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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第1幕 憧れは屈辱から始まる

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3. 青は残飯だと嗤われた日

 公爵邸での生活が始まって二週間。


 私の生活は、分刻みの精密な歯車へと組み込まれていった。


 日の出と共に起床し、冷たい水で顔を洗う。野暮ったい眼鏡をかけ、侍女服に袖を通す。


 公爵家の侍女服は、装飾を一切排した実務型だった。丈と仕立てはすべて統一。唯一、生地の色味だけが個人の裁量に委ねられている。私はその唯一の選択肢に、迷わず群青を選んだ。


 この二週間、私は完璧な侍女という仮面を一度も外さなかった。閣下――ヴァレリアの書斎は、私の『相互参照分類法』によって完全に再編されている。


 その成果は、昨日ようやく目に見える形で表れた。古参の侍女が条約文書の保管場所を尋ねてきたのだ。私に、だ。十年この邸に仕えた女が、二週間の新参に頭を下げた。


 私は丁重に、棚番号と頁数まで即答してやった。


(ふふ……この調子なら、推薦状も遠くないわね)


 私は、鏡の前で自らの姿を厳しくチェックした。


 安物の生地だが、丁寧にアイロンをかけ、糸のほつれ一つない。他の侍女たちは黒や灰を選んでいる。没個性な色に溶け込むことで、この屋敷の歯車であることを自ら証明するかのように。


 だが、私は違う。この深い青は、陽の光も届かない図書館の最下層で、埃を被った真理だけを追い求めてきた私自身の色だ。唯一許された選択肢の中で、意志を込めて選び取った一色。


 それが、私のこの群青だった。




 ◆◇◆




 執務室の重厚な扉を叩く。


「入りなさい」


 氷の結晶が鳴るような、透き通った声。


 中に入ると、ヴァレリアは窓際の長椅子に腰掛け、一冊の詩集を眺めていた。今日の彼女は、月の光を織り込んだような銀糸の刺繍が施された、淡い灰色のドレスを纏っている。


 その姿は、あまりにも完成された芸術品のようで、同じ人間であることを拒絶しているかのような錯覚を覚えさせる。


「閣下。本日の定時報告および、隣国の法典改正に関する比較資料をまとめました。こちらに」


 私は音もなく歩み寄り、机の上に一分の狂いもなく資料を並べた。


 ヴァレリアは詩集を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。青い瞳が、資料の束をちらりと見遣る。


「……悪くないわ。帳簿の整理も、文書の分類も。あなたの仕事に大きな不満はない」


 心の中で、小さくガッツポーズをした。二週間の成果が認められつつある。推薦状への道は着実に――


 その時だった。


 ノックもなく、執務室の扉がすうっと開く。


「やあ。邪魔するよ、閣下」


 怠惰を凝縮したような声。扉の隙間から滑り込んできたのは、漆黒の髪を無造作に掻き上げた長身の青年だった。


 顧問魔導師ルシアン。初日の廊下で、柱の陰からこちらを(はか)っていた、あの目の持ち主。マルタから書斎業務の監督役だと聞かされていたが、この二週間、一度も姿を見せなかった男だ。


「……ノックという概念は、あなたの辞書にはまだ載っていないようね」


 ヴァレリアの声に苛立ちはない。だが、私に向ける時とは明らかに違う温度があった。刃を鞘に収めたまま、柄に手をかけているような——警戒ではなく、対等な間合い。


「辞書なら三冊ほど燃やしたよ。暖炉の薪が切れていたものでね」


 ルシアンは私の存在など空気ほどにも気にせず、ヴァレリアの机の端に腰を預けた。その仕草は不遜を通り越して、どこか猫のように自然だった。


「北方の鉱山利権の件、あの試算は甘いと思うが」


「甘い? 根拠は」


「三年前の流通構造を同じ骨格で回せると思っているなら、だよ。隣国の関税が動いた時点で、骨格ごと組み直さなければ二年で破綻する……閣下の計算は、自分が仕掛けた盤面がまだ生きている前提に立っている。それは分析ではなく願望だ」


 空気が、変わった。


 ヴァレリアの青い瞳が、ほんの一瞬だけ細められた。怒りではない。打ち込まれた一手を吟味する棋士の沈黙だった。


「……面白いことを言うわね。では、あなたの組み直しの骨格を、明朝までに数字で見せなさい」


「僕に命令するのかい?」


「お願いしているのよ。あなたの言葉で言えば、『退屈しのぎの素材を提供してあげる』というところかしら」


 ルシアンの口の端が、かすかに持ち上がった。


「……ああ、わかったよ」


 それだけ言い残して、彼は来た時と同じように音もなく出ていった。


 私は呼吸を止めていたことに、遅れて気づいた。


 ヴァレリアの声は一度も氷の硬度を失わなかった。だが、私に向ける時のあの圧倒的な落差——見下ろす者と見下ろされる者の断崖——が、ルシアンの前では存在しなかった。あの男は、この女と同じ高さに立っている。


 胸の奥で、名前のつけられない感情がちりりと疼いた。


「――エリシア、一つ聞いてもいいかしら」


 ヴァレリアの声が、再び私に向けられた。ルシアンが残した空気の揺らぎなど、一切なかったかのように。


 ヴァレリアがゆっくりと長椅子から立ち上がる。


「あなた、帳簿は読めるのかしら?」


 不意の問いに、私は眉を上げた。


「……帳簿、でございますか。もちろんです。王立学術院の入試課題にも複式簿記の読解は含まれておりますし、私は図書館で経済史の文献も――」


「教科書ではなくて」


 ヴァレリアが、淡々と遮った。


「本物の帳簿よ。利害が絡み、数字が嘘をつき、書かれていないことの方が重い――そういう帳簿を」


「……お試しになりますか?」


「そうね」


 彼女は机の上のベルを鳴らした。現れた老執事に、短く命じる。


「三年前の北方の鉱山記録と、織物ギルドの流通白書を」


 やがて運ばれてきた、重厚な革表紙の台帳。


 ヴァレリアはそれを机に広げ、ある頁を開いた。


「あなた、これを読んでどう思う?」


 私は眼鏡を押し上げ、身を乗り出した。三年前の北方の鉱山開発に関する記録。採掘量、搬出日、副産物の処理経路。数字の羅列だが、整然としている。


「……銅の採掘過程で生じた廃液の処理記録ですね。搬出量と日付、運搬先の工房が記載されています」


「そこまでは誰でも読めることよ。では、運搬先を見なさい」


 私は文字を追った。同一の工房名が、異なる月に三度出現している。


「……同じ工房が三度。しかも不定期に。わざわざ一箇所に集約しているということは――流通の口を絞ることで、希少性を人為的に作り出している?」


「正解。では次。二年目の流通量と価格曲線について」


 新たに開かれた頁。流通量が十倍以上に跳ね上がっているにもかかわらず、価格の下落幅は緩やかだった。


「……この帳簿だけでは、需要を維持した要因が特定できません」


「いい答えね。分からないと言えること自体は、学者として間違っていないわ」


 だが、その声音は次の刃を抜くための一拍の間でしかなかった。


「ただし、あなたは帳簿に書かれた数字だけを読んでいたわ。学者としては正しい。けれど、帳簿を『作った側』の意図を読みに行かなかった。数字の裏にある力学を」


「……力学、ですか」


「この廃液には、ある種の鉱物成分が含まれていた」


 ヴァレリアの声が、一語の無駄もない講義のそれに変わった。


「そのまま捨てれば大地を汚すだけ。だが、特定の薬品と反応させれば、極めて安価で退色しにくい染料になる。……この工房は、それを知っていた。あるいは、知らされた」


 廃液が染料に。私は思わず台帳の数字に目を戻した。初年度の搬出量の少なさが、別の意味を帯び始める。


「初年度に供給を絞ったのは、品質の安定と、もう一つ――『手に入りにくい』という付加価値を市場に植え付けるため。私はその染料で仕立てたドレスを、王都で最も虚栄心の強い公爵夫人に贈った。限定品として」


 染料。限定。虚栄心。脳裏で、歯車が噛み合い始めた。


「……公爵夫人が纏えば、社交界の序列に沿って需要が連鎖していく……それが、二年目に供給を吸収できた理由ですか」


「でも、帳簿には何と記録されていたかしら?」


「……『需要増』、としか」


「そう。数字は事実を記録するけれど、事実を動かした意志までは記録しない……あなたは、その意志をくみ取れなかった」


 胸の奥を、冷たい手で掴まれたような感覚があった。


「……お待ちください。それは閣下ご自身の証言であり、帳簿上の因果とは別の問題です」


「別の問題?」


 ヴァレリアが、私の言葉を拾い上げた。


「エリシア。あなたの目の前にあるそれは何?」


 目の前の台帳。搬出量、日付、工房名——すべてが記されていた。数字の裏にある意図を読み取るための手がかりは、最初からこの頁の上に並んでいたのだ。


 私は「帳簿だけでは分からない」と言った。だが、帳簿を読み切れなかっただけだった。


 ヴァレリアは台帳を閉じなかった。


「歴史を語りたいなら、知っておきなさい。経済もまた歴史よ。帳簿は叙事詩より雄弁に時代を語る……そして流行もまた、史料になる」


 そして初めて、その視線が――私の胸元に落ちた。


「……あなたが今着ているその青。何色か、自分で分かっているかしら」


 心臓が、止まった。


「流行が加熱しきったところで、私は染料の製法を地方のギルドに安値で売り飛ばした。市場には安価なその青が溢れ、価値は暴落した。かつて貴族が競って纏った色は、数年をかけて平民の市場にまで落ちていった。安くて丈夫で、誰でも手に入る色としてね」


 帳簿の数字がすべてを裏付けていた。三年前の採掘記録から始まった連鎖が、今この瞬間、私の身体の上で終着している。


 ヴァレリアは私に一歩近づいた。冷涼で気高い香りが鼻腔をくすぐる。


「あなたがその色を意志で選んだと言ったこと自体は、嘘ではないのでしょう。けれどエリシア――あなたの意志が選べる範囲そのものを、誰が作ったのか。その問いを立てられなかった時点で、あなたは帳簿の表紙すら開けていないのと同じよ」


 息が詰まった。


 侮辱されたのではなかった。もっと残酷な何かだった。すべてが論理的に正しく、すべてが帳簿の数字に裏打ちされていて、すべてが私の足元を粉砕していた。


「私が三年前、領地経営の資金を作るために仕掛けた流行の、一番最後に残った澱――それが、あなたの群青よ。あなたは知性を気取って貴族を出し抜いたつもりでいたのでしょうけれど……残念ね。その青は、私がとうに使い終えて捨てた、()()の色なのだから」


「――っ……!!」


 頭の芯が白く弾けた。指先が震え、視界が歪んだ。


 残飯。その言葉が焼きつく。だが、本当に痛かったのは、それではなかった。あの数字の奥にある意志を読めなかったのは、知識の不足ではない。視座そのものが、足りていなかった。


 そしてその読めなかった視座の果てに――私の誇りだった群青が繋がっていた。この女が三年前に仕組んだ巨大な歯車から零れ落ちた、廃液の残滓。私はそれを自分の意志と呼んで、胸を張っていたのだ。


 ヴァレリアの細く白い指先が、私の侍女服の肩に触れた。


 そして、汚れ物でも払うように、軽く――あまりにも軽く、それを弾いた。


「あなたが軽蔑している私のドレス。この銀糸一本を紡ぐのに、どれだけの歴史的背景と、技術の継承と、経済の循環が詰まっているか……想像すらできないのでしょう? 自分の知識の箱庭に閉じこもって、安物の色に酔っているだけのあなたには」


「……申し訳、ございません」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


「下がっていいわ」


 ヴァレリアは再び詩集を手に取り、私への関心を完璧に断ち切った。




 ◆◇◆




 私は一礼し、音を立てずに執務室を辞した。


 廊下を歩く足元が覚束ない。すれ違う使用人たちの視線が、群青の生地を射抜いていく気がした。


 自室に戻り、扉を閉めた瞬間、崩れるように床に膝をついた。


 眼鏡が床に落ち、視界がぼやける。


 ――私は、道具としてさえ、まだ彼女の足元にすら及んでいなかった。


 推薦状をもらうための踏み台? 笑わせないで。私はまだ、無力な赤子に過ぎない。


 震える手で群青色の生地を掴んだ。


 涙は出なかった。代わりに、胸の奥底でドロリとした熱い何かが、マグマのように沸き上がった。


(認めない。こんなこと、認められない……!)


 でも。


 脳裏に焼きついて離れない光景が、二つあった。


 帳簿を開き、一語も無駄にせず、数字の奥に潜む意志を読み解いてみせた、あの手つき。あの視座。私が知っているどの教授よりも鮮やかに史料を捌いてみせた、あの女。


 そして――その女に向かって、「それは分析ではなく願望だ」と、一歩も退かずに言い放った、あの男。


(……悔しい。何よりも悔しいのは、あの人が正しかったということだわ。そして、あの人に正面から異を唱えられる人間が、この屋敷にもう一人いるということだわ)


 いつか、必ず。


 あなたが捨てた残飯ではなく、あなた自身が隠している数字を、私のこの目で暴いてみせる。


 あの帳簿の読み方を、私は盗む。あなたの視座を奪い取って、あなた自身を読み解いてやる。


 鏡の中に映る私は、屈辱で真っ赤に染まった、惨めな平民の娘だった。


 だが、その瞳だけは――


 氷の公女を焼き尽くさんとする、狂おしいほどの野心に燃えていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「帰れる場所」

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