4. 帰れる場所
自室の床に転がった群青色の侍女服を、私は幽鬼のような心地で眺めていた。
昨日まで、それは私の誇りだった。
図書館の最下層で培った知性の証。貴族たちの空虚な煌びやかさに対する、唯一無二の抵抗。
だが、氷の公女ヴァレリアがたった数分で証明して見せたのは、この布切れが私の意志などではなく、彼女が数年前に吐き出した『工業廃液の残滓』に過ぎないという事実だった。
(……汚い)
一度そう思ってしまうと、もう直視することすら耐え難かった。
この色が、安価で、色落ちせず、誰にでも手に入る理由は、知的な価値があるからではない。ただ、効率的に廃棄物を処理するための副産物だったからだ。
私は、自分が特別な個であると信じて疑わなかった。しかし現実は、彼女が領地経営の盤上で動かした、数万、数十万という『平民という名の統計』の一人でしかなかったのだ。
私は震える手で、備え付けの質素な寝着に着替えた。
窓の外には、抜けるような青空が広がっている。昨日の屈辱を嘲笑うかのように、美しく、どこまでも高い空。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「エリシア、入るわよ」
現れたのは、同僚の侍女ではなく、この屋敷に古くから仕える年配の洗濯女だった。彼女は私の様子を見て、少しだけ眉を下げた。
「……顔色が悪いわね。少し外の空気でも吸ってきたら? 閣下からは、今日の午前中はあなたの『自省』の時間に充てると伝言を預かっているわ」
「自省……ええ、そうでしょうね。無知な赤子に、己の愚かさを噛み締める時間を与えてくださったのよ」
自嘲気味に吐き捨て、私はふらふらと立ち上がった。
このままこの部屋にいて、あの群青色の布を見続けていれば、正気を失ってしまいそうだった。
私は目立たない、色あせた灰色の外出着を羽織り、公爵邸の裏門から外へ出た。
目指したのは、王都の北側に広がる平民街の広場だ。
そこは、私がつい数週間前まで『自分たちの場所』だと思っていた喧騒に満ちていた。
立ち並ぶ屋台からは、焼きたてのパンや香辛料の混じった、泥臭いが活気のある匂いが漂ってくる。
走り回る子供たち。大声で値段を競り合う商人たち。
その光景を見て、私は息苦しさを覚えた。
ここにある色の、どれほどがヴァレリアの手のひらの上にあるものなのだろうか。
今、あの子供が着ている赤い服は? あの商人が売っている安物の香油は?
すべてが、彼女のような怪物たちが、数年前に仕掛け、使い捨てた『食い滓』に見えてしまう。
「――エリー? エリーじゃないか!」
不意に、聞き覚えのある温かな声が私の名を呼んだ。
振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
少し癖のある茶髪に、誠実そうな焦げ茶色の瞳。作業着の袖を捲り、荷車を引いているその青年は、私の幼馴染であり、かつての恋人だったトーマスだった。
「トーマス……」
「やっぱりエリーだ! 良かった、元気そうじゃないか。いや、少し痩せたか? 侍女の仕事が忙しいって聞いてたけど……」
トーマスは屈託のない笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
彼は、王都の家具工房で働く腕のいい職人だ。私たちがまだ将来を語り合っていた頃、彼はいつか自分の店を持ち、私に丈夫で美しい机を作ってくれると約束してくれた。
彼が近づくと、おがくずの匂いと、太陽に干した布のような匂いがした。
ヴァレリアの屋敷にある、あの神経を逆撫でするような冷涼な香気とは、対極にある匂い。
「……元気よ。少し、疲れが出ただけ」
「そうか。でも、無理は禁物だぞ……って、なあ、エリー。ちょっと話せないか? ちょうど昼休みなんだ。あそこの噴水の影とかでさ」
私は促されるまま、彼と共に噴水の縁に腰を下ろした。
トーマスは荷車から包みを取り出し、私に一つ差し出した。まだ温かい、チーズを挟んだだけの素朴なパンだ。
「これ、母さんが焼いたんだ。お前の好物だろう?」
差し出されたパン。その温かさが、冷え切っていた私の指先にジンと染みた。
一口齧ると、慣れ親しんだ素朴な味が口の中に広がる。
「……美味しい」
「だろう? エリー、あのさ……」
トーマスは少し言い淀んだ後、真剣な眼差しで私を見つめた。
「俺、お前が公爵邸で働き始めたって聞いて、ずっと心配してたんだ。あそこは、俺たちみたいな人間が行く場所じゃない。特に、あの『氷の公女』の側になんて……」
「彼女は……閣下は、素晴らしい方よ。私が知らなかった世界の仕組みを、教えてくださるもの」
その言葉は、私のプライドが吐かせた嘘だった。
「嘘だろ? お前の目を見ればわかる。今のその目は、古文書を見ている時の楽しい目じゃない。何かに追い詰められて、必死に崖を登ろうとしている目だ」
トーマスの言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
彼は、私の右手をそっと取った。
その掌は硬く、節くれだっていて、毎日を誠実に生きている者の手だった。
「エリー。もう、いいんじゃないか? 推薦状なんてなくても、学者になれなくても、お前はお前だ。俺たちの工房の近くに、手頃な貸家が見つかったんだ。日当たりのいい部屋が二間あって、小さな庭もある」
トーマスは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「一間は寝室にして、もう一間はお前の書斎にすればいい。窓際に机を置いて……その机は俺が作る。樫材の、がたつかないやつをな。仕事が終わったら、お前は好きなだけ本を読んでいてくれ。俺は隣で鉋の刃でも研いでるから」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に、残酷なほど鮮明な光景が浮かんだ。
夕暮れ。窓から差す橙色の光の中で、樫の机に向かう自分。傍らには図書館から借りてきた古文書の束と、分類番号を書き込んだ紙片が几帳面に並んでいる。隣の部屋からは、鉋が木肌を撫でる規則的な音。やがてトーマスが「飯にしよう」と声をかけて、二人で小さな食卓を囲む。スープの湯気の向こうに、読みかけの頁が開いたまま待っている。
誰にも急かされず、誰にも否定されず、ただ知りたいことを知りたいだけ追いかけていい暮らし。
それは、あの地下資料室で過ごした日々の――上位互換だった。
トーマスの手の温もりが、冷え切った指先から腕へ、腕から胸へと染み渡っていく。
「エリー、俺と来ないか? あんな化け物の側にいたら、お前の心が壊されてしまう。お前はもっと、優しくて、賢くて……静かな場所が似合うひとだったはずだ」
――静かな場所。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏にあの地下資料室の静寂が蘇った。
埃の匂い。ランプの微かな熱。
私は、あそこで満足していたはずだったのに。
貴族たちを『絹の脳みそ』だと笑い、自分だけが真理を知っていると自惚れていれば、波風は立たなかった。
トーマスの手は、温かくて安心する。
この手を取れば、私はこの不毛な戦いから降りることができる。
ヴァレリアに『残飯』と蔑まれることも、自分の無力さに打ちひしがれることもない。
私はただのエリシアに戻り、彼と共に、歴史の影で慎ましく生きていく。
それは、究極の逃げ道だった。
喉の奥まで、「お願い、連れて行って」という言葉がせり上がってくる。
でも、その時――
私の視界の隅に、広場を通りかかった一台の豪華な馬車が映った。
その馬車の側面には、ヴァリエール公爵家の家紋が刻まれている。
馬車は止まらず、平民たちの喧騒を裂くようにして走り抜けていく。
一瞬だけ、窓のカーテンが揺れ、その奥にあるはずの『氷の瞳』を想像してしまった。
『知性を語るなら、自分が誰の掌の上で、どんな風に踊らされているかくらい、自覚してからになさい』
あの冷徹な声が、耳の奥でリフレインする。
私は、自分の手をそっとトーマスの手から引き抜いた。
「……エリー?」
「ごめんなさい、トーマス。私、まだ帰れないわ」
「どうしてだよ。あんなに惨めな思いをしてまで……!」
「惨めだからよ」
私は立ち上がり、自分の灰色の服を見つめた。
「今、あなたと一緒に逃げたら、私は一生、彼女が施した侵食の中で生きていくことになる。あの窓際の書斎で古文書を開いても、頁をめくるたびに思い知らされるわ――この記録の裏側で何が動いていたのか、私は見せてもらえる場所にいたのに、自分から目を閉じたんだって」
トーマスの描いた食卓を、私は確かに美しいと思った。
けれど、あの橙色の光の中で本を読む自分は、きっと幸せな顔をしながら、何も知らないまま老いていく。自分が何を知らないかすら知らないまま、与えられた小さな幸せを本物だと信じ込んで。
「私は、歴史を知りたいと言ったわ。でも、今ならわかる。歴史を動かす側の視点を知らなければ、一次資料の裏にある真実なんて見えやしない……私は、彼女に勝ちたいの。自分が誰の掌の上にいるかを知った上で、その掌を跳ね除けてみせたい」
「エリー……お前、変わったな。本当に、あいつの毒が回ったみたいに見えるよ……」
トーマスの声には、深い悲しみが混じっていた。
彼は、私がかつて愛した『静かなエリシア』が、もうどこにもいないことを悟ったのだろう。
私は彼に背を向けた。
振り返れば、また足が止まってしまう。
「パン、美味しかった。おば様によろしく伝えて」
私は早歩きで、公爵邸へと続く坂道を登り始めた。
胸の中は、嵐のような感情でかき乱されていた。
トーマスの描いた夕暮れの書斎は、今でも瞼の裏で橙色に光っている。
あそこへ行けば、私は『人間』として扱われるだろう。
けれど、ヴァレリアの屋敷へ戻れば、私は道具か赤子のように扱われ、魂を削られるような日々が続く。
それでも。
私は、鏡の中で屈辱に震えていたあの時の自分を、置き去りにはできなかった。
公爵邸の重厚な正門が見えてくる。
私は大きく深呼吸をし、乱れた髪を整えた。
眼鏡の奥の瞳から、迷いを消す。
今、私は確かに揺れ動いている。
けれど、その揺れは逃げるための助走ではなく、より高く跳ぶための反動だ。
門をくぐり、冷たい大理石の廊下を歩く。
足音は、昨日よりも少しだけ力強い。
(待っていなさい、ヴァレリア。私はあなたの『残飯』を食らうだけの娘では終わらない。あなたが使い古した歴史を、私が新しい真実で塗り替えてみせるわ)
私は自室に戻り、床に落ちていた群青色の侍女服を拾い上げた。
それを、ゴミ箱に捨てるのではなく、チェストの奥深くへと押し込む。
いつか、この服を笑って見返せる日が来るまで。
私は、この地獄のような「憧れ」を抱いて生きていく。
その日の午後。
私が書斎へ向かうと、ヴァレリアは書類から目を上げることなく、短く告げた。
「……少しは、ましな顔になったようね」
「恐れ入ります、閣下」
私は深く、完璧な一礼を捧げる。
こうして、私は一度きりの逃げ道を自ら断ち切った。
その先に待つのが、さらなる屈辱か、それとも破滅か。今の私には、それすらも――甘美な毒に思えていた。
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