願いが叶う雨降る町
雨の降る町だった。
一年のほとんどが雨で、晴れの日は奇跡みたいに扱われる。
その町には「願いを叶える時計台」があった。
古びた石造りの塔。
頂上の鐘は錆びてもう鳴らないのに、なぜか人はそこに願いを捧げに来る。
__ただし一つ条件がある。
「願いはたった一人”記憶”と引き換えに」
それがこの町に住む誰もが知るルールだった。
彼女は何度もその時計台の前に立っていた。
願いなんて最初はどうでもよかった。
ただ、彼の隣に居たかった。
彼は優しかった。
優しすぎるくらいに。
傘を半分上彼女に寄せて、自分は濡れていることにも気づかないような人だった。
「風邪ひくよ」と言うと「大丈夫だよ」と優しく笑う。
そんな何気ない日々が、彼女にとっては全部だった。
でも__
その日彼は言った。
「ごめん、俺もうここを離れるんだ」
突然すぎる別れ。
理由は聞けなかった。聞いたところで、きっと何も変わらない気がしたから。
ただ胸の奥が空っぽになったみたいで、言葉が一つも出てこなかった。
気づけば時計台の前に立っていた。
珍しく雨は降っていない、静かな空だった。
「…願いを叶えて」
声は震えていた。
「彼を、ずっとここにいさせて」
鐘は鳴らない。
でも確かに”何か”が応えた気がした。
次の瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
何かが消えていく。
でもそれが何なのか___
もう思い出せなかった。
翌日。
彼はいつも通りそこにいた。
「おはよう」
当たり前みたいに笑う彼。
まるで昨日の会話なんて存在しなかったみたいに。
彼女は嬉しかった。
本当に、本当に。
願いは叶ったんだ。
これでずっと一緒に居られる。
それからの日々は完璧だった。
彼はどこにもいかない。
いつも隣にいる。
笑って、話して、雨の日も、晴れの日も、ずっと。
何も変わらない幸せ。
_でもただ、一つだけ
彼は時々遠くを見るような顔をした。
「どうしたの?」と聞くと、
「いや…なんか、大事なこと忘れてる気がしてさ」
そう言って、困ったように笑う。
彼女は、そのたびに胸が締め付けられた。
でもすぐに首を振る。
大丈夫。
全部うまくいってる。
これが幸せな結末なんだから。
ある日、彼は言った。
「なあ、この町ってさ、なんか変じゃない?」
彼女の心臓が、ドクンと鳴る。
「外に出ようとすると、道が同じ場所に戻るんだよ」
「まるで、閉じ込められてるみたいだ」
彼女は笑った。
「気のせいだよ」
でも、彼は笑わなかった。
「俺、前はここにいなかった気がするんだ」
「どこかに、行こうとしてた」
その言葉に、彼女の中で何かが崩れた。
――思い出してほしくない。
絶対に。
だって、それを思い出したら、
彼はまたいなくなる。
⸻
その夜、彼女は再び時計台へ向かった。
もう一度、願うために。
「お願い……」
「彼が、何も思い出さないようにして」
鐘は鳴らない。
けれど、また“何か”が応えた。
頭の奥が、また熱くなる。
何かが、消える。
でも、今度は少しだけ違った。
胸の奥が、空っぽになる感覚。
何を失ったのか――
それすら、もうわからない。
⸻
翌日。
彼は、いつも通り笑っていた。
「おはよう」
優しい声。
変わらない笑顔。
彼女は安心した。
これでいい。
これで、全部いい。
「……君、誰だっけ?」
その一言を聞くまでは。
彼の目には、彼女が映っていなかった。
初めて会う人を見るような、
何の感情もない視線。
彼女は言葉を失った。
何を言えばいいのか、わからない。
だって――
彼と過ごした時間の中で、
“自分が誰なのか”すら、思い出せなくなっていたから。
雨が降り出す。
いつもの町。
変わらない景色。
彼は、何も知らずに歩き出す。
どこにも行けないはずの町で、
それでもどこかへ向かうように。
彼女は、その背中を見つめていた。
名前も呼べないまま。
引き止める理由も、もう持っていないまま。
それでも彼女は、微笑んだ。
「よかった」
声にならない声で。
「ここに、いてくれて」
時計台は、今日も静かに立っている。
誰かの願いを、叶え続けながら。
大切なものを、少しずつ奪いながら。
お読みいただきありがとうございました。
「幸せは叶っているのに、もう元には戻れない」そんなメリーバッドエンドのお話を書いてみました




