7. 魔導師との契約
その扉は、公爵邸の華やかな喧騒から最も遠い、北塔の最上階にひっそりと鎮座していた。
この北塔の主――顧問魔導師ルシアンは、ヴァレリアが唯一対等として扱い、同時にその気まぐれを咎めもしない怪物だ。魔導の深淵に触れすぎた代償として、人の世の倫理を鼻で笑う虚無の住人――と、公爵家で噂されている。
私は迷わなかった。拳を握り、重厚な黒檀の扉を叩く。返事はない。だが扉は、まるで最初から訪問者を知っていたかのように、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
部屋の中は、ヴァレリアの書斎とは対極の混沌に満ちていた。
天井まで届く本棚には、法律で禁じられたはずの古魔導書が背表紙の向きすら揃わず詰め込まれ、床には出所不明の鉱石や、青白く発光する液体が入ったフラスコが踏めば割れそうに転がっている。焦げた金属のような刺激臭と、甘く陶酔を誘う異国の香料の匂いが、息を吸うたびに喉の奥へ絡みついた。
その中心で、一人の男が天球儀を眺めていた。
乱れた漆黒の髪。不健康なまでに白い肌。そして、すべてを飽き飽きしたように見つめる、昏い紫の瞳。
「……まだいたのかい、図書室のネズミさん」
ルシアンは振り返りもせず、退屈そうに告げた。その声は、私の心臓を素手で握るような、得体の知れない圧力を孕んでいる。
「閣下には『消えなさい』と言われたはずだ。衛兵に引きずり出される前に、その薄汚れたワンピースごと、下水の溝にでも飛び込めばいいものを」
「……その必要はなくなりました、ルシアン様」
私は息を殺し、床のフラスコを避けながら一歩だけ距離を詰めた。
眼鏡のない視界はぼやけている。あの書斎に置き去りにしたまま、もう取り戻す術はない。それでも、彼が発する魔力の残滓だけは、肌をチリチリと焼くように伝わってきた。
「私は、泥の中へ帰るのをやめました……代わりに、地獄から這い上がることにしたのです」
ルシアンが、ゆっくりとこちらを向いた。
その瞳に、初めて私という存在が映る。だが、そこにあるのは同情でも侮蔑でもない。解剖台の死体を眺めるような、純粋な好奇心だ。
「這い上がる? どこへ? 王宮の編纂所かい? それとも、あの氷の公女の隣とでも――」
「いいえ。彼女の『上』です」
部屋の空気が、凍りついた。
青い炎すら揺れを忘れたように静止し、ルシアンの動きが、ぴたりと止まる。
彼は天球儀から手を離し、私を頭の先から爪先まで、舐めるように見つめた。
「面白いことを言う。君は今、文字通り何も持っていない。家柄も、推薦状も、自分を守るための眼鏡すらね。あるのは、その安っぽい自尊心と、捨てきれなかった執念だけだ……それでどうやって、あの完璧な公女を越えるつもりだい?」
「だから、ここに来たのです」
私は一度、息を整えた。
「ルシアン様。私を『最強の淑女』に作り変えてください。知性も、肉体も、そして魂の在り方さえも……彼女と同じ高みに立つための武器を、私に与えてください」
ルシアンの口の端が、音もなく持ち上がった。笑っているのではない。面白い標本を見つけた学者が、解剖の手順を頭の中で組み立てている――そういう顔だ。
「武器、ね……ではまず、一つ訊こう。君はあの書斎で閣下に切られたとき、何を見落とした?」
予想していなかった問いだった。
見落とした? 私はあの場で、すべてを見ていたはずだ。ヴァレリアの冷たい眼差し、投げ捨てられた眼鏡、残飯という言葉の刃。一つ残らず、この身に刻まれている。
「……何も、見落としてなどいません」
「嘘だね」
ルシアンは天球儀に指を這わせながら、あっさりと断じた。
「あの書斎に、君以外に誰がいた?」
「……侍女が、二人」
「そう。閣下は君を切ったとき、あの二人の侍女を下がらせなかった。なぜだと思う?」
答えに詰まった。ヴァレリアにとって、侍女の存在など気にも留めないほど些末なことだったから――そう思いかけて、ルシアンの紫の瞳が、それは違うと告げていることに気づく。
「……見せるため、でしょうか」
「そう。ヴァレリアは君を切ったのではない。君を切る姿を、あの二人に見せたのだ」
ルシアンが天球儀の軌道を一つ、指先で弾いた。金属の球体が、甲高い音を立てて回転する。
「あの女は事実で人を罰しない。構図で支配する。『私に逆らった者がどうなるか』を目撃者に刷り込むことで、次からは命令すら不要になる。怒鳴らない。脅さない。ただ一人を壊してみせるだけで、残りの全員が自発的に跪く……それが、氷の公女の流儀だ」
背筋が凍った。
あの瞬間、私は自分が切り捨てられた痛みしか見ていなかった。屈辱に焼かれて、自分の傷口だけを見つめていた。けれどヴァレリアは、あの場にいた全員の目を使って、城全体に構図を刻んでいたのだ。
つまり私は、あの女の権力装置の素材にされていた。
「……史料と、同じですね」
声が、自分でも驚くほど静かに出た。
「史料の中の権力者も、同じことをしている。処刑を公開するのは、罪人を罰するためではなく、見物人を教育するためだと……図書室で読んだことがあります」
「ほぉう」
ルシアンの眉が、わずかに動いた。
「つまり君は、本の中では読み取れていたことを、自分の身に起きたときには読めなかったわけだ……滑稽だねぇ」
「ええ。仰る通りです」
私は唇を噛んだ。否定できない。史料の中の権力構造なら冷静に分析できた。けれど、自分が当事者になった瞬間、その読む力は感情の泥に埋もれて消えた。
「――けれど、もう一つだけ」
私は、ルシアンの目を正面から見た。
「ルシアン様は、退屈していらっしゃるのでしょう?」
沈黙が落ちた。
「あの天球儀の軌道は、さきほどから一つも動いていませんでした。星の運行を研究しているのではない。ただ手持ち無沙汰で、手を置いていただけだ……そう見えました」
ルシアンは答えなかった。
だが、その紫の瞳の奥で、何かが灯った。炎ではない。もっと冷たく、もっと危険な光だ。それが肯定なのか否定なのかは、私にはまだわからない。
「君は、自分が『誰に』『何を』頼んでいるかわかっているのかい?」
ルシアンは一歩、また一歩と私に近づき、その細く冷たい指先で私の顎を掬い上げた。
「僕は魔導師だ。身支度を整える侍女頭でも、礼法を叩き込む教育係でもない。そんな僕が君に教えてやれるのは、相手が何を見落としているかを読み、その盲点を刃に変えるための『呪い』でしかないのだぞ? ……寝る時間はなくなり、食事の味も感じられなくなるはずだ。文字通り、君という平民の娘を一度粉々に砕いて、その破片を毒液で繋ぎ合わせることになるのだから」
「望むところです……無能なまま泥を啜るより、怪物になって天を仰ぐ方が、よほど私らしい」
私は、彼の紫の瞳を真っ向から見据えた。
逃げない。怯えない。今の私を突き動かしているのは、ヴァレリアへの憧憬を燃料にした、真っ黒な野心だけだ。
「いいだろう。取引成立だ……君の読みは正しいよ。僕は退屈していた。この塔で朽ちるほどにね。だから代償は一つ、僕を退屈させないでおくれ。君のこれからの人生、一秒たりとも僕が欠伸をするような凡庸さを見せることは、どんなことがあろうと許さない」
彼が指を鳴らすと、部屋の四隅に置かれた青い炎が、一斉に燃え上がった。
「まずは、その醜い『思い込み』を剥ぎ取ろうか……エリシア、鏡を見ろ」
彼が示した先には、床から天井まで届くほど巨大な、銀の鏡があった。
そこには、ぼやけた視界の中で、酷く惨めな平民の娘が映っていた。野暮ったい群青色のワンピース。屈辱で強張った表情。整えられていない髪。
――私はこの青を、知性の証だと信じてきた。地味であることを選んだのではない。地味であることを鎧にして、傷つくことから逃げていただけだ。
そんな自覚が、鏡の中の自分と目が合った瞬間、喉元までせり上がった。
「その色を、ヴァレリアは残飯と呼んだそうだね……的確だよ。君は残飯を纏うことで、自分が傷つくのを防いでいただけだ。『私はわざと地味にしているのだ』という言い訳を鎧にしてね」
「……っ」
「その鎧を、今ここで脱ぎ捨てろ……魔法で美しくしてやるなんて期待するなよ。僕がやるのは、君の逃げ場を一つ潰すだけだ」
ルシアンが私の背後に立ち、呪文を口ずさむ。
背中から熱い何かが流れ込み、全身の血管を焼き尽くしていくような激痛が走った。
「う、ぁあ……っ!」
「耐えろ……君の視力を魔法で矯正する。眼鏡という逃げ場はもう存在しない。これからは、世界を、醜い欲望を、そして自分自身の限界を、その剥き出しの瞳で直視し続けるんだ」
脳の奥を掻き回されるような眩暈がきた。胃の底からこみ上げるものを、奥歯を噛み締めて押し戻す。
涙が勝手に溢れた。痛みだけではない。自分の中の何かが、二度と元に戻れない形に焼き変えられていく恐怖だ。戻りたいと叫ぶ声が胸の奥で上がったが、それすらも、魔力の熱に溶かされて消えた。
視界が、爆発的な光に包まれた。
ぼやけていた輪郭が、鋭利な刃物のように鮮明になっていく。
床に落ちた埃の粒。フラスコの中で蠢く光の粒子。ルシアンの髪の一本一本。
そして――鏡の中に映る、自分自身の姿。
顔は、同じだった。
野暮ったいワンピースも、乱れた髪も、何一つ変わっていない。
けれど――目が、違う。
眼鏡の奥に隠れていた瞳が、初めて剥き出しになっている。そこにあったのは、怯えでも卑屈さでもなかった。さきほどルシアンに見落としを暴かれたときに灯った、あの冷たい分析の光だ。相手を読み、構図を読み、盲点を見つけ出す鷹のような瞳。
図書室で史料を読んでいたとき、私の目はきっとこういう光を宿していた。それが今、人に向かって開かれている。
「……これが、私?」
声は震えなかった。鏡の中の女は、美しくなったのではない。隠していたものが、露わになっただけだ。
怖い、と思った。この目を認めた瞬間、もう元の場所には帰れない。図書室の片隅で本に埋もれて、誰にも見つからないように息をしていた、あの安全な日々には。
――けれど、指先がじわりと熱を帯びた。恐怖の底から、押さえきれない高揚が泡のように浮き上がってくる。
この目なら。この読む力なら。あの人の隣に立っても、恥じることはない。
「世界の見え方を弄っただけだ。顔も体も何も変えていない……だが、今の君なら感覚でわかるだろう?」
ルシアンは鏡の横に立ち、腕を組んだ。
「歴史を読める目は、人も読める。人を読める目は、権力の流れも読める。その力を僕が研ぎ澄ましてやろう……準備はいいかい、エリシア。明日から君は、ヴァレリアの侍女でありながら、彼女を食らい尽くすための刺客になるんだからね」
私は、鏡の中の自分と目を合わせた。
かつての私なら、この姿を虚飾だと蔑んだだろう。
けれど今の私にはわかる。
知性とは、相手の見落としを読む暴力だ。
美貌とは、その暴力を気づかれずに振るうための鞘だ。
私は、自らの意志で、その毒を飲み干した。
「……始めましょう、ルシアン様。いつか彼女と同じ景色に立つ、その日のために」
北塔の窓の外、王都の夜景が輝いている。
その光の一つ一つが、いつか私の掌の上で踊る駒になる。そう信じるだけの牙を、今夜、私は手に入れた。
こうして、エリシア・ガレットという平民の娘は、この夜、永遠に失われた。
代わりに北塔の闇の中で産声を上げたのは、氷の公女を焼き尽くすための、孤独で気高き最強の淑女の雛だった。
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次話「最強の淑女、誕生」




