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 僕は見上げた。

 真っ白で、どれだけの時を重ねても汚れ一つない、綺麗な校舎を。


 教師も授業も、進級も卒業もないこの学校では誰も成長しない。

 ここから先につながっていない。

 ここは閉じられた、全くの無意味な場所で、だからこそずっと同じ自分を続けられる場所だった。

 そんな場所だからこそ、世界を巡る変化に対してこれほどまでに鈍感に、今まで耐え抜いて来られた。


 現に今この時だって、ここだけはいつもと変わらぬ日常を刻んでいることだろう。

 こうして一人、外から校舎を眺める自分を置き去りにして。


「……学校、サボっちゃったなぁ」


 日常からの逸脱は、僕がもっとも避けていたことの一つだった。

 わずかばかりの脱線は、大抵が問題なく修正される。

 しかし、そんな小さな変化の積み重ねが、やがて大きな変化を生むことはある。

 それは警戒するべき事態のはずだった。


 しかし、見てしまった。

 教室にあった机とイスが、人数分になっていたのを。


 確かに二日前まで人が座っていたはずの席が、今朝はもうなくなっていた。

 誰が片付けた訳でもない。

 不要になった物が、世界から消え去っただけ。


 それに気づいた途端、急にいたたまれなくなった。

 頭から全ての考えが抜け落ちて、教室から飛び出した。

 あまつさえ、学校の外まで逃げ出してしまった。


「……ほんと、ままならない」


 自分の心さえ、自由に出来ない。

 人であることも捨てて、ただ個性にだけ従って生きていけたら。

 それは、どんなに楽だろうと思う。


 そう、例えばあの人のように……。


 視線を移す。

 桜の木の下には、見慣れた人影があった。


「……深見先輩」


 これまでと何も変わりなく、彼は一人で何かを調べていた。

 真剣な表情で、ノートに何かを書きつけている。

 たとえ世界の全てが終わっても、彼だけはずっと、一人で孤独な調査を続けるのかもしれない。

 それならそれでいい。

 いや、その方がずっといい。


 たとえ彼がこの世界に生きていた人と何の関わりも持たなくても、彼の存在は人にとっての救いになる。

 人がいたという証になる。

 それはきっと、人間にとっては大いなる救いになる。

 僕は何も言わないまま、彼がどこかへ歩き去るまでその姿をじっと眺めていた。




 やがて、先輩の姿が眼下から消えた。

 僕は深い息を吐き出し、その場に座り込む。


 腰掛けたのは、学校の外階段。

 通常利用することのないこの場所は、しかし隠れ場所としてはうってつけだ。

 こうやって座っていれば、上からも下からも死角になる。

 ささやかな、僕の秘密の場所。


「本、持ってくればよかったな……」


 発作的に飛び出したせいで、荷物は何もない。

 ポケットを探っても、いつも持ち歩いているライター以外に何も見つからなかった。


 まあ、たまにはこんな時間もいい。

 階段の手すり越しに空を見上げ、ひたすら無音な世界に身を任せる。

 思考すら放棄して、時間が過ぎ去るのをじっと待った。


 時折遠くから聞こえるチャイムの音だけが、時間の連なりを教えてくれる。

 そんな無為な時間、無為な空間に、


「トオルくん」


 突然、影が差した。


「……健一」

「ここにいたんだ。さがしちゃったよ」


 目の前に立って、こんな時でも笑っている僕の親友を、呆然と見上げた。

 僕は他愛なく動揺して、でも、それを見せないように必死でいつも通りに振る舞った。


「どうして、ここが?」

「ん? ああ。なんか、校舎裏に写真が落ちててさ」


 そう言って、右手に持っていた写真を僕に差し出してくる。


「これ……」


 そこには、外階段に足をかけた僕の姿が完璧なアングルでばっちりと収められていた。

 これを頼りに探されたら、それは見つかるに決まっていた。


「蛇の道は蛇かぁ……」


 僕にとっての絶好の隠れ場所も、その道のプロにかかれば見晴らしのいい空地と何ら変わりがなかったのだろう。

 なんとなく嘆息していると、


「ちょっとおじゃまするよ」


 健一が強引に割り込むように入ってきて、僕の隣に腰を下ろした。

 特に何がある訳でもない空間で、それでも健一は嬉しそうに微笑んでみせる。


「へぇ。けっこう、ながめがいいんだね」

「……空しか見えないけどね」


 水を差すような僕の一言にも反応せず、健一はやっぱり楽しそうに笑っていた。

 あまりの暢気さに、ついこちらから口を出したくなってしまう。


「のんびりしてるけど、いいの?

 僕を教室に連れ戻しに来たんじゃ……」

「え? そうなの?」

「いや、知らないけどさ」


 ……ダメだ。

 健一を相手にまともな会話が成立すると思ったのがバカだった。

 じっと、健一が自分から用件を話してくれるのを待った。


「オレはさ、トオルくんが心配なんだよ」


 たっぷり数十秒は待った後で、健一は意外なことを言った。


「僕が?」


 返した言葉に、直接は反応せず、


「ここ、静かだよね?」


 逆に、そんな質問を返してくる。


「そりゃ、ここには僕らしかいないからね」

「うん、そうだね」


 その返答にも、曖昧に笑う。

 いつものやりとりのようで、どこか違った。

 そして、


「――ねぇ、トオルくん。

 学校って、こんなに静かな場所だったっけ?」


 とうとう、核心を突く。

 それは、予想外の、予想していた物よりもはるかに鋭い問いかけだった。


「教室が、広く感じられるんだ。

 それに、校舎だってそうだ。

 人の数より教室の数が多い建物って、たぶん、おかしいんじゃないかって思うんだよ」


 言われて、思い出す。

 あぁ、そうだ。

 かつてこの学校には、百人以上の人間がいた。

 ……いた、気がする。


 僕だってはっきりとは覚えていない。

 覚えているのは、数十人の知り合いの顔だけ。


 それもほとんど、消えてしまった。

 今はもう、僕以外誰も覚えてはいない。


「それ、は……」


 だけど、そんなことは口には出せない。

 失ってしまった記憶は過去のもので、それを手繰ろうとすれば、それだけ自分が擦り減ってしまうから。

 どう答えようか迷う僕に、健一は軽い調子で首を振った。


「べつに、困らせるつもりじゃないんだ。

 だってそんなの、結局オレには関係のないことだしね」


 健一の澄んだ目が、僕の目を捉える。


「トオルくんは、知ってるだろ?

 オレは、そんなにたくさんの人のことを覚えていられないってこと」

「……そう、だね」


 その言葉には、うなずくしかない。

 健一の個性に思いを巡らせる。

 その内に僕は、初めて会った時の健一の姿に行き着いた。


 誰かが近付いても全くの無反応。

 虚空を見つめ、微動だにしない少年。

 それが、健一だった。


「オレは忘れっぽくて、物に執着できない。

 だから人の名前を覚えられないし、何かを所有するってことが、どうしても難しかった」


 それは、まぎれもない事実だ。

 僕は一度、健一の部屋を見たことがある。

 家具の一つもない、空っぽの部屋だった。


 この世界は誰にも必要とされない物が存在出来るほど、甘い場所じゃない。

 美玲の机と同じ。

 所有者にすら存在を忘れられた家具は、きっと誰にも知られないまま、静かに消えていったに違いない。


「そんなオレに、何度も何度も自分の名前を教えてくれたのは、トオルくんだけだった。

 長い時間をかけて、やっとトオルくんの名前を覚えて、それから同じクラスのタケルや、ええと、その、口うるさい女子の……成華さん、ともなかよくなって、それで、オレの世界は変わったんだ」


 静かで、でも力強い口調に気圧される。

 口をはさむ隙もない。


「ぼんやりとした世界に、そのとき初めて色がついた。

 無意味だったオレの人生に、ようやく光が灯ったんだよ」


 そこまで一気に話して、健一は少しはにかんだ。


「……なんだか、らしくない話をしちゃったね。

 とにかく、トオルくんには感謝してるんだって言いたかったんだ」


 勢いよく立ち上がって、僕に手を差し出す。


「悩んでるなら、話してほしい。

 オレができることなら、なんだって力になるよ」

「健一……」


 美玲がいなくなって空いた穴に、健一の温かい気持ちが入り込んでくるようだった。

 やっぱり僕は、健一と友達でよかったと思う。


 そんな親友の差し出してくれた手を、僕は、


「ありがとう。……だけど、僕は大丈夫だから」


 僕は、取らなかった。

 自分の力で、立ち上がる。


「トオルくん?」


 訝る声に、僕は答える。


「そりゃ、僕にだって悩みがない訳じゃないけどさ。

 健一は、今のままでいいんだよ。

 今のままでいてくれるのが、僕にとって最高の手助けだから」


 健一の個性はとぼけた所で、何かに真剣になるのは毒になる可能性がある。

 それだけは、どうしても避けたかった。


「別に、邪魔だって言ってる訳じゃないんだ。

 ただ、本当に……」

「トオルくん」


 暗くなりかける僕の顔の前に、健一は手を差し出した。



「――バン!」



 掛け声と同時に、目の前で赤い花びらが弾けた。

 驚く僕に、してやったりな顔で笑う健一。


「オレはそんなの、気にしないからさ。

 明るく行こうよ、明るくさ」


 そう言って、曇りのない笑顔を見せてくる。

 僕も釣られて、頬が緩んだ。


「これ……トランプ?」


 花だと思ったその一枚を手に取ると、それはハートの模様がついたカードだった。


「ちょっとした手品だよ。オレ、昔マジシャンを目指してたことがあってさ」

「そうなんだ。それは初耳かも」

「そりゃそうだよ。オレだっていま思い出したとこだし」

「あはは……」


 あいかわらずな台詞に、心からの笑いが漏れた。

 僕は本当に健一に助けてもらっていると、深くそう思った。


「なんか、思い出してきたよ。

 学校にやってきたマジシャンがすごくってさ。

 オレがマジシャンに憧れたのは、その人が本当に『魔法』を使ってると思ったからなんだ」

「魔法?」


 飛び散ったトランプを一緒に拾いながら、そんな話をする。


「その人は、手から、鞄から、帽子の中から、何でも出してみせた。

 オレはそれに感動してオレもマジシャンになりたいって言って、どうやったらそんなすごいことができるのかって訊いたんだ」

「へぇ? そしたら?」

「あの人は、『強く思い続ければ、絶対に願いは叶う』って、そう言って……」


 そこで健一の手が、止まった。


「健一?」


 問いかけた僕の声にも、反応せずに、


「そう、か。わすれてたよ」


 僕には理解出来ないことを、ぽつりとつぶやいた。

 それから、健一は僕に持っていたトランプの束を押し付けると、


「ちょっと、用事を思い出した。

 ごめん、トオルくん。

 オレ、一度家にもどるから」


 そう言い捨てて、慌ただしく階段を駆け下りて行ってしまった。

 健一らしからぬ素早さに、止める暇もなかった。


「……これ、どうしろって言うんだよ」


 僕は健一が消えた階段を恨めしげに眺めながら、押し付けられたトランプの山を見て、ため息をついた。




 すっかり振り回されてしまったけれど、健一と話が出来たことで、ようやく教室に戻る決心がついた。

 でもその前に、と外階段を降り、僕は校舎裏に向かった。


 校庭とは違って日陰の多いこの場所には、いくつかの植え込みと背の高い木が植えられている。

 見飽きるほど見た、変わり映えのしない光景。

 そう、ざっと眺める限りでは、何の異常も見られないように思える。


 でも、それは多分、間違いだ。

 大きく息を吸う。

 肺の中に精一杯に空気を取り込んで、



「――火事だぁぁああああああ!!」



 一気に吐き出した。


 これで何もなかったら大恥だ。

 そんな思考が頭に閃いたのも一瞬、


「わ、ひゃ! わぁあああ!!」


 呆れるほどにあっさりと、植え込みの中から緑の物体が飛び出してきた。


「か、火事……ふひゃ!」


 泡を食って出て来たそいつは、僕の目の前でつんのめって転んだ。

 あまりのちょろさに、ため息すら漏れる。


「……やっぱり、ここにいたんだ」


 顔を上げて辺りを見渡す迷彩服の少女に、僕は声をかける。

 そこでようやく、そいつが僕に気付く。

 さっきまでの行動を逆回しするみたいに、今度は泡を食って植え込みに飛び込んだ。


「にゃー! にゃーにゃーにゃー!」


 頭隠してなんとやら。

 上半身だけを茂みに突っ込んだそいつは、今更ながらに猫の鳴きまねでごまかそうとする。


 前もそれをやって失敗したのに、少しも学んでいない。

 いっそほれぼれするほどの学習能力のなさだ。


「あのさ。おしり、隠れてないから」


 元気よく暴れていた小さな身体が、ぽてんと落ちた。




 観念したらしい迷彩服の少女を茂みの中から優しく引きずり出して、紳士的に尋問することにした。

 流石に自分でも悪あがきが過ぎたと思っているのか、反省しているようだ。


「……ふ、不覚でした」

「ああうん、まあね」


 多分、この子が想像している以上に色々不覚だと思う。


「次からは、ちゃんと猫の尻尾も用意しておくことにします」

「うーん。多分そういう問題じゃないんだけどね?」


 でも、説得は無駄な気がする。

 僕はすぐに諦めた。


 改めて、目の前の少女を眺める。

 今日は全身の迷彩服に頭の上の暗視ゴーグルに加え、カメラまで持参している。


 ここまで来れば間違いない。

 どういう目的かは知らないけれど、健一が拾った写真の持ち主はこの子だったんだろう。

 この、迷彩服の、ええっと……。


「そう言えば、自己紹介してなかったよね。

 僕は透。君は……」


 問うと、すかさず猫手を決める少女。


「ね、ネコです! にゃあ!」

「へー、そーなんだ、珍しい名前だね」

「そんな返しをっ!?」


 なぜか衝撃を受けているけど、まともに付き合うのはめんどくさい。

 無視して話を続ける。


「で、その首から提げてるのは……」

「高性能ポリライドカメラです!」


 なにその白バイみたいな名前のカメラ。


「具体的には?」

「不思議な力で撮ったその場で現像できます!」

「不思議というか、科学というか……まあ、なんとなく分かったよ」


 撮ってすぐに写真が出来るとかいうアレだろう。

 何かの本で読んだ記憶がある。


「この写真。健一に、僕の友達に渡したのは、君だよね」


 そう言って、健一から受け取った写真を見せた。


「あの……は、はい。

 透さんのこと、すごく探していらっしゃるみたいだったので、こっそりと。

 め、迷惑でしたか?」


 びくびくしながら訊いてくる。

 安心させるよう、やわらかく言った。


「いや、助かったよ。

 おかげで健一とも話が出来て……うん、よかったと思う。

 ……ありがとう」

「えっ? え、ええっ!」


 頭を下げると、彼女は分かりやすく動揺した。

 きゅーっと、顔が赤く染まっていく。


「あれ、どうかした?」

「ふわっ! ご、ごめんなさい。

 だれかに褒められるの、は、初めてだったもので……!!」


 不憫な子だった。

 まあ、今までの様子を見ていれば、それも納得出来るところではあるけれど。


「ふ、ふっへへ。わ、わたし、常々褒められて伸びる子じゃないかって思ってたんですよ!」


 おかしな笑い声と共に、もっと褒めてもいいんですよ、と言いたげにちらりちらりとこちらを窺う彼女。

 完全に調子に乗っている。


「ところでさ」

「はい!」

「その僕の写真、健一が僕を探しに来る『前』に撮ったものだよね」

「……え?」


 調子に乗った笑顔が、固まる。


「その写真、健一が僕を探しに来なかったら、一体何に使うつもりだったのかな?」

「あ、う……」


 赤く染まっていた顔が、見る間に青く変わっていく。


「そもそもさ。そのカメラ、何かに使うために持ってたのかなって思うんだけど」

「あ、う、うぁ……」


 一言も反論出来ず、漫画みたいに目をぐるぐるさせている。

 ちょっと面白い。


「もしかして、だけど……」


 トドメを刺すべく、僕はそこで少し、言葉をためて……。


「……盗撮?」

「ち、違います! これは単なる人類保管計画です!!」


 そうか、単なる……。


「……じんるい、ほかんけいかく?」


 なんか予想外にうさんくさい響きの言葉が出て来た。


「ええっと、それって、何?」


 とりあえず、尋ねる。

 すると彼女は、こっちがドン引きするくらいの勢いで話し始めた。


「ほ、滅びゆく人類を、せめて写真としてだけでも保管しておこうというナイスな計画です!」

「そ、そう、ナイスな……」


 そのまんまだ。

 僕の引いたリアクションを見て、なぜかこのまま押せば行けると思ったらしい。

 さらに身を乗り出してくる。


「計画のためにはたくさんの写真が必要になるのです!

 だからその一環として、わたしは透さんたちを盗撮してただけで、全くやましいことはないんです!」

「いや、今盗撮したって自分で認めちゃったからね」

「え? ん? ……あれぇ?」


 話をすると、ボロしか出さない人らしい。

 この子ほど尋問のしがいがない人間も珍しい。


「ま、待って下さい!」


 それでもまだ言い逃れの余地があると思ったのか、彼女は声を張り上げた。


「た、たしかにわたしは、計画のための写真を集めるために、こっそりと写真を撮っていました。

 それは認めますし、反省もしてます。

 で、でも、信じて下さい。

 さっきの一枚、透さんの写真だけは、そうじゃないんです」

「一応聞くけど、何?」


 僕の言葉に、彼女は自慢げに答えた。


「趣味の観賞用です!」

「それもう普通の盗撮だよ!!」





「はぁ、まったく」


 結局あの女の子、ネコには厳重注意だけをして、また野に返した。

 どうにもめんどくさい奴ではあるけれど、枯れ木も山のにぎわいとも言う。

 ああいう突き抜けた個性の持ち主がいても問題ないだろう。


「……人類、保管計画、か」


 正直に言えば、人類を保管したいという気持ちは少しだけ分からなくもない。

 多分それは、僕が深見先輩を見て思ったのと同じような感覚だ。


 ……いや、あの子のことだから、全然違うのかもしれないけれども。


 そんなことを振り返っている内に、教室まで着いてしまった。

 少し気が重い。

 バカのタケルはともかく、成華さんと健一には謝らないといけないだろう。


 それでもためらうことなく、僕は教室の扉を開けた。

 そこには、


「遅いぞ健一、次はお前の番……あれ、透?」


 トランプを手に持った、タケルだけがいた。


「成華さんと、健一は?」

「え? 成華さんは生徒会室。

 健一は……お前を探しに行ったんじゃなかったのか?」

「まだ、戻ってきてないの?」


 健一と別れたのは、結構前だ。

 健一の家は、ここから近い。

 もうとっくに戻ってきてる物だと思っていたのに。

 心の中で、暗雲が広がっていく。


「むしろ俺が居場所を訊きたいくらいだよ。

 あいつ、自分の手札持ったままどっか行っちゃってさ。

 俺も困ってるんだ」


 タケルの愚痴を聞き流しながらも、嫌な予感が込み上げてくるのを抑えられない。

 だけど、ここで取り乱しても仕方がない。

 僕は不吉な未来を出来るだけ考えないようにすると、健一に片づけを押し付けられたトランプを取り出す。


「あれ? それって健一の……」

「とりあえず、健一の代わりに一勝負と行こうか」


 健一が戻ってくるまでの間、のんびりと待つことにした。




 僕とタケルのあまりにも不毛な二人ババ抜きが六十周目くらいに入った時、


「なんか……あれ? なんか……」


 突然異変を見せたのは、タケルだった。


「どうかした? 負けが込みすぎて、とうとう日本語、忘れちゃったとか?」


 そんな軽口にも、応じない。


「いや、言葉じゃ、なくて、何か、急に、ぼやけてきてるような、その、つまり……」


 タケルの言葉は要領を得なかった。

 辛抱強く、待つ。


「俺たちの友達、あれ、知り合い?

 とにかく、その、つまり、そこに座ってる奴で……」


 ――全身に、鳥肌が立った。


 タケルが示した席は、健一の席だった。


「思い出せないとか?」


 訊く。

 冷静さを装って、出来るだけ余計な刺激を与えないように。


「あ、いや、そんなはずないだろ。

 ちょっと、ど忘れしてるだけで。

 ええと……健一。

 そう、健一だな!

 そうだよ、俺が、健一を忘れるはずない」

「分かった。……行こう」


 タケルの手を引いて、歩き出す。


「お、おいおい。行くって、どこ行くんだよ」


 無視して、進む。

 思い出せたんだから大丈夫。

 そう自分に言い聞かせるが……。


 ――正直、嫌な予感しかしなかった。


 教室を抜ける頃には、早歩きだった足は小走りに。

 校舎を出る辺りには、小走りだった足は駆け足に。

 そして校門をくぐった時には、駆け足だった足は全速力に変わっていた。


 そんな僕に、タケルは、


「お、おい。だから、どこ行くんだってば」


 なんて言いながら、憎らしいくらい普通についてきていた。

 体力だけはいつもありあまってる奴だ。

 その在り方が、羨ましい。


「健一の家だよ。気になることがあるんだ」

「健一の、家?」


 不思議そうに首をひねるその鈍い反応に、僕はどうしようもなく苛立った。

 それを全て押し付けるみたいに、地面を蹴って進む。


「お、見えた。あれだよな?」


 全力疾走中とは思えないタケルの声に、俺も顔を上げた。

 タケルから数秒遅れて、健一の家を見つける。


 家の前まで速度を緩めずに走り続けて、扉に体当たりするように止まる。

 ここまで少しでも早く着こうと急いでいたはずなのに、扉の前で、わずかに入るのをためらった。


「どうしたんだよ? 健一、中にいるんじゃないのか?」


 能天気なタケルの声に、八つ当たりと分かっていても苛立ちが募る。

 タケルから視線を外して、ドアをたたいた。


「健一、いる? 健一?」


 返事はない。

 そもそも、健一がここにいるという保証もない。

 弱気な考えが一瞬頭をかすめる。


「中、入ってみるよ。どうせ、カギなんてかけてる訳ないし」


 ドアノブを握り、軽くドアを引く。

 思った通り、カギはかかっていない。


「ちょ、ちょっと、勝手に上がるのはまずいんじゃないか? 本人の許可を取って…」


 構わず、ドアを開いた。

 中に入る。


「入るよ、けん……」


 異常には、一歩目で気づいた。思わず足を止める。

 その後ろから部屋を覗き込んだタケルが、「うわっ」と声を漏らした。


「と、透? これって……」

「しばらく見ない内に、部屋の模様替えをしたみたいだね」


 表面だけでも平静を装って、そう答える。



 ――そこは、本の部屋だった。



 辺り一面が、本……本棚になっていた。

 四方の壁の全てに本が敷き詰められているのはもちろん、床や天井も同じようになっている。


 ベッドやタンスなどの最低限の家具、照明器具とて一切なく、光の差し込む窓もない。

 あるのはただ、部屋の唯一の出入り口であるドアと、大量の本。

 それに、その本を納める本棚だけだった。


 床はともかく、天井の棚などはガラス戸を開けただけで中の本が落ちてしまうだろう。

 とても、実用的じゃなかった。

 まるで常軌を逸した本の海。


 そして、その中でもひときわ目を引くように、


「なぁ。透、これ、なんだろ…?」


 部屋の中央に、一冊だけ開かれたまま置かれた本がある。


「ほら、なんかこれだけ、後から書き足されたみたいな…」


 その余白に、明らかに手書きと分かる、走り書きされた文字。



トオルくんへ

これが こたえ

おもいだし て




「……健、一」


 その文字は、最後になるほど弱々しくなっていた。

 おそらくは、消えかけた体で文字を残そうとした結果だった。


 最後の一文字を書いた時、身体はもう、物に触れられるような状態じゃなかったんだろう。

 何度も書き損じたような跡があった。


 健一が、最後に残したたった三行の言葉。

 それは、明らかに僕に向けて書かれたもので、


「……分からないよ、健一。きちんと、自分の口で、言ってくれなくちゃ、さ」


 それを見た途端、はっきりと悟ってしまった。



 ――健一が、消えてしまったということに。

 ――どこを探しても、彼はもう、この世界にはいないということに。



 だから、


「……ここから、出ようか。

 勘違いだったみたいだ。

 ここには、何もなかった。

 僕が探していた物は、ここにはなかったから」


 せめて、これ以上失わないように。

 事情を理解していない、そして理解させてはいけないタケルを、この場所から遠ざけようと、自分から扉に向かう。

 だが、タケルは、どうしても腑に落ちないというように、僕を呼び止めた。


「なぁ、透。健一はさ。どこに行ったんだ?」


 それは、ありえないはずの問いで、そして、決して答えられない問いだった。


 本人も、自分が訊いていることの意味が分からず、不思議に思っているのだろう。

 首を傾げながら、それでも、どうしてもぬぐいきれない違和感を、形にするように……。


「なぁ……。

 どこ、行ったんだよ。

 どこに、さ。

 けん、いちは……」


 タケルの声だけが、持ち主を失った部屋に虚しく響いた。

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