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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第1幕 憧れは屈辱から始まる

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5/22

5. 期待した私が愚かでした

 トーマスとの別れから数日。私の生活は、以前にも増して完璧を追求する修羅の場と化していた。


 朝、誰よりも早く起き、鏡に向かって侍女エリシアの仮面を被る。握りしめた拳の内側だけが、いつも冷たい。その冷たさを芯にして、心臓のいちばん深いところに錐のような決意を据えた。負けない。彼女に二度と『残飯』などと言わせない。


 私は書斎の管理だけでなく、本来の侍女業務にも全力を注いだ。礼儀作法の書物を片っ端から読破し、歴代の侍女長が残した覚書を暗記した。どの角度で頭を下げれば最も美しく見えるか。紅茶の温度は、その日の湿度と客人の顔色によってどう変えるべきか。すべてをデータとして脳に叩き込み、出力する。


 教育係のマルタも、私の急成長には目を見張っていた。


「……驚いたわね。平民の娘が、これほど短期間で公爵家の作法を形にするなんて」


 マルタは私の所作を一通り眺めてから、静かに付け加えた。


「けれどエリシア、ひとつだけ覚えておきなさい。侍女の仕事は、自分が何を知っているかではないの。主人が何を見せたいかを読み取ること。あなたの知識は道具よ。誰のために使うかを間違えたら、それは刃物と同じ――自分自身を傷つけることになるわ」


 私は素直に頷いた。頷きながら、内心では聞き流していた。正しい知識を正しく使えば、結果は自ずとついてくる。そう信じていた。


 その信念を試す機会は、すぐに訪れた。王立歴史編纂所の副所長であるヘンドリック伯爵が、ヴァレリア閣下を訪ねてくることになったのだ。


 私は並々ならぬ気合で準備に臨んだ。伯爵の家系、好む茶葉の産地、最近執筆した論文の内容。すべてを調べ上げ、隙のないもてなしのシナリオを構築した。


 とりわけ力を入れたのが茶葉の選定だった。伯爵が昨年の論文で言及していた、古エリュシオン帝国時代の製法。それを現代に再現している農園の茶葉を取り寄せた。研究への敬意を、言葉ではなく一杯の茶で示す。それが私の考えた最上の演出だった。


 書斎で最後の確認をしていた時、背後で気配がした。


「ずいぶん張り切っているじゃないか」


 振り返ると、書架に背を預けたルシアンが、退屈そうに天井を眺めていた。


「ルシアン様……監督業務でしたら、本棚の再編は先週のうちに――」


「違うよ。ただの野次馬さ」


 彼は棚から一冊を抜き取り、頁を繰るふりをしながら言った。


「君、あの伯爵の前でいい恰好をしたいんだろう?」


 心臓が跳ねた。だが表情には出さない。


「何のことでしょう」


「とぼけなくていい。君の準備は完璧だよ。茶葉も、論文の予習も、伯爵の虚栄心を撫でる段取りも……問題は、完璧すぎるってことだけどね」


 ルシアンは本を棚に戻し、初めてこちらを向いた。あの昏い紫の瞳が、私の目を射抜く。


「あの男は、自分より賢い平民を許さない。君が優秀であればあるほど、あの手の人間は牙を剥く……お膳立てを自分の手柄にしたくなる瞬間が来るだろうが、そこで口を開いたら終わりだよ」


「……ご忠告、痛み入ります」


 私は丁重に、しかし軽く受け流した。あなたに言われなくても、立ち回りくらい心得ている――そう思っていた。


 ルシアンは肩をすくめ、音もなく書斎を出ていった。




 ◆◇◆




 応接室に現れたヘンドリック伯爵は、いかにも権威主義的で、傲慢そうな男だった。


「いやはや、ヴァレリア公女。貴女の邸宅は相変わらず、隙がなさすぎて居心地が悪いくらいだ」


 伯爵は下品な笑みを浮かべ、ソファーに深く腰掛けた。対面に座るヴァレリアは、氷の彫像のように冷たく、美しい。


「あら、それは褒め言葉と受け取っておくわ……エリシア。準備を」


「はい、閣下」


 私は音もなく歩み寄り、茶を淹れ始めた。茶葉が最も香る温度、カップに注ぐ際の湯の落下音に至るまで、すべてを身体に刻み込んだ手順で演じてみせた。


「ほう……この茶は、なかなか」


 伯爵の眉が微かに上がった。カップを傾け、もう一口含み、ゆっくりと香りを確かめるように息を吐く。


「公女、この茶葉は……古エリュシオンの製法を再現したものではないかね? 私の論文でも取り上げたが、現存する農園はごく限られているはずだ」


 伯爵の声には、学者としての純粋な興味が滲んでいた。そしてその問いは、ヴァレリアに向けられている。


 ――ここだ。


 私の胸が高鳴った。あとはヴァレリア閣下がこの場を引き取り、伯爵との対話に繋げてくだされば、私の仕事は完璧に実を結ぶ。


 だが――気づけば、私の口が先に動いていた。


「恐れ入ります、伯爵閣下。この茶葉は、閣下の論文第三章で言及されていた古代製法の再現品でございます」


 学問の世界であれば、相手の問いに知見で応じるのは敬意の表し方だ。私はその作法に従って口を開いた。それが――侍女として、この場で許されていない振る舞いだとも知らずに。


「閣下の御論考における、税制改革と文字普及の相関についての分析には、深く感銘を受けました。特に第三章で――」


 視界の端で、ヴァレリアの膝の上に置かれた手の人差し指が一本だけ、ぴたりと浮き上がった。まるで弦を押さえるように。私はその所作の意味を読めなかった。


「――帝国末期の識字率の変遷と照らし合わせますと、閣下の仮説はさらに補強されるのではないかと……」


「……ヴァレリア公女」


 伯爵が、私の言葉を遮った。笑みを浮かべていた。だがその笑みは、先ほどまでとはまるで別の形をしていた。唇の端だけが薄く持ち上がり、目がまったく笑っていない。


「面白い侍女をお使いだ。主人の客に、その主人を差し置いて講釈を垂れるとは。公爵家もずいぶんと自由な教育をなさるものだ」


 伯爵はカップをソーサーに戻した。指先の動きは丁寧だったが、もう茶を味わう気はないのだと分かった。


「この茶葉を選んだのも、この娘かね?」


「ええ」


 ヴァレリアが、短く答える。


「なるほど。私の論文を読み、好みを調べ上げ、私が気づくように茶葉を選んだ……ご丁寧なことだ。まるで、私がこの茶の価値を知らないとでも言いたげではないか」


 私はひゅっと息を吞んだ。


「伯爵閣下、それは誤解です。私はただ――」


「侍女が客に弁明するのか。なるほど、これも公爵家の新しい作法かな」


 伯爵はソファーから立ち上がった。もうこの場に用はないとでも言うように、手袋を静かに嵌め直している。


「公女。今日の本題は書面で送らせよう……少々、興が削がれた」


 罵倒の言葉はなかった。だからこそ、その穏やかな撤退が何を意味するのか、私には分からなかった。ただ、ヴァレリアの顔を見た瞬間――理解した。


 彼女の瞳には怒りがなかった。もっと冷たいもの――興味を失いかけている目が、こちらを見ている。


 扉が閉まる音が、遠くから響く。


「――あなたは、いったい誰のために発言したのかしら?」


 その問いに、私は答えられなかった。


「あなたは自分のために動いた。自分の知識を見せたかった。あの男に認められたかった……違う?」


 否定できなかった。喉の奥が、石になったように動かない。


「茶葉の選定は見事だったわ。伯爵が気づいた瞬間、あなたの仕事は完璧に成功していた。あの場であなたがすべきだったのは、ただ黙って微笑み、私に語らせることだけだった」


 ヴァレリアの声は冷たかったが、怒りではなかった。外科医が患部を指し示すような、正確さだった。


「けれどあなたは、自分の口で語った。伯爵の問いが私に向けられていたことにすら気づかなかった。侍女が客人に直接講釈を垂れるというのは、主人が無知であると宣言しているのと同じよ」


 反論の言葉など、浮かばなかった。


「知識があることと、世界が読めることは別よ、エリシア。あなたの知識は確かだわ。だからこそ救いがないの。正しい刃物を持った人間が、振り方を知らずに自分も周りも傷つけている。それが今のあなたよ」


 ヴァレリアは一度だけ目を伏せた。判決を下す前の、最後の間だった。


「明日から、あなたの役目は人前からは外すわ。書斎の整理だけ。客人の目に触れる仕事には、当面つけないことにしましょう」


 追放ではなかった。だが、それは追放より残酷な宣告だった。


 私は一礼をして、応接室を出た。廊下ですれ違う使用人たちの視線が、刃物のように突き刺さる。


 自室に戻った私は、鏡を見ることすらできなかった。誰よりも努力した。すべて正しかったはずだ。なのに、その正しさそのものが刃になって返ってきた。


 マルタの言葉が、今になって胸に刺さった。『誰のために使うかを間違えたら、それは刃物と同じ』――そしてルシアンの声が、その隣に並んだ。『そこで口を開いたら終わりだよ』――


 二人とも、正しかった。二人とも見えていたものを、私だけが見えていなかった。


 私は暗闇の中で膝を抱え、震えていた。帰る場所はない。トーマスの手も、もうそこにはない。明日からは、誰の目にも映らない場所で、ただ本の埃を払うだけの日々が待っている。


 絶望が、冷たい泥のように心を埋め尽くしていく。


 だが、その泥の底で。ヴァレリアの声だけが消えなかった。あなたの知識は確かだわ――その一言が、残り火のように胸の奥で赤く脈打っていた。


(……このまま、終わってたまるものですか)


 拳を握った。冷たい指先に爪が食い込む痛みだけが、私の正気を保たせていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「消えなさい」

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