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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第1幕 憧れは屈辱から始まる

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4. 帰れる場所

 自室の床に転がった群青色の侍女服(ワンピース)を、私は幽鬼のような心地で眺めていた。


 昨日まで、それは私の誇りだった。


 図書館の最下層で培った知性の証。貴族たちの空虚な煌びやかさに対する、唯一無二の抵抗。


 だが、氷の公女ヴァレリアがたった数分で証明して見せたのは、この布切れが私の意志などではなく、彼女が数年前に吐き出した『工業廃液の残滓』に過ぎないという事実だった。


(……汚い)


 一度そう思ってしまうと、もう直視することすら耐え難かった。


 この色が、安価で、色落ちせず、誰にでも手に入る理由は、知的な価値があるからではない。ただ、効率的に廃棄物を処理するための副産物だったからだ。


 私は、自分が特別な()であると信じて疑わなかった。しかし現実は、彼女が領地経営の盤上で動かした、数万、数十万という『平民という名の統計』の一人でしかなかったのだ。


 私は震える手で、備え付けの質素な寝着に着替えた。


 窓の外には、抜けるような青空が広がっている。昨日の屈辱を嘲笑うかのように、美しく、どこまでも高い空。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「エリシア、入るわよ」


 現れたのは、同僚の侍女ではなく、この屋敷に古くから仕える年配の洗濯女だった。彼女は私の様子を見て、少しだけ眉を下げた。


「……顔色が悪いわね。少し外の空気でも吸ってきたら? 閣下からは、今日の午前中はあなたの『自省』の時間に充てると伝言を預かっているわ」


「自省……ええ、そうでしょうね。無知な赤子に、己の愚かさを噛み締める時間を与えてくださったのよ」


 自嘲気味に吐き捨て、私はふらふらと立ち上がった。


 このままこの部屋にいて、あの群青色の布を見続けていれば、正気を失ってしまいそうだった。


 私は目立たない、色あせた灰色の外出着を羽織り、公爵邸の裏門から外へ出た。


 目指したのは、王都の北側に広がる平民街の広場だ。


 そこは、私がつい数週間前まで『自分たちの場所』だと思っていた喧騒に満ちていた。


 立ち並ぶ屋台からは、焼きたてのパンや香辛料の混じった、泥臭いが活気のある匂いが漂ってくる。


 走り回る子供たち。大声で値段を競り合う商人たち。


 その光景を見て、私は息苦しさを覚えた。


 ここにある色の、どれほどがヴァレリアの手のひらの上にあるものなのだろうか。


 今、あの子供が着ている赤い服は? あの商人が売っている安物の香油は?


 すべてが、彼女のような怪物たちが、数年前に仕掛け、使い捨てた『食い滓』に見えてしまう。



「――エリー? エリーじゃないか!」



 不意に、聞き覚えのある温かな声が私の名を呼んだ。


 振り返ると、そこには見慣れた顔があった。


 少し癖のある茶髪に、誠実そうな焦げ茶色の瞳。作業着の袖を捲り、荷車を引いているその青年は、私の幼馴染であり、かつての恋人だったトーマスだった。


「トーマス……」


「やっぱりエリーだ! 良かった、元気そうじゃないか。いや、少し痩せたか? 侍女の仕事が忙しいって聞いてたけど……」


 トーマスは屈託のない笑みを浮かべて駆け寄ってきた。


 彼は、王都の家具工房で働く腕のいい職人だ。私たちがまだ将来を語り合っていた頃、彼はいつか自分の店を持ち、私に丈夫で美しい机を作ってくれると約束してくれた。


 彼が近づくと、おがくずの匂いと、太陽に干した布のような匂いがした。


 ヴァレリアの屋敷にある、あの神経を逆撫でするような冷涼な香気とは、対極にある匂い。


「……元気よ。少し、疲れが出ただけ」


「そうか。でも、無理は禁物だぞ……って、なあ、エリー。ちょっと話せないか? ちょうど昼休みなんだ。あそこの噴水の影とかでさ」


 私は促されるまま、彼と共に噴水の縁に腰を下ろした。


 トーマスは荷車から包みを取り出し、私に一つ差し出した。まだ温かい、チーズを挟んだだけの素朴なパンだ。


「これ、母さんが焼いたんだ。お前の好物だろう?」


 差し出されたパン。その温かさが、冷え切っていた私の指先にジンと染みた。


 一口齧ると、慣れ親しんだ素朴な味が口の中に広がる。


「……美味しい」


「だろう? エリー、あのさ……」


 トーマスは少し言い淀んだ後、真剣な眼差しで私を見つめた。


「俺、お前が公爵邸で働き始めたって聞いて、ずっと心配してたんだ。あそこは、俺たちみたいな人間が行く場所じゃない。特に、あの『氷の公女』の側になんて……」


「彼女は……閣下は、素晴らしい方よ。私が知らなかった世界の仕組みを、教えてくださるもの」


 その言葉は、私のプライドが吐かせた嘘だった。


「嘘だろ? お前の目を見ればわかる。今のその目は、古文書を見ている時の楽しい目じゃない。何かに追い詰められて、必死に崖を登ろうとしている目だ」


 トーマスの言葉が、私の胸に深く突き刺さる。


 彼は、私の右手をそっと取った。


 その掌は硬く、節くれだっていて、毎日を誠実に生きている者の手だった。


「エリー。もう、いいんじゃないか? 推薦状なんてなくても、学者になれなくても、お前はお前だ。俺たちの工房の近くに、手頃な貸家が見つかったんだ。日当たりのいい部屋が二間あって、小さな庭もある」


 トーマスは少し照れくさそうに頭を掻いた。


「一間は寝室にして、もう一間はお前の書斎にすればいい。窓際に机を置いて……その机は俺が作る。樫材の、がたつかないやつをな。仕事が終わったら、お前は好きなだけ本を読んでいてくれ。俺は隣で鉋の刃でも研いでるから」


 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に、残酷なほど鮮明な光景が浮かんだ。


 夕暮れ。窓から差す橙色の光の中で、樫の机に向かう自分。傍らには図書館から借りてきた古文書の束と、分類番号を書き込んだ紙片が几帳面に並んでいる。隣の部屋からは、鉋が木肌を撫でる規則的な音。やがてトーマスが「飯にしよう」と声をかけて、二人で小さな食卓を囲む。スープの湯気の向こうに、読みかけの頁が開いたまま待っている。


 誰にも急かされず、誰にも否定されず、ただ知りたいことを知りたいだけ追いかけていい暮らし。


 それは、あの地下資料室で過ごした日々の――上位互換だった。


 トーマスの手の温もりが、冷え切った指先から腕へ、腕から胸へと染み渡っていく。


「エリー、俺と来ないか? あんな化け物の側にいたら、お前の心が壊されてしまう。お前はもっと、優しくて、賢くて……静かな場所が似合うひとだったはずだ」


 ――静かな場所。


 その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏にあの地下資料室の静寂が蘇った。


 埃の匂い。ランプの微かな熱。


 私は、あそこで満足していたはずだったのに。


 貴族たちを『絹の脳みそ』だと笑い、自分だけが真理を知っていると自惚れていれば、波風は立たなかった。


 トーマスの手は、温かくて安心する。


 この手を取れば、私はこの不毛な戦いから降りることができる。


 ヴァレリアに『残飯』と蔑まれることも、自分の無力さに打ちひしがれることもない。


 私はただのエリシアに戻り、彼と共に、歴史の影で慎ましく生きていく。



 それは、究極の逃げ道だった。


 喉の奥まで、「お願い、連れて行って」という言葉がせり上がってくる。



 でも、その時――



 私の視界の隅に、広場を通りかかった一台の豪華な馬車が映った。


 その馬車の側面には、ヴァリエール公爵家の家紋が刻まれている。


 馬車は止まらず、平民たちの喧騒を裂くようにして走り抜けていく。


 一瞬だけ、窓のカーテンが揺れ、その奥にあるはずの『氷の瞳』を想像してしまった。



『知性を語るなら、自分が誰の掌の上で、どんな風に踊らされているかくらい、自覚してからになさい』



 あの冷徹な声が、耳の奥でリフレインする。


 私は、自分の手をそっとトーマスの手から引き抜いた。


「……エリー?」


「ごめんなさい、トーマス。私、まだ帰れないわ」


「どうしてだよ。あんなに惨めな思いをしてまで……!」


「惨めだからよ」


 私は立ち上がり、自分の灰色の服を見つめた。


「今、あなたと一緒に逃げたら、私は一生、彼女が施した()()の中で生きていくことになる。あの窓際の書斎で古文書を開いても、頁をめくるたびに思い知らされるわ――この記録の裏側で何が動いていたのか、私は見せてもらえる場所にいたのに、自分から目を閉じたんだって」


 トーマスの描いた食卓を、私は確かに美しいと思った。


 けれど、あの橙色の光の中で本を読む自分は、きっと幸せな顔をしながら、何も知らないまま老いていく。自分が何を知らないかすら知らないまま、与えられた小さな幸せを本物だと信じ込んで。


「私は、歴史を知りたいと言ったわ。でも、今ならわかる。歴史を動かす側の視点を知らなければ、一次資料の裏にある真実なんて見えやしない……私は、彼女に勝ちたいの。自分が誰の掌の上にいるかを知った上で、その掌を跳ね除けてみせたい」


「エリー……お前、変わったな。本当に、あいつの毒が回ったみたいに見えるよ……」


 トーマスの声には、深い悲しみが混じっていた。


 彼は、私がかつて愛した『静かなエリシア』が、もうどこにもいないことを悟ったのだろう。


 私は彼に背を向けた。


 振り返れば、また足が止まってしまう。


「パン、美味しかった。おば様によろしく伝えて」


 私は早歩きで、公爵邸へと続く坂道を登り始めた。


 胸の中は、嵐のような感情でかき乱されていた。


 トーマスの描いた夕暮れの書斎は、今でも瞼の裏で橙色に光っている。


 あそこへ行けば、私は『人間』として扱われるだろう。


 けれど、ヴァレリアの屋敷へ戻れば、私は道具か赤子のように扱われ、魂を削られるような日々が続く。



 それでも。



 私は、鏡の中で屈辱に震えていたあの時の自分を、置き去りにはできなかった。


 公爵邸の重厚な正門が見えてくる。


 私は大きく深呼吸をし、乱れた髪を整えた。


 眼鏡の奥の瞳から、迷いを消す。


 今、私は確かに揺れ動いている。


 けれど、その揺れは逃げるための助走ではなく、より高く跳ぶための反動だ。


 門をくぐり、冷たい大理石の廊下を歩く。


 足音は、昨日よりも少しだけ力強い。


(待っていなさい、ヴァレリア。私はあなたの『残飯』を食らうだけの娘では終わらない。あなたが使い古した歴史を、私が新しい真実で塗り替えてみせるわ)


 私は自室に戻り、床に落ちていた群青色の侍女服(ワンピース)を拾い上げた。


 それを、ゴミ箱に捨てるのではなく、チェストの奥深くへと押し込む。


 いつか、この服を笑って見返せる日が来るまで。


 私は、この地獄のような「憧れ」を抱いて生きていく。


 その日の午後。


 私が書斎へ向かうと、ヴァレリアは書類から目を上げることなく、短く告げた。


「……少しは、ましな顔になったようね」


「恐れ入ります、閣下」


 私は深く、完璧な一礼を捧げる。


 こうして、私は一度きりの逃げ道を自ら断ち切った。


 その先に待つのが、さらなる屈辱か、それとも破滅か。今の私には、それすらも――甘美な毒に思えていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「期待した私が愚かでした」

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