Menu3 クッキー
「……やったぞ!」
ぼさぼさの白髪頭を乱暴に掻きむしり、興奮で震える手を伸ばす。
「ようやく完成した」
老人は白衣が汚れるのもかまわずに、薬品の散乱している机の上に覆い被さった。手垢で汚れた老眼鏡のレンズに触れるほど、それに接近して眺める。
捻じ曲がった唇から擦れた声が漏れた。
一度零れた声は、次々と溢れ出して留まる事を知らず、ついには大音量となって部屋中へと響き渡った。そこには胸を天に向く程仰け反らせ、哄笑を撒き散らす老人の姿があった。
「ただいまー」
学校から帰宅した私は、持っていた重たい鞄をソファの上に放り投げ、隣にどっかと腰を下ろす。
「あー、お腹空いた! お母さん、今日の晩御飯何?」
帰宅する前からお腹はペコぺコで、何度も恨めしそうに鳴いている。いつも、部活の後はお腹が空いて堪らないのだ。
「あれ、このクッキーどうしたの? 美味しそう!」
珍しくクッキーなんかが置いてある。どれ、アーモンドとジンジャー、黒ゴマか。私の眼はお菓子の皿に釘付けだ。あ、涎が出てきた。
我慢できなくなった私は、黄色のクッキーを頬張った。こんなの一口だ。口の中で軽やかな歯応えを伝えたクッキーは、仄かに生姜の香りを漂わせ、ほろほろと崩れて無くなった。
「うわぁ、変わった食感。美味しー」
予想外の味に興奮しながら食べていると、お母さんが手を拭きながら、キッチンから出てきた。
「おかえり、小華ちゃん。そのクッキーはね、さっきお爺ちゃんがくれたのよ」
「へえ、珍しい」
キッチンから美味しそうな匂いがする。どうやら今日の夕食は、ハンバーグみたい。
私の大好物だ。思わずニンマリしてしまう。
「ふんふーん」
浮かれていたけど、ふとお母さんの言葉が引っ掛かった。
今、お爺ちゃんからの差し入れって言ったよね?
「お爺ちゃんから? ……やだ、食べちゃった」
お爺ちゃんからというクッキーに、私は一抹の不安を覚えた。何となく胃が重くなってくる。
私のお爺ちゃんは科学者なのだけれど、いつも変な研究ばかりしている。おまけにその発明たるやとんでもない物ばっかりで、幼い頃から良い思い出なんて全く無い。
どうしよう! 変な無い物じゃないといいけれど。
突如、リビングの扉が壊れるくらい大きな音を立てて開いた。
「はあーっはっはっはっ! 小華、それを食べおったなぁ!」
この声は、丁度話題のあの人だ。
「お爺ちゃん!?」
リビングの扉を思いっきり開けて、入ってきたのはお爺ちゃん。
……の筈だが、そこに居るのは見た事の無い人だった。
黒々とした艶やかな髪、涼やかな眼、すっと通った鼻筋。背筋がピンと伸びた均整のとれた体にきっちりと付いた筋肉。長い手足。
奇抜な赤と黒のぴったりフィットレザーに身を包んだ、ちょっと痛い感じの男性だ。
「え? だ、誰?」
かっこいい、服装は最悪だけど。
私は不覚にも見とれてしまった。
「フフン。ワシじゃよ、ワシ。亜門戸じゃ」
「ええっ?! うそぉっ、お爺ちゃんなの? ちょっと、信じられない。もしかして若返っちゃったの?」
何と、ありえない事にお爺ちゃんが若返ったのだ。
私は眼をぱちぱちさせて擦ってみたけど、その姿は変わらない。
「ええーっ!」
「本当にお義父さんです?」
私は口から胃が飛び出しそうなくらい驚いた。
キッチンから出てきたお母さんも、菜箸を持ったまま固まっている。
「見たかっ。ワシの開発した能力向上変身クッキーの威力を!」
お爺ちゃんは胸をありえない程反らせて大笑いしている。物凄い得意げだが
、そのままひっくり返るんじゃなかろうか。
「小華、そろそろお前にも変化が現れる頃じゃ」
お爺ちゃんはとんでもない爆弾を落とした。
「はあ? ま、まさか、さっきの食べちゃったのはっ」
途端、私の体は異様に熱くなってきて、内側から光を放った。
「あっ、ああああーんっ」
聞くに堪えないお恥ずかしい声を発しながら、何と私は変身してしまった。
「やあっ! 何これっ。超ハズかしいよう」
顔の半分くらいを覆うミラーグラスに体を包む白と黄色のぴったりレザー。ミニスカートに白のロングブーツ。
とんでも無くセンスのない格好となっていた。
おまけに私のスタイルは今までと何ら変わりないという、拷問の様な仕打ちだ。
「いやあっ! どうなってんのよっ。お爺ちゃん、今すぐ元に戻してよ!」
「フフン、心配せんでも効果は30分。切れれば元に戻るでの、安心してええぞ」
「安心できるかっ!」
「もちろんお前とワシだけでは寂しいじゃろう? もう一人用意したぞ。出でよっ駒雄!」
お爺ちゃんの呼びかけに、開いた扉から黒い影が躍った。
忍者みたいに全身黒ずくめの男性が現れる。
「ぎゃーっ、お父さん!」
「や、やあ小華。お前も巻き込まれちゃったのか」
お父さんはビール腹に禿げ上がった眩しい頭なのだが、こっちも若返って別人だ。ツルピカだった頭はフサフサ、タヌキのようだった太鼓腹は割れていて、引き締まった見事なボディとなっている。
何、この不公平さは。
満足そうな様子のお爺ちゃんは、ミラーグラスをびしっと掛けると私とお父さん目掛けて跳んできた。
「とうっ!」
見事な宙返りだ。効果音がしそうなくらい。
「三人戦隊、見・参!」
一言毎にビビッとポーズを決めている。それにしても、ダッサいネーミング。
「ちょっ、あわ」
「う、うわっ」
お爺ちゃんの動きに合わせて私達の体も勝手に動く。強制的に、息の揃ったポーズを取らされてしまった。
私の中で何かが壊れたような気がする。
眼の前で、お母さんがわぁとか言いながら拍手している。止めて、お願いだから。
「よし、今から町のパトロールに出動じゃ。行くぞぃ! セサミ、ジンジャー」
どうやら私がジンジャーでお父さんがセサミらしい。食べたクッキーの種類がそのまま呼び名みたい。という事は、ジンジャー以外のクッキーは黒ゴマとアーモンドだったから、お爺ちゃんはアーモンド?
何だか、これで私も終わってしまったと思った。
「せいやっ」
奇声と共にお爺ちゃんはリビングの窓をぶち破って、そのまま日が落ちた夜の町へと飛び出した。
それに続いて私の体も勝手に窓から飛び出していた。驚く程体が軽く、ひとっ飛びでお隣さんの屋根の上へと着地した。
おお、凄いな。もう、色々とありえない。
お隣さんには迷惑な事この上ないが、発明クッキーのお陰で身体能力が驚異的に向上してるみたい。
お母さんの怒った声が後ろの方から聞こえた。窓をぶち破って出てきたのだから当然だけど。
隣でお父さんが、必死に謝りながら走ってる。
「母さん御免よ。ホントにゴメン。でも、これは俺の意思じゃないのは分かってくれよ! ああっ、俺のお小遣い、これで今月パアかも~」
今のお父さんに、父親としての威厳はどこにも見当たらない。私は同情の眼差しを向けたが、実は人事では無い。
元凶となった忍者のように走るお爺ちゃん、いや、アーモンドを追い掛けて、私達はこっ恥ずかしい格好のまま走り続けた。
町の中を三つの影が縦横無尽に走り抜け、幻のように町の中を飛び回る。その時不意に、鋭い声が掛かった。
「待てっ! お前達」
ほっそりとした人影が電柱の上に立っていた。しかし、胸だけは大きく重力に反して揺れている。私はこの女に敵愾心を持った。
「何奴じゃっ」
そこには黒マントに露出度の高い服、網タイツに黒ブーツと痴女かSMプレイ中としか思えない女がいた。
「お前達が騒いでいるのを見過ごすわけにはいかぬ。神妙にせよ」
パトロールの筈だったのに、何故だか悪役になっている私達。
しかも、よりにっもよってこんな格好の人に言われたくは無い。
「怪しい奴。貴様こそ、そのけしからん巨乳にお仕置きしてやるぞぃ」
「ああ、最悪だ爺さん。そのセリフ、悪役そのものだよ」
「まったくね」
この変態爺め。けしからんのはあんたの方だ。後でお婆ちゃんに言い付けてやる。
こんなお爺ちゃんでも、お婆ちゃんにだけは頭が上がらないのだ。
「いくぞっ、女。アーモンドクラアアッシュ!」
どうやら必殺技らしいけど、物凄く弱そう。最初から砕けているしね。
予想は的中し、あっさりとかわされてしまった。
「うぬう、ワシの必殺技が通じんとは。なんちゅう恐ろしい奴じゃ」
「ふふ、其処までか? ならば今度はこちらから行くぞ。受けてみよ、沢庵セイバー!」
た、たくあん?! 予想外の武器に私達三人は隙だらけとなった。それを見逃す巨乳痴女では無い。
鈍い音と共に、お爺ちゃんは屋根の上で崩れ落ちた。
「お、お爺ちゃんっ」
「安心しろ、峰打ちだ」
沢庵のどこに刃が? 全く分からないけど手加減してくれたらしい。
「そこの二人。これに懲りたなら大人しくするがよい。では、さらばだ」
女は白い巨乳を揺らしながら、夜の闇へと消えた。
この後、私達がおじいちゃんを抱えて一目散に帰宅したのは言うまでも無い。もちろん途中で30分以上経ってしまい、帰宅前には変身が解けていた。
「あーあ、今回も酷い眼にあっちゃった」
「はは、そうだなー。爺さんもこれに懲りて、少しは反省してくれると良いんだがなぁ」
お爺ちゃんの脳みそに反省と言う文字は無い。無理だよそんなの。
「わしに反省すべき点など何も無いわ!」
ほらね。
私は晩御飯のハンバーグをつつきながら、お爺ちゃんを無視した。
リビングは時折風が吹き抜けていて、何度もカサついた音がして虚しい。というのも、お爺ちゃんがぶち破った窓を新聞紙で覆ってあるからだ。
食卓ではやけに静かなお母さんが怖い。
今晩のお父さんにはビール無し。当分の間、晩酌は無いと確信できる。勿論私のおこずかいだって危機的状況だ。
私は溜息をついて、小皿に盛ってある沢庵を箸でつまんだ。
沢庵。この偶然の一致が私を何とも言えない気分にさせる。
「小華、この沢庵美味しいだろう? 今回の出来はまあまあだよ」
「うん、美味しいよ、お婆ちゃん。漬物はお婆ちゃんのが一番だよ」
そう答えると、お婆ちゃんは皺くちゃの顔をより一層シワシワにして、不思議なくらい楽しそうに笑った。
読んでいただきまして、ありがとうございました。