Menu4 ぷりん
鮎川良は溜息をつきながら、先生の話をぼんやりとした表情で聞いていた。
6月の教室は湿気を孕み、じっとりとした重たい空気に覆われている。教室内は蒸し暑く、窓を開けてなお、不快だった。
しかし、良にはこの教室そのものが不快に感じていた。一カ月経っても一向に馴染めない学校は、良にとって居心地の悪さしか覚えない場所だった。
良は5月にこの田舎の小学校に転校してきたのだが、良はこの田舎にも、このクラスにも馴染めない。都会で別れてきた友達を恋しく感じ、馴染めない事でさらに孤独感を募らせていた。
気が付くと、先生の話は終わっていた。良は殆ど話を聞かずに過ごしてしまい、いつの間にやら任されていた飼育当番に、戸惑うばかりだった。
「ねえ、鮎川くん。私達、今日から飼育当番一緒だね。よろしく!」
クラスメイト達が帰った後、静かになった教室で良に声をかけたのは、一緒に飼育当番を任命された上野菜緒だ。愛嬌のある顔にショートカット、良と同じ位の背丈で活発な女の子だった。
「よろしく」
良は短く返事を返し、そっぽを向いた。その態度は愛想の良い菜緒とは正反対だ。
「じゃあ、早速プリンに餌をやって、水槽の水を代えようよ」
そう言うと、良の返事を待たずに教室奥の水槽へと向かった。
水槽の中には一匹のクラゲがふわふわと泳いでいる。見た目は頭でっかち短足で、掌サイズの図体は頭がクリーム色、足が茶色だった。このクラゲ、見た目からぷりんと名付けられていた。そう言えば、今日の給食に出たプリンとそっくりだ。
水槽に一匹だけのクラゲは、とても寂しそうに見える。転校してから今だ友達のいない良にとって、クラゲと自分は似た者同士のように思えた。
このクラゲは昨日担任の先生が突然持ってきたのだ。なんでも学校の池で見つけたらしく、早速クラスで飼う事となったが、珍しい事に淡水に生息するクラゲだった為、塩素の入らない水で飼育していた。
菜緒がクラゲに餌を与えている。
良は換えの水槽を抱えると、川の水を引き入れている学校の池へと向かった。後ろから菜緒が追い掛けてくる。
「鮎川くん、重くない? 私も一緒に持つよ」
「別に」
空の水槽は良一人でも持てる重さだった。それに、何となく菜緒に手伝ってもらうのが気恥ずかしい。
良は相変わらず愛想の無い返事を返し、菜緒に戸惑った表情を浮かべさせた。
良は水槽に水を入れて持ち上げた。先程まで一人で持てた水槽は、水の入っている状態だととても重い。しかし、先程断った手前、良は意地でも一人で運ぼうとした。結果、途中でひっくり返してしまい、良の服も床も水でびしょ濡れにしてしまった。
「大丈夫だった? 鮎川くん。濡れちゃったね」
菜緒はポケットからハンカチを取り出すと、良の濡れた手足をさっと拭き、素早く掃除道具入れから雑巾を取ってくる。
広範囲に濡れた床を、菜緒は手際よく拭いていった。
良は恥ずかしさと情けなさで一人顔を赤くし立ち竦んだが、菜緒が床を一生懸命拭いているのを見て、慌てて一緒になって床を拭く。
拭き終わると、今度は二人協力して水槽を運び、クラゲを丁寧に移し替える。
「ふふ、ぷりんったら、気持ち良さそうだね」
菜緒は楽しそうに笑顔を浮かべた。
「うん、そうだね。上野さん、さっきはありがとう」
菜緒は花がほころぶような、眩しい笑顔を見せた。
夕日が教室の窓から差し込んでくる。雲の隙間から放射状に放たれる夕日は、周囲の空間に紅く濃厚な陰影を造り出し、神秘的に空を染め上げ二人の心を奪う。夕日は空だけでなく、二人も染めていた。
良は夕日に照らされた菜緒の表情に見惚れたが、菜緒の慌てた声で我に返った。
「ねえ! 見て、鮎川くん。早くっ」
菜緒の指差した方向を見た時、良は自分の眼を疑った。
水槽のクラゲが泳ぐように、宙に浮いていたのだ。
「ぷりんが浮いてる!」
「ぷりん、宙を泳いでいるよっ。ね、鮎川くんも見えるよね?!」
「見えてる。……うそだろっ」
二人は固まったまま、しばらくクラゲを見続けた。視界のクラゲは、しばし宙を漂った後、再び水槽の中へと戻って行く。
「幻でも夢でもないよな。確かにぷりんが宙に浮いてたよな」
「うん。見間違いじゃないよ! だって、私達二人共見ていたもの」
眼の錯覚ではなかった。
二人はそのままクラゲを見続けたが、再度宙に浮く事は無かった。
クラゲが浮くなど信じれない。クラゲには鳥や虫の様な羽は無く、飛行可能な形態ではない。しかも、宙に浮いていた。つまり、何か別の能力を使ったのだ。まさか、超能力だろうか? クラゲが驚異の進化をしたとでも? 良の空想はどこまでも広がった。
それからの放課後、毎日遅くまで良と菜緒は、クラゲの世話を甲斐甲斐しく行った。しかし、クラゲは一向に浮かぶ気配を見せない。
瞬く間に飼育当番の期間は過ぎて行く。二人は期待してクラゲを毎日観察したが、さすがに夢か錯覚だったと思えてきた。
当番最終日。良は諦めた気持ちで水槽の水換えを行う。もう、浮かぶ事など期待しない。見間違いだと考えるようになっていた。
「ねえ、良くん。窓の外、見て」
「何? 菜緒ちゃん」
二人は自然と下の名前で呼び合うようになっていた。外を見ると、以前にも見た不思議な程に美しい夕焼けが広がっている。
「とっても綺麗で、不思議な空だね」
その時、背後で小さく水の跳ねる音がした。振り返るとクラゲが再び宙に浮いていた。
「な、菜緒ちゃん! 浮いてるよっ」
「凄いっ。やっぱり見間違えじゃなかったんだ! あっ、どこ行くのっ」
「待てっ」
クラゲは水の中で泳ぐように、空中を移動する。すいすいと、素早く開いている教室の窓から外へ出て行ってしまった。
このままでは見失ってしまう。二人は弾かれた様に、クラゲを必死で追いかけた。
クラゲは水の中で泳ぐタコの如く全身を使って宙を泳いだ。そのスピードは意外と速く、視界から消えてしまいそうだ。二人はクラゲを夢中で追って、学校裏の山の中へと入って行った。
前を走っている菜緒の姿がどんどん小さくなっていく。良は菜緒の足の速さに驚きながら、必死で走り難い山道を進んだ。菜緒はこの山道に慣れているのか、身軽に進んで行き、あっという間に良との距離が離れていく。
良はとにかく菜緒を追って走り続けた。
良が漸く菜緒に追いついた時、菜緒は木々の開けた空間に立ちつくしていた。
「菜緒ちゃんっ、ぷりんは?」
「しっ。あれを見て」
菜緒の示す方を見た良は、驚きのあまり声が出なかった。
薄闇の中、沢山の淡い光が点滅しながら乱舞していた。まるで、群れ飛ぶ蛍のように。
蛍より大きな光源は、夜に染まりつつある闇の中で、色鮮やかに仄かに光る。様々な色みを帯びた光はビー玉のように美しく、優しく、そして心惹かれる輝きだった。
その輝きを纏い、浮かんでいるのはクラゲだった。水の中で淡く光るように、何匹ものクラゲが宙に群れて命の灯し火を輝かせる。
クラゲの足元には池が広がっている。澄んだ水を湛えた池はクラゲの光を水面に映し、オーケストラの如く無音の音色を響かせた。
無意識の内に、良はふらふらとクラゲに向かって足を進めていた。美しいクラゲ達に魅入られていたのだ。
「良くんっ、危ない! それ以上は行っちゃダメ」
菜緒の声が良を正気に戻したが一足遅く、良の足はずるりと滑って、冷たい水の中に引き込まれてしまった。
派手な音と悲鳴が静寂を破る。
池から這い上がろうと必死でもがく良の足に、水中に生えた水草がどんどん絡み付いてくる。動けば動く程、良は身動きが取れなくなっていった。
菜緒は良の右手を掴むと、必死で引き上げようとする。しかし、子供の力では到底及ばず、逆に菜緒の方が引き摺られていた。
「良くん、頑張って。今、引き上げるから!」
その言葉とは裏腹にどんどん良は沈み、菜緒も引き摺られる。菜緒は手が離れないようしっかりと力を込めた。
「絶対に助けるから! 良くんは大切な友達なんだからっ」
良は首まで水に飲まれてしまい、口から水が入り込んだ。まともに息が出来なくなり、パニックに陥る。水は鼻からも容赦なく入り込み、激しい呼吸困難と苦しみが襲った。良は確実に迫ってくる死を感じて戦慄した。
必死で助けを叫ぶ。良も、菜緒も。
良の意識が遠くなりかけた時、突然呼吸が楽になった。何度も咳き込んで水を吐きだしながら、身体が引き上げられた事を感じていた。
見ると、良と菜緒は沢山のクラゲ達に取り囲まれていた。
「……浮いてる。僕達浮いているよっ!」
「良くん! 良かった、あのまま死んじゃうかと思った。大丈夫?」
「うん。それよりどうなっているんだろう? もしかして、ぷりんが助けてくれたのかな」
眼の前を光るクラゲ達が泳ぐように浮いている。周りを見渡すと、二人はクラゲのように池の上に浮いていた。
二人の体はどんどん高く浮上して行き、遂には遙か下に木々が見えるまで昇った。
空からは、良達の住む小さな町が眼下に広がって見える。町の明かりがポツポツと光を放つその様は、小さな宝石を散りばめられたようだった。
「良ちゃん、町が見えるよ」
「うん、とっても綺麗だね。知らなかった、こんなに素敵な町だったなんて」
繋いでいる菜緒の手と同じように温かく、感動が良の心を満たしていく。
不意に二人の体は宙を進み出した。風を切って鳥のように裏山の上を舞う。二人は手を繋いだまま両手を広げ、風を感じて空を飛ぶ。二人の体は裏山を超えて学校へと向かって行った。
着地したのは学校の池の中だった。
二人はびしょ濡れになってしまったが、不思議な体験と感動で、全く気にならなかった。
次の日、いつもより早く登校した良は菜緒と共に水槽を見て驚いた。いつの間にか、水槽には二匹のクラゲが泳いでいたからだ。
「ぷりん、お嫁さんが出来たのかな」
「そうか。昨日のはクラゲ達のお見合いだったんだ!」
二人は眼が合うと、お互い笑い合った。良はこのクラゲが寂しそうだとは、もう思う事は無かった。
良自身のように。
読んでいただきまして、ありがとうございました。