22. 婚礼は私が壊しました
王宮にある『黄金の間』に足を踏み入れた瞬間、私の鼻腔を満たしたのは、蝋燭の脂と、大勢の人間が発する緊張の匂いだった。
審問会。
王家直轄の糾弾の場。その名を告げられただけで、宮廷の貴族たちは顔色を変える。今日この場に呼び出されたのがローゼンタール子爵であるという事実は、昨夜のうちに王都中を駆け巡っていた。
私はヴァレリアの半歩後ろに控え、視線を伏せたまま広間を見渡している。
卓上には、私が数夜を費やして編纂した書類が並んでいた。ローゼンタール子爵家の十年にわたる不正蓄財の記録。隣国エストレラへの魔導触媒の横流し。確実なルートを通じて財務卿の元へ届けさせた、動かしようのない反逆の証左。
それらの書類が、今、審問官たちの手元で一枚一枚めくられている。
めくられるたびに、広間の空気が重くなる。
ローゼンタール子爵は、長卓の向こうで椅子に縛り付けられたように座っていた。震える手で水差しに手を伸ばし、しかし指が滑って掴み損ねる。その仕草を、審問官席の貴族たちが冷ややかに見つめていた。
彼らの中には、私が事前に根回しをしておいた者たちもいる。子爵の失脚によって利益を得る他家派閥の重鎮。彼らにとって今日の審問は裁きではない。宴席の前菜だ。
「では、ローゼンタール子爵。三年前の国境障壁整備事業において、貴殿の領地管理局から支出された四千二百ガルドの使途について、ご説明いただきたい」
財務卿の声は、感情を排した事務的なものだった。それがかえって残酷に響く。
子爵は口を開きかけ、唇を舐め、それからもう一度口を開いた。
「そ、それは、正規の手続きを経た支出であり……商会との契約に基づいて……」
「ふむ。その商会の登記住所は、十年前の戦災で消失した廃村のようですが――」
財務卿が、書類の一枚を卓上に滑らせた。子爵の顔から、最後の血の気が引いていく。
「さらに、その代表者の署名について――」
ここで、ヴァレリアが微かに顎を引いた。
それは部外者には気づけないほど小さな動作だった。けれど私には、それが何を意味するか分かっていた。
許可。
いいえ、正確には『命令』。閣下は私に、この場で声を発することをお許しになった。
私は一歩前に踏み出した。
「恐れ入ります。閣下の名代として、口を挟む無礼をお許しください」
まず閣下に深く一礼する。筆頭侍女が審問の場で発言すること自体が異例だ。広間のあちこちで、小さなざわめきが起きる。
しかし誰も、それを制止しなかった。ここにいる全員が知っている。ヴァレリアの侍女が口を開くとき、それは閣下の意思の延長なのだと。
「財務卿のお調べの通り、その商会代表者の署名は、子爵の先代当主の筆跡を模倣したものでした。先代は十二年前に他界されておりますので、これは死者の名を騙った偽造ということになります」
私は声を落とさず、しかし抑えた調子で続けた。演壇に立つ弁士ではない。あくまで閣下の言葉を代弁する侍女として。
「十年にわたる工作を、単なる間違いとして処理することは、この国の法と、それを守ってきた諸侯の方々への冒涜に当たるのではないかと、閣下は懸念しておいでです」
最後の一文で、私は責任の所在を閣下に返した。私個人の断罪ではない。ヴァレリアの懸念の代弁。その形式を崩してはならない。
「何を言う!? で、出鱈目だ!」
子爵が立ち上がった。椅子が派手な音を立てて倒れる。
「これは陰謀だ! だ、誰かが私を陥れようとしている……こんな書類、いくらでも捏造できるじゃないかっ!!」
その声は高く、切迫していた。政治家としての矜持などもはやどこにもなく、ただの追い詰められた獣の叫びだった。
審問官たちは表情を変えない。彼らが知りたいのは真実ではなく、この男がどれほど見苦しく足掻くかだ。それによって、自分たちの『正義』の見栄えが決まるのだから。
財務卿が淡々と追加の書類を提示し、子爵の弁明を一つずつ潰していく。私はもう発言しなかった。必要がなかった。歯車はとうに回り始めている。あとは、仕掛けた通りに落ちるだけだ。
最後に子爵が何か叫んだ。それが嘆願だったのか呪詛だったのか、私には判別がつかない。衛兵に両腕を掴まれ、引きずり出されていく子爵の背中を、沈黙のまま見送った。
その沈黙の端で、一人だけ、立ち尽くしている者がいる。
クラリス。子爵の娘にして、ルシアンの婚約者だった少女。
彼女は泣いてはいなかった。泣き方すら分からないのだろう。頬は白く、唇は薄く開いたまま、ただ父親が消えていった扉を見つめていた。彼女の隣には誰もいなかった。ほんの半時前まで愛想よく話しかけていた令嬢たちは、もう一人として彼女の側に残っていない。
無垢な少女が、政治の盤面に取り残されている。
私はその光景を、一瞬だけ見つめた。帳簿であれば消せる。けれどあの白い頬には、悲しみすらまだ届いていなかった。それはいずれ届く。私の筆では止められない速さで。
私は胸の中に渦巻く感情を吐き出すように、深く、だが静かに息をついた。
◆◇◆
婚礼の完全なる中止が決定したその夜。
公爵邸の北塔は、窓から差す月明かりだけが唯一の光源だった。
ルシアンの居室の扉を叩いたとき、返事はなかった。
けれど鍵は開いていた。
私は音もなく中に入り、扉を背にして立つ。
ルシアンは窓際の椅子に座っていた。膝の上に両手を置き、月の光に照らされたその横顔は、美しく、そしてひどく空虚だった。
卓の上には、私が事前に用意させておいた最高級のワイン。手は付けられていない。
「……来たんだね、エリシア」
ルシアンの声は、掠れていた。こちらを見ない。窓の外の、どこでもない一点を見つめている。
「はい」
「君がやったんだろう?」
問いではなかった。確認ですらなかった。ただ、知っている事実を声に出しただけの、疲弊しきった男の独白。
「ローゼンタールの不正を掘り起こしたのは君だ。書類を揃え、財務卿に渡し、審問会の根回しをした……違うかい?」
「おっしゃる通りです」
否定する理由がなかった。この男の前で嘘をつく意味は、もうない。
「クラリスは……」
ルシアンの声が、そこで一度途切れた。
「クラリスは、何も知らなかった。父親の不正も、僕との婚礼が政治の道具だったことも……あの子は、ただ僕を慕っていただけだ」
「ええ。存じております」
「それを知っていて、壊したのかい?」
「壊したのではありません。ルシアン様」
私は、一歩だけ彼に近づいた。
「あの婚礼が成立していれば、貴方はローゼンタール家という泥船に縛り付けられていました。子爵の不正が露見するのは時間の問題でしたもの。遅いか早いかの違い。そして遅ければ遅いほど、貴方の名にも泥がつく……私は、それを許せなかっただけです」
「……許せなかった?」
ルシアンが、初めてこちらを見た。
その目に宿っていたのは、怒りだと思った。
しかし違った。
怒りたいのに、怒れない人間の目。
「……ふふっ。君を責める資格が、僕にあるのかな」
ルシアンは自分の掌を見下ろした。長い指。魔術の才に恵まれた、繊細な指。
「僕が君に政治を教えた。駆け引きを教えた。人の心の読み方を教えた……君が今、こういう人間になっているのは、僕のせいだ。僕が作ったんだ、この……」
言葉が途切れる。怪物と言おうとして、言えなかったのだ。
自分が育てた少女を、怪物と呼ぶことの意味を、彼は分かっていた。それは同時に、自分自身を怪物の親と認めることだから。
「僕は君を救いたかった。この泥沼から、もっとまともな場所に連れ出したかった……なのに、気がついたら」
「気がついたら、泥沼の方が深くなっていた、と?」
私が先回りして言うと、ルシアンは苦笑した。それは笑顔ではなく、笑うしかない人間の顔だった。
「そうだね。僕は、自分の無力さに酔ってたのかもしれない。君を教育することで、何か意味のあることをしている気になって……でも本当は、君をこの場所に繋ぎ止めていただけだった」
沈黙が落ちる。
月の光が、ルシアンの睫毛の影を頬に落としていた。
私は、その沈黙の中で、自分の胸の内側を探った。勝利の快感があるはずだった。計画通りに事が運び、障害は排除され、この男は行き場を失った。完璧な結末。
なのに、快感の手触りが、どこか曖昧だった。
思い描いていたよりも、ルシアンが壊れ方を知っている人間だったからかもしれない。暴れもせず、泣き叫びもせず、ただ静かに自分の罪を数えている。その姿は、私の計算の中にはなかった。
「エリシア」
「はい」
「僕は、もう逃げないよ」
ルシアンの声は低く、穏やかだった。嵐の後の凪のような声。
「君から逃げても、意味がない。君がやったことは正しい。ローゼンタールは確かに腐っていた。クラリスとの婚礼を断らなかった僕も愚かだった……だから、僕は君の決定を受け入れる」
それは従属の宣言ではなかった。
もっと厄介なものだった。
諦念と、自責と、そしてどこか透明な覚悟が入り混じった、壊れかけた男の降伏。
「ただ、一つだけ聞かせてくれないかな」
「何でしょう」
「君は満足しているかい?」
その問いが、不意に私の喉を刺した。
満足。そう、満足しているはずだ。全て計画通りだ。ローゼンタール家は失脚し、婚礼は潰れ、ルシアンは私の掌中に戻った。
なのに、ルシアンの目を見ていると、はいと即答できない自分がいた。
彼の目には、もう何の期待も宿っていなかった。
怒りも。情熱も。あの夜、私に文字を教えてくれたときの、静かな熱も。
全部、消えていた。
私は、微笑を作った。完璧な、侍女の微笑を。
「満足かどうかは、まだ分かりませんわ。ルシアン様」
本音だった。
こんな場面で本音が零れることに、私自身が驚いていた。
「ただ、一つだけ確かなことがございます。明日の朝には、関係各家への書状を用意していただきたく存じます。貴方はローゼンタールの不正を知らなかった被害者。その筋書きを崩さないことが、今の貴方にできる最善ですから」
仕事の話に切り替えた瞬間、私の声は元の冷淡さを取り戻した。
ルシアンは小さく頷いた。その仕草に、抵抗の気配はなかった。ただ、従順でもなかった。ただ――疲れていた。
「分かったよ」
「おやすみなさいませ、ルシアン様」
私は一礼し、踵を返した。
扉を閉め、廊下に出た瞬間、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
興奮ではない。寒さでもない。
ルシアンの目から光が消えた瞬間の映像が、網膜に焼きついて離れなかった。
婚礼潰しは、成功した。
ローゼンタール家は失脚し、ルシアンの足枷は外れた。全て、私の計画通りだ。
廊下を歩きながら、私は自分に言い聞かせていた。
これは正しい手順だった。閣下の盤面を守りながら、ルシアンを不利な縁談から切り離す。私として、これ以上ない成果のはずだ。
……なのに。
あの男の諦めきった目が、私の計算を狂わせる。
壊れてほしかったのではない。屈してほしかったのでもない。では、私は何を望んでいたのか。
その答えが出ないまま、私は執務室への扉を開けた。
窓の外、王都の夜景は冷たく澄んでいた。
ローゼンタール家の邸宅があった方角には、もう明かりが見えない。
私は机に向かい、明日の閣下への報告書の文面を頭の中で組み立て始めた。
仕事をしている間だけは、ルシアンの目のことを考えなくて済む。
そう思いたかった。
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