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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第2幕 最強の淑女は社交界を嗤う

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9. 弔いの色

 王宮の『黄金の間』は、極彩色のドレスと社交辞令という名の霧に包まれていた。


 数百の蝋燭が天井のシャンデリアに灯され、溶けた蜜蝋の甘い匂いが広間を満たしている。その下で、百を超える香水が混じり合い、息を吸うだけで舌の奥に甘さがこびりつくような気がした。


 磨き抜かれた大理石の床には、ドレスの裾が色とりどりの花弁のように映り込んでいる。だが花弁に見えるだけだ。この場にいる者たちは花ではない。根を絡ませ、互いの養分を奪い合う蔦でしかない。


 笑い声があちこちで弾けていた。その一つひとつが刃だ。誰を称え、誰を刺すか。すべて計算された音。


 黄金の間における沈黙は同意を意味し、微笑は了承を、そしてグラスを掲げる角度ひとつが派閥の表明になる。


 私はヴァレリアの半歩後ろに控えながら、彼女の呼吸に合わせるようにその影に徹していた。


 ルシアンに叩き込まれたのは、単なる作法ではない。場の空気を読み取り、主人の障害となるものを事前に察知する守護者としての感覚だ。


 主の動線に人が滞留すれば視線で散らし、近づく者の会釈の深さで敵意を測る。会話の輪がヴァレリアを囲んだとき、私はその輪の外に立ちながら、誰がヴァレリアの言葉に頷き、誰の唇が一瞬だけ引き結ばれるかを見逃さない。


 侍女とは、もっとも近くに立つ歩哨である。


 壁際の長椅子に座る者は待つ側。中央の歓談の輪に立つ者は選ばれた側。そして、その輪の中心にいながら誰にも媚びないヴァレリアは、この場において異質だった。


 他の貴族たちが互いの裾を踏み合うように牽制し合うなかで、ヴァレリアだけが相手の言葉の奥を見据えている。その冷静さが、ある者には畏敬を、ある者には嫉妬を植えつけていた。


「エリシア。少し喉が渇いたわ。なにか冷たいものを頂戴」


「かしこまりました、閣下」


 ヴァレリアが貴族たちに囲まれる隙を見計らい、私は音もなくその場を離れる。


 給仕の並ぶカウンターへと向かう道すがら、私の耳は広間の音を選り分けていた。グラスの触れ合う音、椅子の軋み、衣擦れ。その中から、不自然に低い声の塊を拾い上げる。


 背の高い観葉植物の陰。数人の令嬢たちが扇で口元を隠しながら、棘のある言葉を交わしていた。


「……見て、あの氷の公女。今日も相変わらず、人を凍えさせるような顔をして。隣国のカイル殿下も、あんな冷徹な女が交渉相手ではさぞかし辟易されるでしょうね」


「本当。学術予算を凍結されたという噂も本当かしら? 知識を鼻にかけて失敗するなんて、滑稽だわ。彼女の周りには、まともな感性を持った人間はいないのかしら」


 それは、ヴァレリアに対する、無知に基づいた悪意ある陰口だった。


 以前の私なら、ここで即座に詰め寄り、相手を無知だと罵っていただろう。けれど、今の私は違う。


 私の足が止まったのは、怒りのためではない。


 この令嬢たちの背後にいる派閥を、私は知っていた。財務卿ベルモンド家の縁戚筋。学術予算の凍結を議会で主導し、その責をヴァレリアに擦りつけた者たちの末端だ。


 彼女たちの声は小さい。だが、この広間では小さな声ほど遠くまで届く。


 壁際で囁かれた悪意は、給仕の耳を伝い、別の貴族の笑い話に混ざり、やがて事実として固まっていく。この陰口は自然発生した噂ではない。今夜カイル殿下が臨席するこの場で、ヴァレリアの評判を落とすために撒かれた種だ。


 放置すれば、殿下の耳にも届く。


 であれば――摘むのは、今しかない。



 ルシアンの声が、記憶の奥で響く。


『怒りで動くな。怒りは足音を大きくする。お前の足音は、常に微笑で消せ』



 私は、手に取った銀のトレイを優雅に保持したまま、彼女たちの輪のすぐ傍で足を止めた。


「失礼。皆様、そのお召し物について少しだけお耳に入れたいことが」


 令嬢たちが、弾かれたようにこちらを見た。


 そこにいるのは、かつて『汚れ』と呼ばれた平民の娘ではない。深淵のような青を纏い、隙のない美貌を湛えた公女の側近だ。


「……何かしら、あなた。侍女風情が私たちの会話に割り込むなんて不作法よ」


「左様でございますね。ですが、皆様が纏っていらっしゃるその珊瑚色の重厚なレース……もしや、三世紀前のグレアムの飢饉の折、貧民街で病を隠すために流行した装束の再現であることをご存じの上で、あえてこの祝宴の場に選ばれたのかと感銘を受けまして。王立史料院の『疫病年代記』にも詳しく記されております」


 令嬢たちの顔から、一瞬にして色が失われた。


「な、何を言っているの……? そんな昔の話、こじつけに決まっているわ! この色は今季もっとも流行りの――」


「ええ。だからこそ()()()のでしょうね――知らない方にほど、よく」


 声を荒らげたのは向こう。私は微笑んだまま、言葉の刃だけを返した。


 令嬢の一人が、隣の者の腕をぎゅっと掴んだ。もう反論の言葉が出てこないのだ。


 私は、その沈黙を逃さなかった。


「流行というものは時に残酷です。仕立て屋が過去の悲劇を最新の意匠と偽って売りつけることもございますから。知性を重んじるカイル殿下が、この場に『死の包帯』を巻いて集まった方々をご覧になったら、この国の教養を疑われてしまうのではないかと……ヴァレリアが案じておられました」


 私は微笑んだまま、最後の一釘だけを落とした。


「――その珊瑚色、弔いの色でございますね」


 広間の空気が、一瞬だけ凍った。


 令嬢たちの目が、自分の袖口へ、襟元へ、裾へと走る。ついさっきまで華やかだった珊瑚色が、今はもう病人の包帯にしか見えなくなっている。


 一人が唇を震わせ、もう一人は扇を取り落とした。


 怒りではなく、怖れ。知らなかったという事実そのものが、彼女たちの全身を覆う珊瑚色の布地ごと恥辱に変えていた。


「わ、私、急に気分が……失礼するわ!」


 彼女たちは、裾を乱しながら逃げるように広間から去っていった。


 一言も怒鳴らず、声を荒らげることもなく。ただ、彼女たちの足場である流行がいかに虚飾であるかを証明することで、場を清めたのだ。


 その一部始終を、近くにいた数名の貴族が黙って見ていた。誰一人、去った令嬢たちを追わない。追えば同類と見なされると理解しているからだ。


 壁際にいた老紳士が、手にしたグラスをそっと傾けた。乾杯ではない。品定めだ。


 別の方向では、令嬢たちと同じ珊瑚色のリボンを胸に飾っていた婦人が、さりげなくそれを外してポケットに押し込むのが見えた。


 広間のざわめきが一拍だけ途切れ、やがて何事もなかったかのように戻る。


 けれどその一拍に、いま起きたことの意味が刻まれていた。珊瑚色は、今夜この場から消える。流行が終わったのではない。殺されたのだ。



「……何があったの? 随分と静かになったわね」


 果実水をトレイに載せて戻った私に、ヴァレリアが僅かに目を細めて尋ねる。


 彼女の視線の先には、先ほどまでいたはずの、騒がしい陰口の主たちの空席があった。それを見てもなお、ヴァレリアの表情は一つも動かない。


 ただ、グラスを持たない左手の指先が、ほんの僅かに膝の上で律動していた。あれはヴァレリアの癖だ。状況を掌握しているときだけ現れる、静かな拍子。


「少々、場を曇らせるものがございましたので、拭っておきました」


 私は優雅に一礼し、冷えた果実水を差し出した。


 ヴァレリアは、グラスを受け取ると、ふっと満足げな笑みを浮かべた。


「そう……手際が良くて結構ですこと」


「勿体なきお言葉です」


 私は、再び彼女の影へと戻った。


 胸の奥で、かすかに脈が跳ねている。快感ではない。緊張の残滓だ。


 あの令嬢たちが一人でも冷静であれば、『侍女風情が何を知っている』と押し返されていた可能性はある。知識は、相手が怯んだときだけ刃になる。怯まなければ、ただの衒学だ。


 だからこそ、私は怒らなかった。怒りは相手に被害者の席を与えてしまう。微笑のまま事実だけを差し出せば、相手は自分自身の無知に押し潰される。


 相手を論破して快感を得るのではない。主人の尊厳を守るために、牙を隠して獲物を仕留める。


 それが、ルシアンに教わった『最強の淑女』の戦い方だ。


 ――けれど。


 胸の奥に残った震えが、完全には鎮まらない。


 あの珊瑚色の話は嘘ではない。王立史料院で夜更けまで頁を繰ったのは、いつか誰かを黙らせるためではなかった。ただ知りたかっただけだ。歴史の底に沈んだ声を、自分の手で掬い上げたかった。


 それが今、令嬢たちの顔から血の気を奪う刃になった。


 正しいことを言った。閣下をお守りした。何一つ間違っていない――間違っていないのに、舌の奥にかすかな砂の味が残っている。


 知識とは、真理を掘るための鋤だったはずだ。いつから私は、それで人を埋めるようになったのだろう。


 その問いは、果実水のグラスのように冷たく、そしてグラスのようにすぐ手から離れた。今は考えるべきときではない。閣下のお傍に、戻らなければ。


 と――広間の向こうから、足音が近づいてきた。


 群衆を割るのではなく、群衆のほうが自然と道を空ける。そういう歩き方をする人間を、私は一人しか知らない。


 隣国の王子、カイル殿下。


 銀灰の髪を無造作に流したその青年は、社交の仮面をつけていなかった。


 この広間にいる者たちが纏う表情には、すべて裏地がある。微笑の裏に侮蔑を縫い込み、称賛の裏に嫉妬を隠す。だがこの殿下の顔には、裏地そのものがなかった。


 笑みもなく、敵意もなく、ただ透徹した目でこちらを見ている。あるいは、裏地を見せること自体が彼の武器なのか。


 そしてその視線は、ヴァレリアではなく、その半歩後ろに立つ私を捉えていた。


 先ほどの一幕を、見ていたのだ。


 殿下の歩みがこちらに近づくにつれ、周囲の空気が変わった。近くにいた貴族たちが、会話を続けるふりをしながら耳だけをこちらに向けている。


 隣国の王子が『氷の公女』に歩み寄る。それだけで、今夜の社交界に新しい潮目が生まれる。


 殿下の足が止まったのは、ヴァレリアの正面。だが視線は最後の一歩まで私の上にあった。それからゆっくりと、品定めを終えた骨董商のように、ヴァレリアへと目を移す。


 その一瞬に含まれていたのは、侮りでも警戒でもない。純粋な知的関心だ。


 ――この駒は何者だ、と。


 私は表情を変えず、半歩下がったまま殿下を迎えた。


 今夜の主賓たちが、今、舞台に上がろうとしているのだから――


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「知識で貴族を裁く夜」

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