Menu1 アイスクリーム
「……美味しい」
小さなスプーンで、淡雪のように冷たいそれを掬うと口の中にそっと含む。
カサついた唇から吐息を零すと、妻はうっとりと少女のように微笑んだ。
妻の幸恵の手には白い小さなカップがある。中には雪のように白いミルクアイスが入っていた。
小さなカップを持つその手はかつて、艶のあるぷっくりとした手だった。
過去に何度も繋いでは握りしめたその手との、あまりの違いに夫の良夫はわずかに眼を伏せた。
堪らない。
胸を締め付けられるようだった。しかし、その想いを妻には悟られたく無かったので、表情に出ないよう胸の内に閉じ込める。
今の幸恵の手には、かつての様なぷっくりとした張りは無い。カサついてしまった皮膚の色は血色が悪く、青みがかってくすんでいる。
細く、骨が浮き出てしまった手には小さな皺が寄っていた。
幸恵の左の薬指にぴったりと嵌まっていた結婚指輪は、今ではサイズが大きくなってしまい合わなくなっていた。
「幸恵、まだまだあるんだよ。もう一口どうだい?」
「ええ、嬉しい。あなた、買ってきてくれてありがとう。私が好きなのを覚えていてくれたのね」
幸恵がもう一口ミルクアイスを口に運ぶ様子を、良夫は真剣な表情で見守った。
いつぶりだろうか、妻がこんな風に食物を摂ったのは。
良夫は表情が崩れそうになるのを何とか堪えた。眼の奥がジンと熱く、視界がぼやけそうになるのを堪えて、笑顔を浮かべた。
このアイスを買って本当に良かった。
良夫は心からそう思った。偶然にも今日は仕事が終わった後、珍しく自宅に真っ直ぐ帰らず寄り道をした事で買う事が出来たのだ。
良夫は病気の妻が気がかりで、何かに追われるように今日も仕事を片付けた。担当部署の誰よりも早く仕事を切り上げると、会社の駐車場に停めてある自家用車に乗り込んだ。いつものように自宅目指してまっしぐらに帰る。
だが、帰りの道のりはスムーズとは言えなかった。今日は何故だか交通量が多く渋滞していた為に、何度も赤信号に引っ掛かかる。
ハンドルを握る指が落ちつきなく動き、音を立てる。荒々しくネクタイを緩め、車内に表示されている時計を見ると、いつもより帰宅に時間がかかっている。
深く溜息をついて信号を眺めると、ずっと先の方まで赤い光が灯っている。
まるで赤提灯が連なっているかのようだと良夫は思った。
辺りは薄闇が徐々に降りて来て、微かに明るさを残す空には早くも白い星が瞬いている。
良夫は車のスモールランプを点灯させた。
ふと、信号とは違う鮮やかな赤が眼に入る。視界に入ったのは菓子屋の赤い看板と屋根。
菓子屋を見た瞬間、良夫の脳裏には幸恵の顔が浮かんでいた。
あいつ、甘い物が好きだったな。
食べられるものなら何でもいい。もしかしたら、甘い物なら食べれるかもしれない。
良夫はそう思い、赤い屋根の菓子屋に立ち寄った。
小さな菓子屋のショーケースにはケーキの他にプリンやゼリー等がちらほらと並んでいる。夕方の為か、ケースの中には殆ど商品が残っていない。
ふとみると、ケースの隣に小さな冷凍庫が添えるように置いてある。中を開けてみると、カップのアイスクリームが並んでいた。
幸恵が昔、アイスクリームを美味しそうに食べていたのを思い出した。
これにしよう。
これならば、口どけが良いので食べやすく、栄養もありそうだ。
アイスクリームは一個300円と少し高かったが、良夫は何種類か買うといそいそと自宅に戻った。
自宅に帰るとぐったりとした幸恵が何とか体を動かして良夫を迎えてくれた。
幸恵の弱々しいお帰りなさいという声に、良夫の表情が歪む。
「無理しなくても、寝てていいんだよ。どうだい、体調は?」
「今日は吐き気が治まっているから、いつもより少しだけ楽なの」
「……そうか、何か食べれたのか?」
その言葉に幸恵は微かに眼を伏せると首を振った。
その仕草は良夫の眼には酷く弱々しく見えた。
良夫は妻をソファに休ませると、冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを用意しコップに注いで妻に飲ませた。
落ちついたところで買ってきたアイスクリームを用意して、幸恵に差し出したのだった。
幸恵は去年大腸癌が発覚し、癌と共に大腸の半分を手術で切除した。その後、手術をした場所に癌が再発した為抗がん剤の治療をしていた。
抗がん剤という強い薬は副作用も強く、幸恵の体力を容赦なく奪っていく。治療を続けるごとに弱って行く幸恵はどんどん痩せて枯れ木のようになり、髪の毛もごっそりと抜け落ちた。
口の中には口内炎が幾つも出来てしまい、吐き気の上に痛みで物が殆ど食べられなくなった。
果たして、次の治療に幸恵の体力は持つのだろうか?
治療が出来なかったら、幸恵の癌はどうなるんだ?
不安と恐怖が良夫の中に湧き上がった。
それは、幸恵が自分を一人残して居なくなるのではないかという不安だった。
幸恵のいない生活など考えられない。25年間、空気の様にお互い自然と寄り添って生きてきた。
苦しみも喜びも共に分かち合い、時に喧嘩をしながらそれでもずっと二人でやってきたのだ。
子供には二人恵まれた。
二人の子供はそれぞれ独立して結婚し、この家から出て行った。二人の子供は時々様子を見に帰って来てくれるのだが、二人共自分の家庭と仕事があるので負担を掛けたくは無かった。
良夫は幸恵に三口目のアイスクリームを勧めたが、もういいと幸恵は首を振った。
「ごちそうさま。とても美味しかったわ」
「もう少し食べなさい。明日は受診の日だろう」
良夫は幸恵が持っているアイスクリームのカップを受け取ると、少し多めに掬って更に一口、なかば強引に食べさせた。
次の日、抗がん剤治療の為に幸恵が病院へ受診するのを良夫も付き添った。
だが、幸恵は受診するとすぐに入院を勧められた。
食事摂取が出来ない事で栄養状態が悪化し、急遽入院する事となったのだ。
とても治療を続けられる状態では無かった。
いずれにせよ、今のままではどうにかなっていただろう。
しかし、抗がん剤の治療を中断したら、どうなってしまうのだろう。
再発した癌が進行し、大きくなってしまうのではないか?
そんな不安が良夫の中にはあった。
無機質な診察室は冷たく良夫の心を突き離しているようで、更に不安を煽る。
不安を表に出さないよう努力して表情を繕っていたが、良夫の心は溺れそうになっていた。隣に座る幸恵の表情を窺うと、ぎゅっと眉をよせて口元が硬く強張っている。カサカサになって痩せた二つの拳が微かに震えていた。
「先生、治療を中断しても大丈夫なのでしょうか? 癌が進行しないのでしょうか?」
幸恵が擦れた声で、絞り出すように医者に尋ねた。
すると、医者はパソコンに幾つかの画像を表示すると二人に見せてくれた。
「これが前回の検査結果ですが、今回の結果では癌が縮小しています。血液の検査結果も改善しています。ですが、他の臓器に負担が掛かっているので、今回は少し休んで体力を付けた後から治療しましょう。大丈夫、副作用さえ落ちつけば今は順調ですよ」
その言葉を聞いた途端、幸恵は涙ぐんだ。
今まで余程不安で辛かったのだろう。幸恵のピンと伸ばした背中から力が抜けると、途端にぽろりと涙が落ちた。
良夫は丸くなった幸恵の背中に手を添えると、そっとその背中を撫でた。微かに震えていた妻の背中は、いつもより少しだけ温かいように感じた。
良夫は幸恵の入院の手続きを済ませると、落ちつくまで傍に付き添った。
病院のベットに横たわる幸恵の顔は最近になって見た事が無い程穏やかな笑顔だった。
大丈夫、順調だ! まだまだやれる。
これからも二人で寄り添って、癌と戦って行くのだ。
良夫の眼には微かに希望の光が見えていた。
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