6
――世界は、概念で出来ている。
それは、僕がある人から教わった世界の基本原則だった。
そんなことは誰もが本能的に悟っていて、けれど、ほとんどの人がはっきりと意識してはいない。
そんな、ささやかで大きな世界の秘密。
そしてその秘密は、こう言い換える事も出来る。
――自らの概念を保てなくなった物は、世界から消える。
どんな物だって、そうだ。
人ですら、それは例外ではない。
そう、例えば……。
……利用する人間がいなくなり、その機能を見失った美玲の机のように。
……肥大化した感情にひきずられ、自分の個性を見失った美玲のように。
それぞれ最初に設定された概念、属性、特性、そういった物を逸脱した瞬間から破滅に近づいていく。
存在が少しずつ擦り減って、段々と薄く、透明になっていき、最後には消えてしまう。
その存在が生まれながらに持つ基本概念、それぞれが守るべき規範はその存在によって異なり、人かそれ以外かによってもその遵守の仕方は変わる。
僕は人の持つその概念を『個性』、物の持つそれを『機能』とそれぞれ便宜的に呼ぶことにして区別している。
人は、自らの個性にそった行動をする事で、物は、自らの機能にそった使われ方をする事で、自らの存在を保ち、強化する。
だから、自分を保つための行為は、その人の持つ『個性』によって決まってくる。
例えば美玲のように『怒りっぽい』という個性を持つ人にとっては、『怒る』ことが存在を維持するのに必要な行動で、例えば数日前に消えた希ちゃんのように、『おとなしい』という個性を持っている場合には、『自己主張をしない』ことが存在を保つのに必要だった。
そしてあるいは、黙々と本を読み続けることが、生きるために必要だという人間もいる。
「やっぱり、本はいいな」
誰に言うともなく、誰に言う訳でもないからこその本音を、僕はつぶやく。
久しぶりに本から目を離し、その部屋を見渡した。
窓はなく、唯一の外界との接点であるドアは閉まっている。
本以外の余計な物のないこの空間、閉鎖的なこの雰囲気が、どこか昔いた図書館を想起させる。
ここは自分のための場所なのだと、本能が訴えかけてくる。
僕は健一の部屋に小さな電気スタンドが持ち込んで、そこでずっと本を読んでいた。
最初は薄暗かったこの部屋も、今は赤々とした明かりに照らされ、その異様な光景をくっきりと浮かび上がらせている。
壁、天井、床、目につく全ての場所に本を満載した棚が並ぶ、その奇妙な部屋。
だが、ささいな変化はあった。
僕に一番近い壁の一角。
そこにあったちょうど本棚一つ分の本が抜き取られ、なくなっていた。
それが、昨日一日の僕の読書の成果だ。
あれから僕はタケルを家へ帰し、自分はそのまま健一の家に残ることにした。
あのメッセージはどういう意味なのか。
ほかに健一が残した物はないのか。
一人でゆっくりと調べたかった。
発見は、あった。
健一が遺書のようなメモを残していた本、そのタイトルには、こう書かれていた。
『トオルくんを救う方法』
奇妙な本だった。
だって、そんな出来すぎた用途の本が、この世にあるはずがない。
そう思っても、その本は間違いなく本物。
きちんとした装丁の施された、正規の物に見えた。
ただ、その本のおかしな所はそれだけには留まらない。
中を開いてみれば、ほとんどのページが空白。
全体の九割を超すページが、真っ白なだけの紙で埋め尽くされている。
例外は恐らく、最初の数ページだけ。
断定が出来ないのは、その冒頭の数ページだけが、何者かの手によって破り取られているからだ。
しかし、その中でただの一行だけ。
奇蹟的に残った一文が、そこに何かが書かれていたことを証明している。
破かれたページの一番下。
そこには短い文章が記されている。
『ウサギはどこから現れた?』
その言葉が一体何を示しているのか、それが僕を救う方法というのと何か関連があるのか、それは分からない。
ただ、無意味な言葉ではないと、僕はそう直感した。
そして、謎を解き明かすもう一つの手がかり。
この本に残された健一からのメッセージは、はっきりと僕の頭に刻みつけられている。
『トオルくんへ』『これが答え』『思い出して』
しかし、これが何を示しているのかもまた、いまだに判然としない。
この本も、健一の最後の言葉の意味も、本だらけのこの部屋も、何もかもが理解不能だ。
真実は目の前にある。
そんな予感はするのに、なぜだかそのことを考えると頭の奥が痺れるように疼いて、あまり深く物を考えられない。
それが、ひどくもどかしい。
でも、その全てを越えて、いつか……。
いつか僕は、必ずその真実にも辿り着くだろう。
それは、理性を越えた確信だった。
だから僕は、まだ自分の知らない事実があることに、ざわざわとした苛立ちと、ぞわぞわとした快感を同時に覚える。
久しく感じなかった高揚感。
胸の中で、感情が渦巻く。
まだまだ僕には知らないことがある。
まだまだ僕には知っていけることがある。
まだまだ僕は情報を集めなくてはいけない。
そんな強迫観念じみた想いに衝き動かされるように僕は新しい本に手を伸ばし、気付いた。
「……あ。学校行くの、忘れてた」
生きていくための糧を得ることは確かに重要だ。
しかし、それにかまけて日常を崩してはいけない。
それは健一の一件であらためて思い知らされた、僕にとっての苦い教訓だ。
「……行こうか」
そう口にしながらも、僕はまだ読んでいない本たちを未練がましく眺めた。
それでも、ずっとこの部屋に留まっている訳にはいかない。
僕は手早く後始末を済ませると、部屋の入り口に向かって足を動かす。
ずっと動いていなかった割には身体の調子は悪くない。
僕は本への誘惑を断ち切って、しばらくぶりに部屋の外に出る。
「……ぅ」
目に入る強い光に、僕は腕をかざした。
すっかり日が昇っている。
分かっていたことだが、夜を明かしてしまったようだった。
「流石にこれじゃ、遅刻、かなぁ……?」
時計を見ずとも、日の光がはっきりと現在の時刻を教えてくれる。
時間的には、完全に朝のホームルームは始まっているだろう。
たまに人がそろうまで待ってくれる時もあるが、彼女は気の長い方でもない。
とっくに始めてしまったに違いない。
「成華さん、怒ってないといいけど……」
教壇の上で、肩を怒らせながら朝のあいさつをする成華さんを幻視する。
ぞくっと震えが来た。
間に合わないまでも、せめて急いだ素振りだけは見せておこう。
僕は本に対する未練を完全に意識の向こうに捨て去って、小走りで学校へ向かった。
教室に入るのを、少しためらう。
それは何も、遅刻をしたからではない。
そうではなく、気にしているのはむしろ、タケルのことだ。
もう記憶からはなくなっているとはいえ、一番の親友を失ったことは、彼の精神にショックを与えたようだった。
健一の部屋での一件もあるし、覚えていないなりに何かを感じ取って、不安定になっている可能性もある。
そんなタケルを放っておいたという後ろめたさともあいまって、僕は扉の前で二の足を踏んだ。
それでも、意を決して扉を開けると、
「いけえぇえ! 俺の、マッハゴールドドラゴンン!」
突然の意味の分からない絶叫に、身体が固まった。
「……は?」
見ると、タケルはゴテゴテしたプラスチックのコマに向かって全力で絶叫していた。
「そし、てぇぇ!! 俺の、スーパーハイマッハ、スペシャルゥゥ!!」
放たれるもう一つのコマ。
それもやはりプラスチックで出来た、最初のと同じくらいに悪趣味なコマで、そして、どうあっても名前にマッハを入れたいらしかった。
「何、やってんの?」
想像との落差もあり、つい、呆れた声が出る。
しかし、それを知って知らずか、タケルはむしろ誇らしげに胸を張る。
「おお透、いいところに!
今ちょうど、全国俺リーグの決勝戦をやってるところなんだ!」
「全国俺リーグ……」
いまだかつて聞いたことのない響きに、動揺が隠せない。
「へっへ! 全国から集った俺の持ちゴマたちがしのぎを削る、俺リーグ史上最大の大会だぜ!
16の闘士たちによる勝ち抜き戦の結果、このゴールデンマッハドラゴンと、スーパーマッハハイマッハスペシャルが決勝に勝ち進んだんだ!」
「タケル……」
コマの名前が変わっている上に、それは多分、リーグじゃなくてトーナメントだ。
「おお、そうだ。それより前に、お前が来たら相談しようと思ってことがあったんだ」
「……相談?」
少し、身構える。
そんな僕の態度を気にもかけず、タケルが紙を差し出した。
「実はこれ、俺が考えたこいつらの新しい名前の候補で、こうやって良さげなのをいくつか紙に書き出したんだけどよ。
どうも今一つ決め手に欠けるんだよ」
「……へー」
僕の温度のない返事をどう受け取ったのだろうか。
タケルはいきなり僕に向かってサインペンを突きつける。
「へへっ。お前にもこれ、渡しておくぜ!」
「これは……?」
反射的に受け取ってしまってから、戸惑いの視線を向ける。
タケルは次に、自分の書いた技名リストを僕に差し出しながら、満面の笑みで言った。
「決まってんだろ、お前にも考えてもらうんだよ」
「……僕が? ……これを?」
「や、心配しなくても別に、お前に俺みたいなキレッキレなネーミングセンスは望まねえよ。
ただ、ちょっと煮詰まってるからせめて何かの足しに……うぉおい!」
シュボッ!
僕は無言で差し出された紙に火をつけた。
「わぎゃぁあぁああぁあああ!」
瞬く間に消し炭と化して消えていくその紙を見て、タケルがおよそ人体に出せるギリギリくらいの悲鳴を上げる。
「お、俺が昨夜、夢の中で一睡もせずに考えた、魂のソウルネームたちがぁああ!!」
がっくりと膝から崩れ落ちる。
「なんて、なんてことを。というか、なんでお前、ライターなんて持ってるんだよ……」
「ああ、うん。いつでも燃やせるように、持ち歩いてるんだよ」
「そうなのか。って、何を燃やすんだよ!」
「あっはは、何をだろうね?」
僕の笑顔と声に何かを感じたのか、タケルはそれ以上追及しなかった。
が、やっぱりショックだったんだろうか。
「い、いいや、騙されないぞ!
やっぱおかしいだろ!
いっくら何でも人の物をいきなり燃やすなんて……」
復活してもう一度抗議をしてきた。
いい加減うざい。
僕は顔の前で手を振った。
「いやいや、タケル。
心配しなくても、さっき見た時書いてあった名前は全部覚えてるよ」
「マジかっ!?」
ものすごい食いつきだ。
そこまで反応されると悪い気はしない。
僕は、明るい笑顔で応じた。
「もちろん! まあ、タケルには教えないけどね」
「なんでだよっ!」
打てば響くような反応。
不思議と明るい気持ちになって、ついつい口も滑らかになる。
雰囲気に酔って、僕も軽口を叩いて、
「はぁ、全く心配して損したよ。昨日はあれほど……」
「昨日?」
そこで、口をつぐんだ。
「昨日はあれほど……なんだよ?」
タケルは当然、尋ねてくる。
だから僕は、くるりと背を向けて、
「……急用を思い出した。帰るよ」
「うおぉい! 今、来たばっかだろ? いきなり…」
タケルの制止も聞かずに、そのまま歩き出す。
――心が乱れていた。
うっかりと、取り返しのつかない失言をしてしまうほどに。
態勢を立て直す必要を感じた。
目的地は考えていなかったが、弾みでも、用があると言ってしまったからには……。
「――珍しいな、透。お前が自分から生徒会室にやってくるなんて」
生徒会室で、成華さんと向き合う。
ここに来れば、用件は何かしらあった。
あるいは、成華さんと二人でなら適当な用事をでっちあげる事も出来た。
「今日は遅刻して成華さんにも迷惑かけちゃいましたから。
たまにはお手伝いもいいかと思いまして」
「ほう」と、僕の言葉に成華さんは口角を上げる。
陰謀を巡らせているような、あまり健全とは言えない類の笑みだった。
「どういう風の吹き回しかは知らないが、それは好都合だ。
ちょうど一つ、大きな改革を計画していてな」
「へえ。それは、面白そうですね」
それは僕にとっても渡りに舟だ。
いい言い訳が出来る。
僕の反応に気を良くしたのか、成華さんは演出効果を狙ってわずかにタメを作る。
そして、
「統合しようと思うんだ。学年を」
「……え?」
口にされた言葉の、予想外の衝撃に、僕は言葉を失う。
何か言うべき場面だと分かっているのに、何も言えなかった。
そのまま、沈黙する。
「おや。賛成してくれないのか?」
不満げに眉を吊り上げた成華さんに、僕はやっと笑いかけた。
「いえ、あんまりにも名案すぎて、咄嗟に何も言えなかっただけですよ」
「また心にもないことを言う」
成華さんはそう言いながらも少し嬉しそうにしていた。
一方で、どうにか動揺を前に出さないよう隠しても、僕の内心は千々に乱れていた。
今、うまく笑えているのか、それすらも自信がない。
ただ、それに気づく様子もなく、成華さんは弁舌を振るう。
「この学校は、生徒数が少ない。私達のクラスなぞ、たったの三人だ。
三人だけでクラスを運営するなど、明らかに正気の沙汰ではあるまい。
だからいっそ、一学年から三学年までを全て一クラスにまとめ、クラスの規模を回復したい。
これが、現状に対する一番有効な手立てだろう。
……と言うより、当然の処置だ。
むしろ、なぜ今まで思い付かなかったのか不思議でならない」
「確かにそれは……その通り、ですね」
正論と分かっているだけに、成華さんの言葉は胸に刺さる。
別に、成華さんの提案が納得出来ない訳じゃない。
むしろ、僕もそれしかないと思っているし、それも出来るなら早く実行した方がいいとさえ考えている。
だが同時に、どうしようもない絶望感にも襲われていた。
だってこれは、『前』と全く同じ流れだからだ。
僕がここに『転校』する前にいた場所。
生まれて初めて通った、たくさんの友人がいた、由奈と通ったあの学校。
今はもう、僕の記憶の中にしかないその学校も、生徒数の減少から学年を統合した。
そうして一瞬、にぎやかになって。
でも結局は、一月も経たない内に全員いなくなってしまった。
「本当に、名案だとは思うんです。でも……」
全クラスを統合するのはいい。
クラスの規模がもどれば、幾人かが感じていると思しき、身近に話せる人がいない不安感もいくらか解消出来るだろう。
しかし、それでもどうしようもないほどにこの学校の人数が減ってしまったら……。
そこから先は、もう後がない。
「まあ、あまり深刻に考えるな。
今のところは、君にだけ先に報せておこうと思っただけだ」
「……そう、ですか」
成華さんの気遣いに触れる。
気を遣わせたと分かっていても、やはりほっとしてしまう。
「心配しなくても、私だって別に無理強いするつもりはないんだ。
ただ……あんな物を見せられてしまうとな」
そう言って成華さんは顔を曇らせかけたが、そこで突然、弾かれたように顔を上げた。
「待った! 私とした事が危うく忘れるところだった。
少し前の事だが、お前を探している男がいたぞ」
「男? タケルですか?」
それくらいしか思い当たらない。
だが彼女にしては珍しく、すぐには名前が思い出せないようで、
「いや、アレ、だ。その、こう、はっきりと名前が出てこないのだが、いつも何か調べ物ばかりしている……」
「深見先輩?」
「そうそう、それだ。ふ、ふかみ?
そう深見、深見先輩だ。アレが、お前を探していた」
「……まさか」
笑い飛ばそうとして、失敗する。
それが事実だとすると、異常事態だった。
「いくら私でも、こんな事で嘘はつかない。
彼は君がいないなら別にいいと言っていたが、まあ一応、伝えておくのがスジかと思ってな。
これから教室に戻るのなら、ついでに探してみたらどうだ?」
「……そう、ですね。見つかるとは思えないですけど、そうしてみます」
何とかうなずいて、外に出る。
実際、深見の行動パターンを僕は知らなかった。
そもそも、校内に現れたことがイレギュラーだ。
時々学校の周りを調べているのを見かけるくらいで、それ以上の接点はない。
色々と引っかかる物を感じたが、彼の方が僕を探していたというのなら、会ってみるのも悪くない。
彼なら、もしかすると、彼ならば、僕が知らない『何か』を知っていることもあるかもしれない。
――とりあえず、上から覗いてみるか。
僕は、久しく足を運んでいなかった三階へと続く階段を登り始めた。
変化には気づかなくても、現状には気づく。
矛盾していても、それがこの世界だ。
つまり、生徒がいなくなった事を認識出来ない人間も、生徒数が少なくなったことは理解してしまう。
三階には、三年生の教室があった。
別に、最初から覗くつもりではなかった。
ただ、人の声が聞こえてきて、中を見てしまって、そして後悔した。
そこには、前に成華さんに花束を渡していた先輩、百手先輩がいて、クラス中に響くくらいの大声を張り上げていた。
いつものように、はた迷惑なことを叫んでいる訳じゃない。
……その、逆だった。
クラスのみんなを、必死に励ましているのだ。
明るいことを言って、少しでもクラスの雰囲気を盛り上げようとしている。
ムードメイカーなんて柄じゃないくせに。
彼の個性はもっと自分勝手で、他人のために行動出来るような個性じゃないくせに。
「――ッ!」
僕は見ていられなくなって、その場を逃げ出した。
あれじゃ、駄目だ。
確かに、沈み込んだ雰囲気の中では大抵の人が自分の個性にあった行動を取れない。
クラスの雰囲気を盛り上げるという選択肢は、それ自体なら間違ってない。
だけどあれでは、百手先輩自身が潰れてしまう。
前の学校でもそうだった。
みんなのために、誰かのために。
他人のために自分を曲げた奴から、どんどん消えていく。
間違っている、と思う。
理不尽だ、と思う。
どうしてこの世界では、いい奴ばかりが先に消えていくのか。
どうしてこの世界には、あんな度しがたい善人ばかりがあふれているのか。
どうして……。
「どうして、僕みたいなのが残っちゃうかね……」
口に出してしまって、ハッとした。
突然、タケルのことが不安になってくる。
今朝のタケルは、いつも通りに見えた。
だが、長い時間を一人で過ごしていられるほど、本当にタケルは安定しているだろうか。
僕は堪え切れずに早足で二年の教室に向かった。
すぐに扉を開けて……そして自分の不安が、的中してしまっていることに、気付いた。
教室の中、一人でたたずんでいたタケルは、見るからに普通ではなかった。
僕に気づくと、駆け寄ってくる。
「おい、透。お前はどこに行ってたんだよ。
お前がいないと、俺は、俺はさ。
何か、落ち着かなくて……。
ほら、昼飯、食わないで待ってたんだぞ」
言葉の通り、タケルは不安定になっているみたいだった。
そんな状態のタケルを、一人で置いておくべきじゃなかった。
「ごめん。悪かったよ」
僕は素直にそう謝って、席に着こうとして、気づいた。
無意識の内に、だろう。
タケルは、机を三つくっつけて並べていた。
――三つ。
一つは、タケルの。
二つ目は、僕の。
そして、もう一つは……。
「タケル」
「…なんだよ」
不機嫌そうな声。
そこに、
「タケルは、いい奴だと思うよ。ほんとにさ」
「……ワケわかんね」
声は不機嫌なままだった。
だけど、そこにはどこかあたたかいものが混じっている。
――消えて欲しくない。
そんな風に、強く思った。
それでも、僕は昼が終わると教室から抜け出した。
タケルを一人にしておくのは心配だったが、今度は装飾過多なミニカーで遊び始めたのでしばらくは放置していても大丈夫そうだった。
というより、オモチャの車に頭のおかしい名前をつけて遊んでいる男と関わり合いになりたくはないというのが本音だった。
そして何より、透にはどうしても深見の事が引っかかっていたのだった。
――あの、深見先輩が……。
自分から他人に会いに来るなんて事が、ありえるだろうか。
誰よりも自分の個性に正直で、彼以外の誰にも分からない調査をする事が唯一の生きがいのような人間が?
それともあるいは、他人の話を聞く事が必要な調査なのだろうか。
しかし、それだって今まではなかった事だ。
今さら、状況が変わるとも考えにくい。
そして一番不思議なのは、なぜ自分なのかという事。
誰でもいいというのなら、生徒会室で出会った成華と話をしていたはずだ。
深見先輩は、明確に僕と話をしたがっている。
だけどそれは、おかしい。
不自然だ。
(だって、深見先輩と僕に、接点はない)
……ない、はずだ。
僕は何度も深見を見かけたが、一度も声をかける事はなかった。
彼が僕の名前を知っている事さえ驚くべき事なのに……。
狂うはずのない何かが狂ってしまっているような、そんな不安を感じた。
深見の居所に当てがある訳ではない。
仕方なく、校舎の中の普段行かない場所を回ってみて、校舎の周りを当たってみる。
しかし、当然のごとく彼の姿は見つからなかった。
「そうだ、桜の木」
いつでも満開のあの桜は、彼が最近しきりに調べていた場所だった。
ダメ元でもう一度向かってみる。
期待はしていなかったつもりだが、それでももしかすると、とは思っていた。
けれど、
「……そう、都合よくはいかないか」
そこにはやっぱり、誰もいなかった。
完全な手詰まり。
それでも僕は未練を断ち切れず、ゆさゆさと桜の木を揺らしてみた。
「まあ、こんなことで見つかるはずは……」
――ドサッ!
言いかけたところで、背後で人間大の何かが落ちる音がした。
――まさ、か……!?
ありえない、とは思う。
でも、この時間、こんな場所にいる人物となると、思い当たるのは一人しかいない。
僕は信じられない気持ちを抱えながらも、振り返って、
「深見先ぱ……」
そして、それが目に入った瞬間、言葉を失った。
「にゃ、にゃふん…!」
そこにいたのは深見先輩とは似ても似つかない、迷彩服とカメラが小粋な女の子で、
「また、君か……」
僕は思わず、天を仰いだのだった。
「で、結局さ。君はなんなの?」
「ネコです! にゃあ!!」
「もうそのネタ飽きたよ」
「にゃんと?!」
ぬか喜びをさせられたとあって、心に余裕が持てない。
返す言葉は、自然と辛辣になる。
「し、しかしッ! わたしを今までのネコだと思っていたら大間違いですよ!」
そのせいなのか、突然いきりたつネコ。
立ち上がって、僕に指を突きつける。
「今のわたしは言うなればネコⅡ! もしくはνネコ!
なんだったらΞネコとかσネコとかλネコとか#ネコとか♭ネコとか、あと†ネコ†とか、もういっそネコ☆ミとか、まあかっこよければ何でもいいですけど、とにかく全く新しいネコなんです!」
「……なにそれ」
ネコⅡとかならまだしも、σネコとかλネコとか意味が分からない。
微積でもしろってことなんだろうか。
「なにと訊かれても特に意味はないですが、でも何か新し感があると思うんです!!」
「……はぁ」
そこまで堂々と言い切られたら、もう何も言えない。
……うん。まあそもそも新し感って言葉の意味も分からないけれど、ちょっとはかっこいいし、機会があれば使ってもいいなと思わなくもない。
でも問題になるのは、呼び名よりも中身な訳であって、
「それで、何が違うって?」
僕の問いかけに、ネコ、あるいはネコⅡだとかνネコだとかは、我が意を得たりとばかりにくるっと回転する。
見せられたその背中、いやお尻には、見慣れぬパーツ。
「あー、もしかして……」
「はい! 尻尾がついたんです!」
うん、やっぱり意味が分からない。
「つまり、アクセサリーってこと?」
「違います! 生えてきました!」
「……ん?」
「わたしにしっぽがあったらなぁー、と思って寝て起きたら、生えてきてたんです!」
「えー」
何だろう、そのゆるーいオカルト現象。
それが事実だったら超常現象過ぎる。
「わたしの猫尻尾への愛が神様的な何かに認められ、わたしに尻尾が授けられたのだと愚考します」
「へー」
本当に愚考だった。
確かにこの前、尻尾も用意するとは言っていたけれど。
ともあれネコの言うことだし、話半分に聞いておくくらいがちょうどよさそうだ。
「ま、それはそれとして……」
「それはそれとしちゃうんですか!?」
わたしの一大事なのに、と叫ぶネコをスルーして、尋ねる。
「今日、この辺りで男の人を見なかった?
学校の上級生で、この辺りでよく調べ物をしてる人なんだけど」
「うーん、その人はわたしの観察対象に入ってないですね」
「……そうかぁ」
観察対象って何だろうと思ったけれど、追及するとめんどくさそうなので、やめる。
ネコの監視技術は本物だ。
その監視の網に引っ掛かっていないということは、きっとこの辺りにはいないのだろう。
それでも、ただ帰るのも芸がない。
もう少し粘ってみる。
「観察はしてなくても、写真、持ってたりしないかな?」
「写真、ですか?」
「うん。たくさん盗撮、してるでしょ?」
ネコは今更ながらに動揺を見せた。
「と、盗撮は、してないですけど。
その、まあ、隠し撮り写真なら……」
それを盗撮って言うんだよ、と言いたいのをぐっと堪える。
先輩はあまり学校に姿を見せなかった人だ。
ネコや普通の生徒なら覚えていなくても無理はない。
でも、ネコから深見先輩の写真をもらえれば、そういう人たちにも思い出してもらえるかもしれない。
冷静にと自分に言い聞かせて、尋ねる。
「じゃあそれ、見せてくれないかな?」
「む、むむ、ふむぅぅ……」
何か問題でもあるのか。
ネコは、しばらく煩悶していたが、
「わかりました!」
尻尾をピンと立てて、大きく声を出す。
そして、
「透さんを、わ、わたしのハウスに、招待します!!」
招待されることに、なったらしい……。
「えへへ。ちょっと待ってくださいね」
連れて行かれたのは、いつもの校舎裏だった。
ネコはその植え込みに躊躇いなく手を突っ込むと、
「これです!」
ずりずりと、それを引っ張り出してきた。
それ、とはすなわち、
「ダン、ボール……?」
何の変哲もない、ダンボール箱だった。
僕は家に招待されたのではなかったのか。
少し首を傾げる。
……と、
「はい! これがわたしの家です!
いわゆる一つの、ダンボールハウスですね!」
「……うわぁ」
久しぶりに、ちょっと引いた。
「ええっと……」
うまく、言葉にならない。
ダンボールハウスという時点でツッコミどころ満載だけど、しかしいくらダンボールハウスと言ってもこれはないんじゃないだろうか。
天井も入口も何もなく、本当にただダンボールが一個置いてあるだけだ。
中を覗いてみる。
底には毛布が敷き詰められていて、少しだけ温かそうではある。
「もしかして、この中で寝る、とか?」
おそるおそる訊く。
「そうですよ」
平然とそんな答えが返ってきて、おまけにネコは実演までしてみせた。
ダンボールの中で膝を抱えて体育座りのような姿勢になり、そのままコテンと横に転がる。
驚くべきことに、小柄なネコの身体はあつらえたようにそのダンボールの中に収まった。
――ね、猫だ!!
その姿に、衝撃を受ける。
その背の丸め具合といい、狭い場所を好む性質といい、ダンボールの中で身体を丸めるネコの姿は猫としか言いようがない。
出会って初めて、不覚にもネコのことを猫っぽいと思ってしまう。
「それで、あの、写真なんですけど……」
「え、ああ。見せてもらえる?」
驚いたが、目的を忘れてはいけない。
僕が促すと、ネコはダンボールの中に手を入れ、底に敷かれていた毛布を引っぺがした。
「これが、わたしの、自慢のコレクションです!!」
そこから覗いたのは、写真の山。
ダンボールの底、毛布の下に、ぎっしりと写真が敷き詰められていた。
「すごい、数だね」
「にゃっふふ! わたしも世直しの旅を始めて長いですからね。
世界各地の色んな人たちを撮っておいたんです」
世直し云々は初耳だ。
でも、それはどうでもいい。
「人類、保管計画……」
前にネコが口走った妄言も、この写真を見れば少しだけ認めてしまいたくなる。
そこには、たくさんの人が、僕が生涯見た人よりも多分多くの人が、小さな四角い紙の形になって収められていた。
「これ、この人たち全部、ネコは覚えてるの?」
写真から視線を外さないまま問いかけると、ネコは少し遅れて返事を返した。
「……も、もちろんですよ。この人がたしか……さ、佐藤さんで、こっちがええっと……東条さんで、この人は、ええっと……さ、佐東条さんだったかなー?」
「いや、絶対嘘でしょ、それ」
思った通り、写真に写っている人はどれもカメラの方を向いていない。
完全完璧に盗撮だ。
撮影者がネコであるせいか、ネコ自身が写っている写真もない。
「あれ? ネコ、これは?」
しかし、ただ一枚だけ。
ネコがピエロのような格好をした、女の子、だろうか、ネコと同じくらいの年格好の人間と肩を並べている写真が見つかった。
写真の中のネコは、照れながらも満面の笑みを浮かべている。
「あ、それは、むーちゃん、です」
「むーちゃん?」
「わたしの親友、です」
ネコはそれだけ言うと、
「ここ、最近撮った写真はここです!」
ダンボールの一角を指さした。
まるで、話を逸らすように。
「ありがとう」
僕は『むーちゃん』の写真を丁寧に元の場所に戻し、指示された場所を探す。
そこには確かに、見覚えのある人間の姿が写っていた。
まず、歩いている僕の写真。
それから、立って太陽を見上げている僕の写真。
本を読んでいる僕や、タケルと一緒に走っている僕、それから授業を受けている僕に……。
「……なんか、僕の写真ばっかりなんだけど」
ざっと見ただけで、僕の写った写真ばかりが数十枚並べられていて、これはかなり引く。
「ほ、ほかの人の写真もありますよ! ほら、これとかこれとか!」
慌てて見せられた写真の一つに、
「……これだ」
「ふへ?」
深見先輩が写っていた。
「この人だよ。あの木の所に、たまに調べ物をしに来てたでしょ?」
「え? ……あ、あー! よく見たら、何だかそこはかとなく見覚えがありますね!」
調子のいいことを言うネコに笑って、僕は立ち上がった。
「ありがとう。じゃあこれ、借りていっていいかな?」
「え? それ、ほかの人に見せるんですか?」
ネコが、急に不安げな顔をする。
「うん。あ、大丈夫だよ。別に誰が撮ったとか言わないから……」
「そうじゃなくて、そう、じゃ、なくてですね……」
ネコは顔を伏せて、ぼそぼそとつぶやく。
「だってそれ、うまく、撮れてないですから。
みんな、すぐには、それがその、何とか先輩だって、分からないと思います」
どうも、煮え切らない。
自分の写真を見られるのが、恥ずかしいのだろうか。
「大丈夫。よく撮れてると思うよ」
笑顔でそう返した僕に、ネコもようやく、少しだけ笑顔を返す。
それが少しだけ強張っていたのは、ご愛嬌だろう。
それでもまだ、引っかかるのか、おずおずと尋ねてくる。
「その、人。透さんにとって、大事な人、だったんですか?」
「え? ううん、全然」
即答する。
「そ、そうですよね。男の人同士、ですしねっ」
なのにネコはなぜか、いたわしそうに目を伏せた。
……何か、変な誤解をされてる気がする。
――まあ、いいか。
どうせネコだから、そこから噂が拡散するということもない。
僕はすぐに割り切ると、ネコと別れることにした。
「それじゃ、また」
軽く手を振って、別れを告げる。
僕の言葉を聞いた途端、なぜかネコが弾かれたように反応して、それから満面に喜色を浮かべた。
「そ、それじゃ、また!」
嬉しげにそう言って、勢いよくぶんぶんと手を振られる。
やっぱり変な奴だ。
最後まで手を振り続けるネコに見送られて、僕は校舎に戻った。
「おいおい、どこ行ってたんだよ!
探しちまったじゃねーか!」
ひとまず教室に戻ると、タケルからそんなことを言われる。
それは心外だ。
タケルにはちゃんと、深見先輩を探しに行くって言ったのに。
「これ、もらってきたんだよ」
「ん、何だ、写真? ていうか……」
タケルは俺が突き出した先輩の写真をじっと見つめ、
「――これ、誰だよ?」
そんな言葉を、口にした。
ぞわっと、背中を悪寒が駆ける。
何度も経験した、何度経験しても嫌な感覚。
「誰って、深見先輩だよ。物知りで、だけどいつも調べ物ばっかりしてる、変わり者の……」
「ふーん。俺とは仲良くなれそうにないな」
タケルは興味なさそうにそう言って、写真を返してきた。
……間違いない。
タケルは完全に、先輩のことを忘れていた。
――ああ、そう、か。
ネコの言葉が、脳裏によみがえる。
『その、人。透さんにとって、大事な人、だったんですか?』
ネコがどうして写真を渡したがらなかったのか、ようやく理解出来た。
あの時、ネコはもう、こうなることを予想出来ていたのだろう。
――まったく、ネコの、くせに……。
気を遣われてしまったと、そう思った。
「なぁ。何か、あったのか?」
タケルの、訝しげな声。
「いいや、何もないよ」
だから、僕は笑った。
「その写真の奴が関係あるのか? もし何かあるなら……」
「それよりさ。僕もそのコマのカッコいい名前考えてきたんだ」
「え!? マジか?」
「ふふふ、マジだよ」
何でもないように、笑う。
何も起こってなどいないと、笑う。
「とりあえず一つ目は、デラックス唐草モンペ号って言うんだけど……」
「ダサいよ!! すっげぇダサいよ!! どうしてそこまでってくらいダセぇよ!!」
せめて、これ以上何も失わないように。
過去を振り向かず、去った者を悼むこともせず、ただ、変わらぬ日常を回し続ける。
「そう? じゃあデラックス唐草モンペ号Ⅱか、νデラックス唐草モンペ号でも……」
「いや、そういうのつければいいってもんじゃないから!
確かにⅡとかνとかカッコいいけど、そういう問題じゃねえからな!!」
「あはは! タケルはほんと面白いな、あははは!」
「て、てめっ! 笑いごとじゃないぞ! 名前には魂がな、って聞けよお前!」
そしてそこにあるささやかな幸せに、僕はようやく、演技ではない笑みを浮かべるのだった。
こうして日常は続く。
続いていく。
それでも、変化は止まらない。
少しずつ、少しずつ世界は動いて、何かが少しずつ、擦り減っていく。
今日はまた一人、人が消えた。
なら、明日は……。
――僕はタケルと笑い合いながら、日常の終わりを予感していた。