6. 消えなさい
大ホールの空気は、冬の湖底のように冷たく沈んでいた。
高い天井から吊り下げられたクリスタルのシャンデリアが、朝の光を刃のように反射させている。その下に、ヴァリエール公爵邸を動かす数十人の使用人と、氷の公女の寵愛を狙って潜り込んできた令嬢志願者たちが、壁際に整然と並んでいた。
その中央に、私は一人で立たされている。
昨夜、書斎に閉じ込められたはずの私が、なぜここにいるのか。答えは単純だった。ヘンドリック伯爵が王宮を通じて正式な抗議状を送りつけてきたのだ。書斎への幽閉では、もう収まらなくなっていた。
足元に、昨日叩きつけた眼鏡が転がっている。レンズには蜘蛛の巣のような亀裂が走り、歪んだ自尊心の残骸を晒していた。
「エリシア。顔を上げなさい」
ホールの奥、三段高い大理石の壇上から、ヴァレリアの声が降ってくる。
私はゆっくりと顎を持ち上げた。眼鏡を失った視界はひどくぼやけている。けれど壇上の彼女だけは、その冷徹な威圧感ゆえに、網膜に焼き付くほど鮮明だった。
今日の彼女は喪に服すような漆黒のドレスを纏っている。私という存在を葬る儀式――その宣言を、衣装が無言で担っていた。
「昨日のヘンドリック伯爵との一件……報告は受けているわね?」
ヴァレリアの声には、怒りすら混じっていない。不要な書類を処分するときの、事務的で平坦な響き。それが何より、私の胸を抉った。
「あなたのたった一度の、身の程知らずな『講釈』のせいで、伯爵は我が家の編纂事業を王宮で槍玉に挙げた。『教育もできない平民の小娘に、国の歴史を弄ばせている』とね……当面の予算は凍結。査察の話まで出ているわ」
周囲から、さざ波のような囁きが漏れる。
扇の陰で、誰かがクスクスと笑う声が聞こえた。昨日まで私の有能さに怯え、陰で『図書室のネズミ』と呼んでいた令嬢たちだ。その瞳に、もう隠す必要のない愉悦が灯っている。
――ほら見たことか。ただの平民が、背伸びをしすぎるからだ。
言葉にならない嘲笑が壁に反響し、全方位から私を刺す。
「知識があることが、どれほどの免罪符になると信じていたのかしら」
ヴァレリアがゆっくりと立ち上がり、壇上の階段を一段、降りた。
「エリシア。あなたは自分を特別だと思い込んでいた。図書館の地下に潜って、埃まみれの紙切れを読み解く力さえあれば世界を支配できると……けれど現実のあなたは、主人の顔に泥を塗ることしかできない、出来損ないの索引だった」
「……っ」
「あなたが必死に守ろうとしていたその『知性』。それは誰の血も流さず、誰の腹も満たさず、ただ自分のプライドを飾るための玩具に過ぎない……そんなものに、歴史の編纂などという国家の根幹を担う重責が、果たせるはずもないわ」
ヴァレリアは、私の目の前まで歩み寄ってきた。
彼女の冷涼な香りが鼻腔を支配する。逃げ場のない、死の宣告。
「期待した私が馬鹿だったわ……あなたは影ですらない。ただの汚れよ」
彼女は私の肩を掠めるようにして通り過ぎ、耳元で氷のような吐息を落とした。
「消えなさい、エリシア。二度とその顔を私の前に見せないで……あなたの帰る場所は、ここではないわ。泥の中よ」
彼女の背中が遠ざかっていく。漆黒のドレスの裾が大理石の床を滑り、まるで闇そのものが歩いているようだった。
――消えなさい。
その言葉を最後に、ヴァレリアはホールから去った。
主人の背が消えた瞬間、張り詰めていた静寂が、濁流のような嘲笑に変わる。
「お疲れ様、エリシアさん……いえ、もう『さん』付けで呼ぶ必要もないかしら」
以前、面接で私を笑ったピンク色のドレスの令嬢が、勝ち誇った笑みで近づいてきた。
「聞いた? 『汚れ』ですって。ぴったりな名前ね。あんな安物の青い服を着て学者ぶって……さあ、早く荷物をまとめて出て行きなさいよ。ここは、あなたみたいな人間が居ていい場所じゃないんだから」
彼女はそう言い放つと、私の足元に転がっていた眼鏡を、ヒールの先でわざとらしく踏み砕いた。
ピシリ、と嫌な音がホールに響く。
ヒールがさらに捻られ、破片が床に散る。
私はその中から一欠片だけ拾い上げた。鋭い先端が指先を裂き、赤い線が滲む。
――痛みだけが、まだ私の輪郭を保っていた。
何も言い返せない。血の滲んだ指先を握りしめたまま、冷たい床を見つめることしかできなかった。
教育係のマルタが、ため息をつきながら歩み寄ってくる。
「……残念だったわね、エリシア。でも、これが現実よ。あなたの才能はここでは通用しかなかった……さあ、行きなさい。門までは衛兵に送らせるわ」
私は幽霊のような足取りでホールを後にした。
自室に戻る廊下。使用人たちの視線が、冷淡に私を素通りしていく。昨日まで書斎の管理を任されていた私に媚びていた者たちですら、今は目を合わそうとしない。
部屋に入り、扉を閉めた。背中を預けた木の冷たさが、肩甲骨を通じて全身に染み渡る。
机の上には、昨日のままの風景が残されていた。最新の経済統計資料の束。ヴァレリアの思考を分析するために作った、緻密なメモの山。窓から差す光が紙面を白く照らしているのに、そのすべてが、ひどく無意味で、滑稽な遺物に見えた。
(……ああ、本当に終わったんだ)
ベッドの上に置かれた灰色の外出着に手を伸ばす。
これを着て、門を出ればいい。平民街へ戻れば、トーマスが待っているだろう。傷ついた私を優しく抱きしめ、「だから言っただろ?」と、甘い逃げ道を差し出してくれるに違いない。
あのおがくずの匂いがする、小さな庭のある家。
そこで私は、一生、今日の屈辱を忘れたふりをして生きていく。
「私は学問の自由を選んだのだ」と、自分自身に言い聞かせながら。
「……嘘よ」
唇が勝手に動いていた。
――そんなの、真っ赤な嘘だわ。
私は外出着を床に叩きつけた。
トーマスのところへ? 静かな生活?
そんなものは、敗北を認めた後に啜る薄汚れたスープと同じだ。
私が、地下資料室で貴族を冷笑していた理由は何だった?
彼らが無能だから? 虚飾に塗れているから?
いいえ、違う。
――羨ましかったからだ。
世界を動かす力を持ち、流行を支配し、一言で他人の人生を決定づける。その圧倒的な強さが羨ましくて、憎らしくて、だからこそ私の方が賢いという逃げ場に閉じこもっていただけ。
私は、自分が一番嫌っていた虚飾の持ち主だった。
壁にかけられた鏡の前に立つ。眼鏡を失った視界はぼやけている。けれど鏡の中の私は、今までで一番醜く、そして、剥き出しだった。
血のついた指先を見つめる。
「……泥、ね。ええ、そうよ。私は泥だったわ」
ヴァレリアに憧れ、彼女のようになりたいと願いながら、彼女が歩んできた血の滲む闘争のルールを、私は一秒たりとも学ぼうとしなかった。
知識という安全な壁の内側から一歩も出ず、彼女を出し抜こうとしていた。
――けれど。
私はふと、机の上に視線を戻していた。
資料の束。経済統計、外交文書の写し、過去の議事録。ヴァレリアの行動を分析するために作った、あの緻密なメモの山。
あれだけ無意味に見えた紙の群れが、今、別の光を帯びて目に映る。
私は、あの資料の中に何が書かれているか知っている。数字の裏にどんな力学が蠢いているか、読み解く術を持っている。伯爵がなぜ怒り狂ったのか。彼の領地に流れている鉱山利権と、編纂事業の予算配分が裏で繋がっていることも。
知っていた。すべて、知っていた。
けれど――知っていることを、誰かに認めさせる力がなかった。
伯爵の面前で、私は正しいことを言った。歴史的事実として、一点の誤りもなかった。だがそれは、宴席に地図を広げて「ここに宝がある」と叫ぶようなものだ。正しさは、それだけでは何の武器にもならない。
資料は読めた。けれど、資料を動かす人間の文法が読めなかった。
知識を権力の言語に翻訳する術を、私は持っていなかった。
だから伯爵にあしらわれ、ヴァレリアの顔に泥を塗ることになった。知識が足りなかったのではない。知識の届く範囲が、致命的に狭かったのだ。
――文献だけでは、真実に届かない。
権力の論理。人を動かす力学。社交という名の戦場で交わされる、言葉の裏の言葉。それらを読み解く力がなければ、どれほど資料を積み上げたところで、歴史の表層を撫でているに過ぎない。
伯爵の怒りの構造を、私は知っていた。けれど、それを制御する方法を知らなかった。あの場でヴァレリアならどう振る舞ったか――考えるまでもない。彼女なら、伯爵の虚栄心を一言で満たしながら、その裏で利権の糸を静かに手繰り寄せていただろう。
文献を読む眼と、人間を読む眼。その両方を持つ者だけが、真実に手が届く。
そして、その力を持つ者が――この国にたった一人、いる。
胸の奥で、何かが噛み合った。
復讐心でも、学問への執着でもない。その二つが初めて同じ方角を向き、一本の刃になる感覚。
ヴァレリア閣下。あなたは私を「泥の中へ帰れ」と言ったわね。
けれど残念ながら、私はもう戻れない。
文献を読み解く眼と、権力を読み解く眼。その両方を持たなければ、真実へは届かないと知ってしまったから。
そしてその両方を教えられるのは、この世界であなただけだ。
あなたの傍でしか、私は完成しない。
「……出ていかないわ。絶対に」
私は、血のついた指先で自分の唇をなぞった。
もし私の知識が『力のない落ち葉』だというのなら、その落ち葉を燃料に変えてみせる。
もし私の美貌が足りないというのなら、自分の魂を削ってでも、どんな名画よりも残酷な美しさを手に入れてみせる。
私はクローゼットの奥から、あの日脱ぎ捨てた青い侍女服を取り出した。
ヴァレリアが『残飯』と呼んだ、あの色。
私はそれを再び身に纏った。
これは過去への回帰ではない。自分という人間を一度殺し、最強の怪物として生まれ変わるための死装束だ。
私は部屋を出た。
門へ向かうのではない。
この屋敷の最も奥深く――ヴァレリアが唯一、畏怖と信頼を置いている人物の部屋へ。
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