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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第3幕 あなたは私だわ

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20/23

20. 婚礼発表

 朝の光は、公爵邸の回廊を白く、残酷なほど鮮明に照らし出していた。


 私はいつも通り、一分の隙もない侍女服を纏い、ヴァレリアの朝食の席に控えていた。ルシアンとの決別から一夜。私の心は、凍てついた湖面のように静まり返っているはずだった。彼を拒絶し、救済という名の安らぎを捨てたことで、私の『最強の淑女』としての武装は完成した。そう、自分に言い聞かせていた。


 だが、その日のヴァレリアは、いつもとは違う温度の沈黙を纏っていた。


 銀のフォークを皿に置き、ナプキンで優雅に口元を拭うと、窓の外を眺めながら、まるで今日の天気でも語るような軽やかさで、口を開いた。


「エリシア。ルシアンの婚儀が決まったわ」


 言葉の意味が、すぐには形を結ばなかった。


 婚儀。


 ルシアンの――?


 私の手の中で、銀のトレイがかすかに鳴った。ほんのわずかな金属音だったのに、静まり返った食堂では不敬な悲鳴のように響いた気がした。


 慌ててトレイを握り直す。だが遅い。


 私は咄嗟に背筋を正し、呼吸を整えた。肩の力を抜き、顎を引き、視線を床の一点に固定する。


 侍女として何百回と繰り返してきた所作だ。感情を殺すのではなく、感情が存在しないかのように身体を制御する技術。ルシアンが私に叩き込んだ、最初の教えだった。


 皮肉だ、と思った。あの人から学んだ技で、あの人の名前に動揺する自分を隠している。


 だが、動揺の正体は、名前そのものではなかった。


 なぜ、私はこの手を読めなかったのか。


 遺跡調査の功績。隣国との緊張。ローゼンタール子爵家の兵力。すべての駒は盤上に出ていたはずだ。なのに私は、ルシアンの処遇という一手を完全に見落としていた。


 ヴァレリアは聞き逃さなかった。


 もちろん、見逃しもしなかった。


 その紫水晶の瞳が、私の顔から指先へ、指先からまた顔へと、ゆっくり撫でるように往復する。まるで、どこまで壊せば私が割れるのか、確かめているみたいに。


 私は表情を動かさなかった。動かさないことに、全神経を注いだ。


「……婚儀、でございますか」


「ええ。相手はローゼンタール子爵家の次女、クラリス。隣国との緊張が続く今、国内の魔術師兵団を統括する子爵家との結びつきを強める必要があるの。ルシアンの能力と家門の格を考えれば、これ以上ない政略結婚だわ」


 政略。その一語が、昨夜の出来事を完全に上書きしていく。


 あの激しい告白も、共に逃げようという懇願も、一晩で家門と外交の都合に回収され、なかったことにされる。これが貴族社会というものだと、頭では理解している。


 理解しているはずなのに、胸の底で別の声がする。


 読めなかった。閣下の盤面で、私の視界の外で、駒が動いていた。


「彼は先日の遺跡調査で多大な功績を挙げた。これはその『恩賞』でもあるの」


 ヴァレリアは、私の顔をじっと覗き込んだ。


「どうしたの、エリシア? まるで幽霊でも見たような顔をして」


 昨夜のことを、知っているのではないか。


 一瞬、背筋を冷たいものが走った。


 あの庭園での会話を、閣下の耳に入れた者がいたとしたら。いや、ヴァレリアほどの方であれば、報告などなくとも察しているかもしれない。


 だが今、その疑念を顔に出すわけにはいかなかった。


「いえ。驚きました。ルシアン様が、そのような俗世の儀礼を受け入れるとは思いませんでしたので」


 震える声を無理やり平坦に保ち、恭しく頭を下げた。


「……そう。あなたはルシアンのことをよく知っているものね」


 その言い方が、単なる事実の確認なのか、それとも昨夜の庭園を暗示しているのか、判別がつかなかった。


 ヴァレリアはいつもそうだ。刃物を見せずに切りつける。切られた方が、自分で傷口を探さなければならない。


 ヴァレリアは微かに目を細め、それ以上は何も言わなかった。


 追及しないのではない。追及する必要がないのだ。私の動揺を見届けた、それだけで十分だという顔をしていた。


 私は、朝食の残りの時間を、完璧な侍女として過ごした。


 茶器を下げ、ナプキンを畳み、閣下の椅子を引く。一つ一つの所作に集中することで、頭の中で暴れ回る言葉を押さえ込んだ。


 婚儀。ルシアンの婚儀。


 その六文字が、退けても退けても戻ってくる。


 だが、それ以上に退かないのは、もっと苛立たしい問いの方だった。


 いつ決まった。どの段階で話が動いた。なぜ私の耳に、かすりもしなかった。




 ◆◇◆




 正午。公爵邸の大広間にて、正式な婚約発表の儀が行われた。


 高い天井から吊られた魔石灯が白い光を降らせ、磨き上げられた大理石の床には貴族たちの正装が色とりどりに映り込んでいる。


 壁際には季節の花が惜しみなく活けられ、空気そのものが祝祭の甘さに染まっていた。


 集まった貴族たちの顔は、押し並べて穏やかだった。公爵家に連なる優秀な魔術師と、魔術師兵団を統括する子爵家の結びつき。政略としてこれほど美しい組み合わせはそうない。


 ルシアンは、その場の中心に立っていた。


 正装の白い礼服が、彼の長身によく映えている。だが、その瞳は虚ろだった。床の一点を見つめたまま、まるで魂を抜き取られた人形のように、ただ立っている。


 司祭が祝詞を読み上げ、二つの家門の紋章が並んだ婚約書が壇上に広げられた。


 ルシアンは促されるまま署名した。羽根ペンを持つ手に迷いはなかったが、力もなかった。そこに意志はない。ただ命じられた動作を、正確に遂行しているだけだった。


 隣にはクラリス・フォン・ローゼンタールが、恥じらうような微笑みを浮かべて控えていた。


 小柄で、淡い金の髪が柔らかく肩にかかっている。可憐だが、それだけの少女に見えた。


 ――と、そう思いかけたとき、彼女がルシアンの手を取った。


 その指の添え方がやけに丁寧で、慣れていて、まるで壊れ物に触れるように優しかった。


 何でもないことだ。婚約者として当然の所作だ。


 なのに、その指が触れた瞬間、私の視界がわずかに歪んだ。


「おめでとうございます、ルシアン様」


 私は、ヴァレリアの影として、彼の前に立った。


 周囲の貴族たちは私を筆頭侍女として敬意を持って迎えるが、今の私には彼らの視線など意識の片隅にも残っていない。


 ルシアンが、ゆっくりと顔を上げた。


 私たちの視線が、数秒間、交差する。


 その瞳に宿っていたのは、昨夜の情熱ではない。すべてを諦め、自分という存在をヴァレリアの盤上に差し出した、死者のような無感情だった。


 『君に拒絶された僕に、もう価値はない』


 彼の沈黙が、そう語っているように感じられた。


「……ありがとう、エリシア。君に祝われるとは、思ってもみなかったよ」


 ルシアンの声は冷たく、かつて私に注いでくれた熱の残滓すら感じられなかった。


 昨夜、あの声は震えていた。私の名前を呼ぶたびに掠れて、祈りのように。それと同じ喉から出ているとは思えないほど、今の声は乾いている。


 彼は私の前を通り過ぎ、婚約者であるクラリスの手を取った。


 その動作が流れるように優雅で、儀礼として完璧であるほど、私の胸を刺すものがあった。


 すれ違いざま、ルシアンの袖から微かに白檀の香りがした。


 あの人はいつも、書斎に籠もるとこの香を焚いていた。その匂いを知っているのは、たぶんこの広間で私だけだった。


 そんなことを、こんなときに思い出す自分が忌々しかった。


 祝福の拍手が満ちるたびに、胸の奥で何かが削れていく。


 喜ばしいことのはずだった。


 政略としては理にかなっている。閣下の布陣としても美しい。何一つ、非の打ち所がない。


 なのに、あの女がルシアンの隣で微笑むたびに、喉の奥から黒いものがせり上がってくる。




 嫉妬?


 違う。


 愛?


 認められるはずがない。




 違う、と私は繰り返した。


 だが否定すればするほど、別の問いが浮かんでくる。


 ルシアンは、私の師だった。私を侍女として磨き、私の前でだけ弱さを晒し、私にだけ醜い本音を見せた人だった。


 それが今、私の知らない顔で、他の女のための花婿になろうとしている。


 あの柔らかい金髪の少女の隣に立って、まるで私など最初からいなかったかのように。


 クラリスが何かを囁き、ルシアンがわずかに頷いた。


 二人の間に流れた空気は、まだぎこちないが、少なくとも敵意はない。時間が経てば馴染むだろう。やがて情も芽生えるかもしれない。


 その想像が、不思議なほど鮮明に描けた。そして、鮮明に描けるたびに、胸の底が焦げるように痛んだ。


 なぜ私に知らせなかった。


 その問いが喉元まで上がってきて、私は自分に愕然とした。


 違う。知らされる立場になどいない。私は侍女だ。閣下の影だ。家門の婚姻政策に口を挟む権限など、最初から与えられていない。


 わかっている。わかっているのに、問いが消えない。


 筆頭侍女として閣下の盤面を読み、先回りし、布石を整えることが私の仕事だった。その盤面の上で、私の知らないところで最大級の駒が動いていた。


 私は、あの人を愛してなどいない。


 これは恋慕ではなく、配置の問題だ。


 私の手で磨いたものが、私の許可なく、別の場所に据えられた。それだけのことだ。


 所有権の侵害。支配の序列が乱された、それだけの不快感だ。


 そう結論づけた。


 結論づけたはずなのに、視線がルシアンとクラリスの繋がれた手から離せなかった。


 自分の呼吸がひどく浅くなっていることに気がついた。


 私は、ヴァレリアの背後に戻り、彼女の肩越しに二人の姿を見つめた。


 閣下は満足げに彼らを眺め、時折、私の方へ勝ち誇ったような、あるいは慈悲深い笑みを向けてくる。


(これは――罰なのだろうか)


 ヴァレリアは、私とルシアンの間にある何かに気づいていたのかもしれない。


 だからこそ、彼を別の家門へ縛り付け、私から引き剥がした。


 あるいは、そんなものは私の思い上がりで、閣下は純粋に政略としてこの縁組を選んだだけなのかもしれない。


 どちらが真実かはわからない。


 だが、どちらであっても、結果は同じだった。お前は私の影でしかないと、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられていることに変わりはない。


 私は、背中の後ろで両手を組み、きつく握りしめた。


 手袋の下で、爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。



 ルシアン。


 貴方は、私に愛を乞いましたね。


 私はそれを退けた。


 ならばもう、貴方が誰の隣に立とうと、私には何の関わりもないはずだ。



 なのに、この手は震えている。


 恋ではない。断じて。


 しかし、私の駒が私の許可なく幸福になることも、不幸になることも、認めるつもりはなかった。


 胸の奥で、以前とは違う、もっと暗く、粘り気のある野心が灯った。


「――閣下。素晴らしいご縁組でございますね」


 私は、ヴァレリアに歩み寄り、冷徹な微笑を浮かべて耳打ちした。


「ですが、ローゼンタール家。あそこには少しばかり、不穏な噂がございます。この婚礼が、閣下の覇道に真に資するものかどうか、私が今一度『鑑定』させていただいてもよろしいでしょうか?」


 ヴァレリアは、面白そうに眉を上げた。


「あら。私が整えた盤面を崩そうというの? エリシア、あなたのその『独占欲』、隠せていないのではないかしら」


「滅相もございません。私はただ、閣下の所有物が、不当に安売りされるのを防ぎたいだけでございます」


 ヴァレリアの唇が、薄く弧を描く。


 許可とも黙認とも取れる笑みだった。


 閣下もまた、私の中の何かが壊れかけていることを愉しんでいるのだろう。壊れた先に何が出てくるのか、見届けるつもりなのだ。


 構わない。利用されるなら、その期待ごと利用し返すまでだ。


 私は、祭壇の方へ去っていくルシアンの背中を見つめた。


 白い礼服が、祝福の花弁の中に遠ざかっていく。


 華やかな拍手の中で、私はすでにローゼンタール家の財務と人脈を頭の中で洗い始めていた。子爵家の次女が、なぜこれほど都合よくこの時期に差し出されたのか。婚約の裏にある力学を解体すれば、綻びの一つや二つは必ず見つかる。


 自分の傷を、分析せずにはいられない。


 その分析が、そのまま破壊計画の設計図に変わっていくことの異常さに、私はまだ気づいていなかった。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「私の駒が盤を降りる」

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