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Menu6 チョコレート

 

 こんなにも人を好きになるなんて、思ってもみなかった。今まで何事にも、これ程夢中になった事など無かったのに。

 

 鈴川実が息を弾ませて店の中に入ると、ひんやりとした涼しい空気が実を出迎えてくれた。外は体温を上回る暑さで、エアコンの効いた店内は心地好い。

「いらっしゃいませ、鈴川さん。今日もいらして下さったんですね」

 美しい女性が笑顔を浮かべて実に声を掛けた。この店のオーナー、長野真由美だ。

 

 真由美は魅力的な女性だった。真由美の雌鹿を思わせる黒い瞳が、実を映して弓のように細まると、それだけで実は頭がふわふわとしてしまう。

 実は目の前の女性に合う為に、このカフェへ三日と開けずに訪れていた。通い始めて、はや半年。おとついもカフェで会ったというのに、随分と会えない時間が長かったように感じられる。

 実はアイスコーヒーとオーナーが勧めてくれたチョコレートを注文し、定位置となっている窓際の席に腰かけると、狭い店内を見渡した。

 店内はちらほらと席が埋まっている。アルバイトの店員が一人いるだけの小さな店は、オーナーが接客もこなしていて、暫らくすると真由美が注文の品を運んで来た。

「お待たせしました。今日もゆっくりしていって下さいね」

 そう告げると、真由美は接客のためにカウンターへと戻って行った。実は離れて行く真由美の後ろ姿から、視線が外せないでいた。真由美の腰は細くくびれ、女性らしい曲線を描きながら形の良い尻へと続いている。スカートから伸びる足は、すらりと細く見事なプロポーションだ。


 実は真由美に夢中だった。

 一瞬でも真由美が自分だけを見つめて笑顔を向けてくれた。そう思うだけで、興奮のあまり手先が震えてしまうくらいだ。

 真由美は二十八歳だと聞いたが、自分と同年代くらいに見える。彼女は三年前に結婚しているそうで、子供はまだいない。けれど、実としては、人妻であることが彼女の魅力を損なう要素とはなり得なかった。

 むしろ、実の眼には既婚女性の落ち着いた雰囲気が、同年代の騒がしい女性よりも魅力的に映っていた。

 本音を言えば、真由美に会うために毎日でもここに通いたい。だが、しつこく来店して真由美に嫌がられたくはないし、毎日まっ昼間から、ふらふらとしているようにも思われたくない。そのためこのカフェに来る時は、いかにも仕事の合間に来たというような雰囲気で訪れていた。だが、実際の所、実は大学を卒業してから二年間、定職に就く事も無くコンビニの深夜アルバイトという身で、毎日通うには懐具合が苦しかったのだ。


 実は勧められた、真ん丸い五百円玉くらいのチョコレートを摘まんでみた。名前はボンボンショコラというらしい。

 ボンボンショコラを一口で頬張ってみると、中はとろりとした食感の、味わいの違う何かが出てきて驚いた。一見しただけでは何が入っているか分からない、手間のかかったチョコレート菓子だった。一体何が入っているのだろう? 実は次のチョコレートを半分ほど齧ってみると、中にはクリーム状のチョコレートが入っていた。

 これは外見と中身が全く違う、何が入っているか全く予測の付かないチョコレートだと思った。


「鈴川さん、お味はどうですか? これは新作のチョコレートなんですよ」

 真由美が話しかけてきた。この店に通っているうちに、真由美と気さくに会話ができるようになっていた。実にしてみれば、ようやくここまで近付けたという所だったが。

「これは、随分手間のかかっているチョコですね。中に違う種類の物が入っていて。とても美味しいです」

「良かった。その中身はガナッシュって言うんですよ」

「ガナッシュ?」

「ええ、ガナッシュは偶発的な事故というか、失敗から生まれたチョコレートなんですよ」

「へえ、偶然から生まれたチョコか」

 真由美の方から話しかけてくれた事に浮かれてしまい、上ずった声が出ないようにするだけで精一杯だ。真由美にとって自分は唯の客では無く、彼女と親しく会話を交わす間柄なのだと思えた。眼の前で、真由美が完璧に思える笑顔を浮かべた。


 一日空けて、実はいつものようにカフェへと来店した。幸運な事に客は誰もおらず、アルバイトの姿も見当たらない。

 今日は真由美と二人きりで、この時間を邪魔する者は誰もいない。そう解った瞬間に動悸が激しくなり呼吸が乱れてしまう。最近、アルバイトは実の事を、嫌な虫でも見るような眼を向けてくるので、実は内心気分の悪い思いをしていたのだ。


「あれ? 真由美さん、今日は何だか元気が無いですね。どうしたんですか?」

 真由美は何となくいつもと違い、血色が悪いように見える。

「そう見えますか? そんな事無いですよ」

 真由美は否定したが、いつも彼女を見ている自分だからこそ、様子が違うという事に気付く。

「鈴川さんは、優しいのね。私、鈴川さんのような人に、もっと早く出会えていれば良かった」

「えっ?」

 濡れたような黒い瞳に見つめられ、実の思考はくらくらした。その瞳に吸い込まれそうになる。

 今の言葉は一体どういう意味なのだろう。実は胸が高鳴った。

 しかし、真由美はそれ以上何も語ってくれない。しばらくすると店に客が入ってきて、実はそれ以上の事が聞けなくなってしまった。

 

 いつもならば、真由美のほっそりとした首には、指輪を通したネックレスが下がっているのだが、今日はネックレスをしていない。

 真由美に一体何があったというのだろう。疑問を抱えたまま、実は店を出た。


 次に来店した時、真由美は頬にガーゼを当てていた。白いガーゼが痛々しく、驚いて実は声を掛けた。

「真由美さん、どうしたんですか? その頬」

 真由美は弱々しく微笑むだけだった。

「本当に何でも無いの」

 何者かに暴力を受けたのだろうか? おとついも真由美は様子がおかしかった。もしかして、夫婦仲が上手くいってないのでは?

「……鈴川さん。私はガナッシュのようにはいかなくて。失敗ばかり」

 真由美は実にだけ聞こえる程度の小さな声で、そっと言った。

「あ、ごめんなさい。お客様にこんな話なんかして。鈴川さんなら話しやすくて、つい口が滑ってしまったの」

 そう言いながら俯いた真由美の肩は小さく震えていた。その様子は萎れてしまった花の様に力無く、実の体はかっと熱をもった。

 今日も真由美の首には、ネックレスが見当たらない。

「真由美さん。一体何があったんですか? 僕でよかったら、力になります」

「ありがとう鈴川さん。優しいのね。私、夫より先にあなたと出会っていたら良かった」

 小さな声で話をしているので、いつもより真由美と距離が近い。黒々とした瞳を潤ませて、上目遣いに見上げられれば、実はその魔力に飲み込まれてしまった。

 真由美は彼女の夫と上手くいってないんだ。その頬は夫に殴られたのだろうか。

 腹の底から怒りがふつふつと湧き上がってくる。何とか暴力を振るう夫から解放してやりたい。この、細い肩を自分が守ってやりたかった。

 その日から、実は毎日カフェに通うようになった。真由美が仕事が終わる所を待ち伏せし、彼女が帰宅するのを後をつけて見守った。辿りついた真由美の家は、高級住宅街にあった。夫とは一体どんな男なのだろう。本音を言えば、このまま家に押し入ってしまいたい。しかし、実際にはどうする事も出来ず、ただ外から明かりが灯るのを見守るしかできなかった。


「真由美さん、旦那さんはどんな人なんですか?」

 客がいない所を見計らうと、実は思い切って真由美に聞いてみた。

 今日の真由美の顔にガーゼは見当たらず、心配だった醜い跡もない。

 実の言葉に真由美は眉を八の字に歪めて微笑んだ。

「……私には勿体ないくらいの人」

「真由美さん、こんな事は言いたくないけど、旦那さんと上手くいってないんじゃ? 別れないんですか?」

「あの人は別れないわ。独占欲がとても強い人なの」

 思わず実は真由美の白い手を掴んでいた。僕が貴女を守ってみせる。黒々と濡れたような瞳を見つめ、眼に力を込めた。

 口を開こうとした時、真由美がアルバイトに呼ばれた。咄嗟に手が離れる。名残惜しげに手を伸ばそうとした時、忌々しげにアルバイトが実を見ているのが分かって手を引っ込めた。


 次の日から真由美は彼女の夫と帰宅するようになった。

 あれが真由美の夫か。随分と年上で、まるで老人のようじゃないか。とてもじゃないが、真由美とつり合う男には見えない。真由美に暴力を振るう男なのに、いかにも真由美を大事そうに振る舞う様子が腹立たしい。独占欲が強いというのは本当だろう。このように毎日夫が迎えに来るのだから。

 これでは真由美はこの男から解放されないまま、ずっとこの男が死ぬまで拘束され続けてしまう。自分が助けてやらねば。実は拳にぐっと力を込めた。


 数日後、真由美の夫は通り魔に刺されて死亡した。死因は失血死で、刺されていた個所は三十か所以上に及んでいた。犯人はまだ捕まっていない。

 これで、真由美は自由になれる。実は晴れやかな気持ちで一杯だった。


「鈴川実さんですね」

 黒いスーツを着た二人組の男に呼び止められた。男は警察手帳を取り出すと、実に見せつけた。

「殺人容疑で署に同行してもらいますよ。それと、あなたには長野真由美さんに対するストーカー規制法違反容疑もかかっています」

 実は何を言われているのか理解できないまま、思考が真っ白になった。どうして? 嘘だろう?


「真由美さん、こんな事になってお気の毒です。あんなに良い旦那さんだったのに」

 店のアルバイトの子が泣きながら述べた。ポツポツと降り始めた雨に石畳はシミを作る。灰色の空は、葬式に参列者の気持ちを表しているかのように厚い雲で覆われていた。

「ええ、あの人がいなくなるなんて、今もまだ信じられないの」

 真由美はこみ上げる涙をぬぐう様に、眼元にハンカチを当てた。そのまま、震える手で口元を覆う。

 その隠された口元には笑みが浮かんでいた。




読んで下さいまして、ありがとうございました。

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