのかも覚えていない。ただ気がつくと、あたしは予備校の椅子に座っていた。日にちは変わっていた。そこで急に意識がはっきりしてきて、それと同時に、なんだかあたしがこの世界の住人じゃないような気がしてきたのだ。だから『順平くん』とも『涼子ちゃん』とも距離を取らなきゃいけないような気がした。
そう、それだけの話なのだ。
あたしが何を見たか。それは些細な問題だ。
たぶん、あなたの想像とあまり変わらないものだろう。
(完)
ちょっと難解でしたね……申し訳ないです。