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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第1幕 憧れは屈辱から始まる

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2. 踏み台にするつもりでした

 公爵邸での初日は、肺の奥が凍りつくような朝霧の中から始まった。


 ヴァレリア閣下の邸宅は、私が今まで見てきたどの建物とも異なっている。


 王宮が『見せしめのための贅沢』を積み上げた場所だとするなら、このヴァリエール公爵邸は『冷徹な機能美』を研ぎ澄ませた場所だ。


 庭園の木々は一分の狂いもなく剪定され、廊下の隅々まで磨き上げられた大理石は、歩く者の姿を鏡のように映し出す。行き交う使用人たちは、まるで精密な時計の歯車のように、無駄のない動きで己の役割をこなしていた。そこには貴族の屋敷特有の、ゆったりとした弛緩など微塵も存在しない。


 ヴァリエール公爵家の推薦状。それは単なる紙切れではない。あの署名は、帝国学士院の審査官が「門を開けるに値する」と判断する、たった三つの家門の一つに属する。どんなに優秀な論文を書こうと、平民には学士院の門を叩く資格すらない。だが、あの女の署名があれば話は別だ。


「聞き逃したことはないかしら。エリシア」


 教育係の年配侍女、マルタが足を止める。彼女の背筋は定規でも入っているかのように真っ直ぐで、その声には新入りを歓迎するような温かみは一切なかった。


「今日からあなたの仕事は、閣下の書斎の管理、および私的な通信の整理よ。本来、平民上がりに任せる仕事ではないけれど……閣下のご意向です。失敗すれば、あなたの代わりはいくらでもいることを忘れないように」


 普通、侍女の初仕事といえば、銀食器の曇りを除いたり、リネンを寸分の狂いなく畳むといった雑務から始まるものだ。


 だが、ヴァレリアは私の履歴――そこに書き連ねた古文書学の知識や、王立図書館での整理実績――を、即座に実務へと投入する判断を下したらしい。


 廊下を歩きながら、すれ違う侍女が二人、こちらに視線を向けた。


 目が合ったわけではない。彼女たちは私の顔ではなく、マルタの隣を歩く私の立ち位置を見ていたようだ。平民が書斎担当。その事実だけで、視線の温度は十分に読み取れる。


 一人が唇の端を微かに動かし、もう一人がそれに小さく頷いた。声は出さない。この邸では、嘲笑すら無駄口と見なされるのだろう。


 と、廊下の突き当たり、柱の陰に、もう一つ視線があった。


 侍女たちのそれとは質が違う。嘲りでも好奇でもない。ただ静かに、こちらの輪郭を測るような目だった。背の高い青年の影。だが、マルタが角を曲がると同時に、その姿は柱の向こうへ消えた。


 何者かしら。使用人か、それとも……嘲りでも警戒でもない。あの目は、私を()()()いた。私と同類の目だ。


 気にはなったが、今は深追いする場面ではない。


 ――今は構わない。


 彼女たちがどう思おうと、私にとっては分類すべき情報が一つ増えただけだ。誰が誰に目配せし、どの侍女がどの派閥に属するのか。すべて記録する。推薦状を引き出す日、障害になる駒と、味方に引き込める駒を、今のうちに仕分けておかなければ。史料を読むように人間を読む。それが、私の生き方だから。


「……承知いたしました。ご期待に沿えるよう、私の持てるすべてを尽くさせていただきます」


 私は深く、淑女の所作をなぞった礼を返した。


 視線を落としたまま、私は内心で笑みを浮かべる。


(ふん、結構なことだわ。銀食器を磨く時間を省いて、閣下の心臓部に触れさせてくれるなんて)


 書斎の管理。これほど私の目的に適った仕事はない。


 ヴァレリアがどのような人物と文通し、どのような経済政策に関心を持ち、どのような権力構造を構築しているのか。書斎の並びを見れば、彼女の思考回路をそのまま模写できる。


 何より、推薦状を書かせるための弱みや、彼女が喉から手が出るほど欲しがる対価を見つける絶好の機会だ。


 案内された書斎は、図書館の地下資料室にも劣らぬ広さだった。だが私の目が真っ先に捉えたのは広さではない。あの女の署名入り書簡が、何通、どこに保管されているか。それだけだ。


 壁を埋め尽くす書架には、法学、経済学、魔導工学、そして隣国の最新の政治情勢に至るまで、血の通った()としての知識が並んでいる。飾りの百科事典など一冊もない。ここにあるのは、すべて使うための書物だ。


 窓際の机には封蝋の跡が残る書簡の束。その隣に、まだインクの乾いていないメモ書き。主の不在にもかかわらず、書斎はまるで呼吸しているかのように、ヴァレリアの思考の熱を帯びていた。


 マルタが去り、重厚な扉が閉まった瞬間、私は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。


「……なるほど。高名な学者のサイン本よりも、最新の統計資料を優先しているのね。合理的だわ」


 だが、その整理法はまだ甘い。


 私は棚の前に立ち、まず一冊を引き抜いた。背表紙の糊が新しい。最近購入された本だ。次の一冊。こちらは頁の角が擦り切れている。繰り返し参照された痕跡。


 指先が本の背をなぞるたびに、頭の中で巨大な地図が編まれていく。この書架は所有者の脳だ。どの本が手前に置かれ、どの本が奥に追いやられているか。それだけで、ヴァレリアが今何を考え、何を後回しにしているかが透けて見える。


 そして()の構造を把握した者だけが、持ち主を望んだ方向に動かせる。


 机の隅にあった糸巻きと革紐を拝借し、索引用の栞を作り始めた。革紐を寸法通りに切り、書物の見返しに貼り付けて、関連する資料同士を色分けした糸で繋いでいく。赤は『経済』、青は『外交』、黒は『人事』――


 糸が棚から棚へと渡されるにつれて、無秩序に見えた書架が一つの因果の網へと姿を変えていく。


 ラベルを切る鋏の音だけが、書斎の静寂を刻んでいた。


 作業に没頭して、どれほどの時間が経っただろうか。


 窓から差し込む陽光の角度が変わり、空気の温度が一段と落ちたように感じられたその時。


 ――カツリ、と。


 吸い付くような、だが硬質な足音が背後で止まった。


「―作業の進捗はどうかしら。エリシア」


 不意を突かれ、心臓が跳ね上がる。扉が開く音すら聞こえなかった。あの重厚な扉を、いつ、どうやって。


 背中を冷たいものが伝う。だが、ここで取り乱せば負けだ。


 私は一呼吸置き、口角の位置をミリ単位で調整して、完璧なポーカーフェイスを作り上げた。平民の怯えを見せた瞬間、私は対等な取引相手としての価値を失い、単なる怯える家畜に格下げされる。


 ゆっくりと、だが迷いなく振り返る。


 ――銀の髪、青の瞳。帝国社交界が『氷の公女』と渾名する、その容貌。だが私が値踏みしているのは美貌ではない。この女が署名した書簡一通が、学士院の何年分の審査を飛ばせるか。その重さだ。


 私は膝を折った。


「閣下……お呼び立てする手間を省けました。ちょうど、初期の再編が完了したところです」


 ヴァレリアは、銀髪を微かに揺らして書斎を見渡した。


 その青い瞳が、棚から棚へ渡された色糸と、私が配置を変えた一角で止まる。


「……配置を変えたわね。私の許可なく」


 その声は平坦で、怒りも驚きも含まれていない。それがかえって、研がれたばかりの剃刀のように鋭く響く。


「はい。以前の分類法では、最新の経済統計と過去の法改正の連動性が損なわれておりました。このように再配置することで、閣下が政策の矛盾点を検証するまでの時間は……確実に一段、速くなるはずです」


 私はあえて、彼女が最も重視するであろう()()()()を突いた。


 ヴァレリアの視線が、棚から棚へ渡された糸を辿り、一瞬、その歩みが止まった。


 足を止めた、という事実。それだけで、私の提案が彼女の思考に引っかかったと分かる。


 ヴァレリアは無言のまま棚に近づき、私が入れ替えた一冊の書物を手に取った。


 『ヴェールの二重帳簿、その歴史的考察』。


 私がその中に差し込んだのは、昨晩届いたばかりの、隣国の不自然な関税引き上げに関する報告書だ。


「……歴史的資料と、今日の外交問題を繋げたのね」


「歴史は繰り返します。過去、ヴェール地方で行われた密輸ルートの変遷を知れば、今回の関税逃れがどの港で行われるか、自ずと答えが出るかと」


 長い沈黙が、書斎の重苦しい空気を支配した。


 ヴァレリアは本を閉じ、私の方を向いた。


 その瞳に宿っているのは、昨日までの事務的な関心ではない。


 それは、獲物の質を確かめるような、あるいは未知の劇薬を調合する実験者のような、昏い観察の熱だった。


「いいわ。続けなさい……ただし、もし私の期待を下回る結果しか出せなかった時は――」


「その時は、この服のまま王都の裏通りに放り出していただいて構いません。学者を名乗る資格など、私にはありませんから」


 私の不敵な返答に、ヴァレリアはふっと、吐息のような笑いらしきものを漏らした。


 それが、彼女が見せた初めての人間らしい表情だった。


「ええ。期待しているわ……私の、便利な『道具』さん」


 背を向けたヴァレリアが、扉に手をかけたまま付け加えた。


「ああ、そうだわ。明朝までに一つ、政策の矛盾点を提示しなさい。それがこの書斎を使い続ける条件よ」


 扉が閉まる。音はない。ただ、空気の圧が変わっただけだった。


 間を置かず、今度はマルタの靴音が廊下から近づいてきた。こちらは明瞭に聞こえる。あの女とは違う。


「伝達事項よ。明日からは顧問魔術師のルシアンが、書斎業務の仕上げを監督します。段取りは彼の指示に従いなさい」


 それだけ言い残して、マルタは踵を返した。


 ルシアン。初めて聞く名だ。あの廊下にいた、柱の影の青年だろうか。


 まあいい。監督役が誰であれ、やることは変わらない。


 私はようやく、肺に溜まっていた空気を吐き出した。


 拳を握りしめると、指先が微かに震えている。


 恐怖ではない。これは、高揚だ。


 あの女を、私の知性で僅かにでも動かした。その実感が、胸の奥で火を灯す。


 明朝までに矛盾点を一つ? それで足りるものですか。三つ以上見つけてやる。


(今は見下していなさい、ヴァレリア。あなたは私を便利に使っているつもりでしょうけど、あなたのその余裕こそが、私に首輪を握らせる隙になるのよ)


 私は再び、資料の海へと潜っていった。


 すべては彼女から『推薦状』という名の鍵を奪い取り、帝国学士院の門をこじ開けるため。あの署名さえ手に入れれば、この虚飾に満ちた貴族社会を鼻で笑って去れる。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 彼女が、私が踏みつけるための階段などではなく、足を踏み入れれば二度と逃れられない底なしの氷であることを。


 それでも――いや、だからこそ。


 氷ごと踏み砕いてみせる。推薦状を奪い取り、あの女を私の踏み台にする。




 平民のこの足で。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「青は残飯だと嗤われた日」

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