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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第3幕 あなたは私だわ

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21. 私の駒が盤を降りる

 私の駒が、私の許可なく盤を降りる。


 それだけは、許さない。


 ルシアンとクラリスの婚礼発表から数日。王都の社交界は、この『完璧な政略』の話題で持ちきりだった。魔術師兵団を統べるローゼンタール家と、ヴァリエール公爵家の諮問役であるルシアンの結びつき。それは、ヴァレリアの権力をさらに強固なものにするための、非の打ち所がない補強材に見えた。


 けれど、私の胸の奥に(おり)のように溜まった黒い感情は、一刻も早くこの偽りの調和を切り裂けと、私を()かし続けていた。


 これは嫉妬ではない。ましてや、ルシアンへの未練などではない……そう、自分に言い聞かせる。


 私が耐えられないのは、私が選び、私の傍に置き、私の盤面に組み込んだ男が他人の手に渡り、別の人生を歩み始めるという、その無秩序だ。


(……駒が勝手に別の列に並ぶなど、盤の管理者として看過できない。ただ、それだけのこと)


 私は、深夜の公爵邸の図書室にいた。


 紙とインクの匂いが充満する空間。かつての私にとっては、知識を静かに積み上げるための聖域だった。だが今の私にとって、ここは違う目的を持つ場所になっている。


 私は、王国の全貴族の血筋、資産、そして隠された醜聞を網羅した『闇の索引』を、自らの脳内に構築し始めていた。


「……ローゼンタール子爵家。表向きは魔術師兵団への資材供給と、国境守備の要」


 私は燭台の灯りの下で、子爵家が過去十年に王宮へ提出した財務報告書の写しを広げた。


 本来、こうした書類に侍女が触れることはできない。だが、ヴァレリアの文書庫への出入り権限は、筆頭侍女である私に与えられている。ヴァレリアが意図して与えたのか、単に管理の都合なのかは分からない。けれど今の私には、それで十分だった。


 数字の羅列を目で追いながら、私はルシアンの声を思い出す。


『エリシア、財務書類は文章を読むな。数字の流れだけを見ろ。人は言葉では巧みに嘘をつけるが、帳簿の辻褄を完璧に合わせ続けることは、どんな知恵者にも難しい』


 あの頃、ルシアンは私の教師だった。暗号解読の基礎、論理の組み立て方、数字の裏に隠れた意図の読み方。


 かつて私は、羊皮紙の劣化具合や筆圧の揺れから写本の年代を推定した。文献の嘘を見抜く目。ルシアンが磨いてくれたのは、まさにその目だった。


 そして今、私は同じ目で帳簿を読んでいる。数字の歪みから、人の嘘を。


 文献を読む力と、人の弱みを読む力は、同じ筋肉だ。違うのは、刃を向ける先だけ。ルシアンはそのことを知っていて教えたのか、それとも――


 考えるまでもない。彼が惜しみなく注いでくれた知識の全てが、今この瞬間、彼自身の婚礼を壊すための刃に変わろうとしている。


 その皮肉に、私は薄く笑った。


 笑えている自分に、何の疑問も湧かなかった。



 数字は嘘をつかない。


 だが、嘘を隠すために数字は使われる。



 ルシアンの教えどおり、私はまず各年度の支出総額だけを並べた。七年前から五年前までは、緩やかな右肩上がり。子爵家の家勢拡大に見合った、自然な増加だ。


 だが、四年前を境に、数字の動きが変わる。


 支出総額そのものは大きく跳ねていないのに、個別の項目を見ると、特定の商会への発注額だけが不自然に膨らんでいた。


 パトレア商会、ヴェルディ運送、北嶺資材――


 名前に見覚えはない。だが、三つの商会の所在地が全て国境付近の同じ街区に集中していることに、私は気づいた。


「……同じ街区に、同じ時期に設立された三つの商会。そして三つとも、ローゼンタール家以外との取引記録がない」


 実体のない商会だ。金を通すためだけに作られた、紙の上にしか存在しない器。


 私が目星をつけたのは、三年前の大飢饉の際に行われた魔導障壁の緊急整備に関する支出記録だった。飢饉で国庫が逼迫(ひっぱく)する中、この整備費だけが桁違いに計上されている。そして、その大半がこの三つの商会を経由して支払われていた。


 数万枚の金貨が、実体のない商会を通じて洗浄された形跡。それは証拠と呼ぶにはまだ薄いが、本格的に調べれば、必ず綻びが見つかる種類の違和感だった。


「……見つけたわ。ローゼンタール卿……貴方の誠実さという仮面の、糸の継ぎ目を」


 私は報告書の該当箇所に付箋を挟み、商会の名称と設立年を手帳に書き写した。


 まだ、これだけでは弾にはならない。けれど、火薬の在り処は掴んだ。あとは、どこに、いつ、どれだけの量を詰めるかを決めるだけだ。




   ◆◇◆




 翌日の昼下がり。私はヴァレリアの許可を得て、王都の高級ティーサロンへと足を運んだ。


 表向きの用件は、ヴァレリアからクラリス嬢への婚礼祝いを届けること。銀の小箱に収められた、氷花石(ひょうかせき)の髪飾り。ヴァリエール公爵家の名にふさわしい、申し分のない贈り物だ。


 だが、私の本当の目的は別にある。


 ローゼンタール家の内情を、花嫁本人の口から、さりげなく引き出すこと――


 サロンの奥の席に、クラリス・フォン・ローゼンタールは友人たちに囲まれて座っていた。


「あら、エリシア嬢! 閣下の筆頭侍女様がこのような場所にお越しいただけるなんて」


 クラリスが、花が咲くような無垢な微笑みを持って私を迎えた。


 その瞳には一欠片の濁りもない。自分の父がどのような帳簿を残し、自分がどのような政治的均衡の上に立たされているのか、微塵も気づいていない。


 その無知が、私には眩しかった。苛立たしいほどに。


「お久しぶりですわ、クラリス様。ルシアン様との婚儀、心よりお慶び申し上げます。今日は、閣下からの祝いの品をお届けに参りました」


 私が銀の小箱を差し出すと、クラリスは両手で受け取り、蓋を開けた。氷花石の青い輝きが、午後の陽射しを受けて彼女の頬を淡く染める。


 周囲の令嬢たちが「まあ、素敵!」「流石は公爵家ですわ」と声を上げた。


「ああ、なんて美しい……! 閣下にくれぐれもお礼をお伝えくださいませ、エリシア嬢」


「承知しました。閣下もお喜びになります。こちらのお品、閣下が式のお支度にお使いいただけるよう、お色をお選びくださったものなのですよ」


 贈り物の話題を一手だけ延ばす。それだけで十分だった。


「まあ! 閣下がそこまで……」クラリスが目を輝かせ、それに応じるように隣の令嬢が「お式の準備は順調ですの?」と身を乗り出した。


 私が聞くまでもなかった。花嫁の周囲に座る令嬢たちは、聞いてほしいことを聞いてほしい相手がいれば、勝手に糸を紡いでくれる。


「ええ、父がこのところ北方への出張が多くて……」


 クラリスは屈託なく答える。


「それで式の準備も、ほとんど母と私で進めているんですのよ。でも、ルシアン様がとても頼りになってくださるので――」


 北方への出張。国境付近。あの商会群のある街区。


 点が、静かに線になろうとしていた。私は表情を変えずに紅茶のカップを口元へ運んだ。


 人の言葉から、語られていない真実を読む。それもまた、文献の行間を読む技術と同じだ。クラリスの何気ない一言から父親の行動範囲を割り出す私は、古い写本の余白に隠された訂正痕を見つけるときと、まったく同じ集中力を使っている。


 ルシアンが私に与えてくれた学問の目を、私は今、彼の婚約者に向けている。その事実に、胸は痛まなかった。痛まないことの意味を、私は考えないことにした。


「ルシアン様は昔からお優しい方ですものね……頼りにされているでしょう」


「はい……ただ」


 クラリスが、一瞬だけ視線を落とした。


「少しだけ、寂しそうな目をされることがあるんです……先日も仰っていました。『彼女は、僕が求めていたよりも遥かに高い場所へ行ってしまった』と」


 呼吸が、一拍止まった。


「……彼女、というのは?」


「さあ……私にはわかりません。もしかしたら、閣下のことかと思っているのですが――」


 クラリスの、悪意のない純粋な言葉だった。


 彼女は何も知らない。自分が語っている「彼女」が目の前にいて、自分の家を崩す算段を練っていることを。


 ルシアン。貴方は、そんな目をしながら、別の女の隣に立とうとしているの?


 私を『救おう』とした貴方が、今度は別の穏やかな日常に逃げ込もうとしているの?


 カップを持つ指先が、微かに震えた。


 それが怒りなのか、それとも別の何かなのか、私には判別がつかなかった。判別をつけるつもりもなかった。


(……いいえ。逃げ場など、どこにも作らせない。貴方にも、この無垢な花嫁にも)


「クラリス様。ルシアン様をどうか大切になさってくださいね。あの方は、とてもお優しい方ですから」


 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


 その穏やかさの下で、私の中の何かが、冷たく、確実に固まっていくのを感じていた。




 ティーサロンを後にした私は、公爵邸への帰路を歩きながら頭の中で盤面を整理する。


 手元にあるのは、ローゼンタール子爵家の財務上の不審点。まだ疑惑の段階だが、正しい場所に正しい形で差し出せば、王宮の監査機関を動かすには十分な端緒になる。


 だが、それだけでは足りない。法の力で家門を揺さぶるだけでは、婚礼は延期されこそすれ、中止にはならない。ルシアンは義理堅い男だ。むしろ窮地のクラリスを見捨てまいとして、より強く結びつく可能性すらある。


 もう一つ、別の力が必要だった。当事者の心を内側から蝕む力。疑念という名の、目に見えない毒。


 ふと、ルシアンの声が蘇る。まだ私たちが『教師と生徒』だった頃、彼が冗談めかして教えてくれた、王都の裏側の地図。


『もし僕がいなくなったら、困ったときはここを使え。時計通りの奥にある、文字盤に(さそり)の紋が入った店だ』


 当時は意味が分からなかった。今なら分かる。あれは、王宮内の情報が非公式に売り買いされる中継地だ。ルシアンは、あの頃から私にこうした『万が一の道具』を渡していたのだ。私を守るために。


 そして今、私はその道具を、彼自身に向けて使おうとしている。


 足が止まらない。止まらないことに、気づいてすらいない。ルシアンが私に読み方を教え、ルシアンが私に道具を渡し、そのすべてを私はルシアンに向けて振り下ろそうとしている。師の技で師を討つ。その構図の残酷さを、私は頭では理解していた。理解した上で、胸のどこにも引っかからなかった。


 それが何を意味するのか――今の私には、問う余裕も、問う気もなかった。


 私は手帳を開き、新しい項目を書き加えた。


「クラリス嬢に関する風聞の種を用意すること。内容――平民との交際歴の偽造。実行時期――未定」


 書き終えた文字を見つめる。自分の筆跡が、いつもより少しだけ硬いことに気づいた。


 二つの刃を、私は同時に()いでいる。一つは、家門の不正を暴く刃。もう一つは、花嫁の純潔を疑わせる刃。どちらも、まだ鞘の中にある。けれど、鞘から抜くときは同時だ。片方だけでは、ルシアンという男は折れない。


 そうして公爵邸に戻ると、ヴァレリアの執務室に灯りが点いていた。


 私は紅茶の支度を整え、静かに扉を叩く。


「……あら、戻ったのね、エリシア。クラリス嬢は喜んでいた?」


「はい。氷花石の髪飾り、大変お気に召されたようでございます。閣下のお心遣いに感激されておいででした」


「そう……それで?」


 ヴァレリアが、手にした書類から目を上げずに言った。


「それで?」の一語に、全てが込められている。この方は、私がただ贈り物を届けるだけのために、わざわざ外出の許可を求めたとは思っていない。


「……ローゼンタール子爵は、最近北方への出張が多いようでございます。婚礼の準備もほとんどご息女とご母堂に任せきりだと」


「北方、ね……あの辺りは最近、妙な金の流れがあるという話を、私も耳にしたわ」


 ヴァレリアの言葉に、私の背筋がわずかに伸びた。


 ヴァレリアは、既に掴んでいるのだ。少なくとも、匂いは嗅ぎ取っている。


「……閣下。私にもう少しだけ、お時間をいただけますか。確かなものが揃いましたら、改めてご報告いたします」


「ふふ……いいわよ。ただし――」


 ヴァレリアが、初めて顔を上げた。


 その碧眼が、燭台の灯りを受けて、冷たい琥珀のように光る。


「火を点けるのは構わない。けれど、自分まで焼くことは許さないわ……貴女は、私の『道具』ですもの」


「心得ております、閣下」


 私は静かに頭を下げた。


 閣下。貴女が私を『道具』と呼ぶなら、この道具は貴女の意のままに動きましょう。


 ただし、その刃がどこを向いているかまでは、道具にお尋ねにならないでくださいませ。


 執務室を辞した廊下で、私は自分の手を見つめた。


 まだ何も汚れてはいない。まだ、誰も傷つけてはいない。


 けれど、指の間には既に、見えない糸が絡みついている。


 婚礼潰しの仕込みは、整い始めた。


 あとは、王都の静寂の中で、火薬が乾くのを待つだけだ。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「婚礼は私が壊しました」

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