19. 君は怪物にならなくていい
北塔の最上階。そこは私の知性が暴力へと鋳直される、呪われた鋳型だ。
夜の帳が王都を包み、月光がステンドグラスを透過して床に歪んだ幾何学模様を描き出している。
空気には、焦げた魔素の残り香と、使い古された魔導書から漂う古びた紙の匂いが混じり合っていた。
私が部屋の重厚な扉を開くと、そこにはいつものように天球儀を眺めるルシアンの姿があった。
けれど、彼の背中はかつてないほどに力なく、揺れるキャンドルの火がその影を壁に長く、不吉に引き延ばしている。
この部屋を訪れるたび、私は自分がどれほど変質したかを思い知らされる。かつてはこの扉を開くだけで胸が高鳴った。今は、何も感じない。感じないことすら、もう気にならない。
遺跡での極限の消耗から数日。彼は表向きは回復したことになっていたが、その瞳の奥に宿る熱は、魔力の暴走ではなく、もっと根源的な毒に侵されているように見えた。
天球儀を回す指先が、微かに震えている。
それを隠すように、彼は儀の縁を強く握り直した。眠れていないのだろう。頬の陰影がいつもより深く、蒼白な肌にキャンドルの炎がちらちらと不健康な色を落としている。
「……エリシア。遅かったね」
ルシアンの声は、夜風にさらされた枯れ葉のように掠れていた。
彼はゆっくりと振り返り、私の姿を頭の先から爪先まで、まるで失われゆく宝物を惜しむような目で見つめた。
その視線に、私は一瞬だけ足を止めた。
ルシアンは常に、対象を観察する人間だ。けれど今の彼の目は、観察ではなかった。もっと剥き出しの、制御を失った何かが滲んでいた。
「オズワルド卿の誘いを蹴ったそうじゃないか」
彼は窓辺から離れ、机の上に散乱した羊皮紙を無意味に整える動作をした。手持ち無沙汰を誤魔化しているのが、ルシアンらしくなかった。
「――安心した、と言うべきなのかな」
彼は自嘲するように唇を歪めた。
「いや、違う。安心なんてしていない。国家の重鎮たちが、君という一輪の毒花を自分たちの庭に植えようと必死になっている。けれど君は、そのすべてを笑い飛ばして、あの氷の公女の影に戻ることを選んだ。それを聞いて僕は……」
言葉が途切れる。
ルシアンが言い淀むなど、初めて見る姿だった。
「耳が早いですわね、ルシアン様。貴方の使い魔は、私のプライベートまで覗き見ているのですか?」
私は髪をひと房、指先で弄びながら、挑発的に微笑んだ。
だが、ルシアンは笑わなかった。
いつもなら皮肉で返すはずの彼が、私の軽口を受け止める余裕すら失っている。
彼は一歩、また一歩と、私に近づいてくる。その足取りは危うく、それでいて私を逃がさないという執念に満ちていた。
「エリシア。君は、自分がどこへ向かおうとしているのか、本当にわかっているのかい?」
その声には、いつもの皮肉も余裕もなかった。
触れたいのに、触れれば壊れると知っている人間の間合いだった。
「君が手に入れた『断章』の知識、そしてヴァレリアとの共犯関係。それは、君の魂を少しずつ食いつぶそうとしている」
彼の声が、わずかに揺らいだ。
「今の君を見ていると、怖いんだ。君の中から、かつて地下書庫で目を輝かせていたあの子が、どこにも見えないことに」
ルシアンは一度言葉を切ると、天球儀に視線を落とす。
「あのときの君は、誰に言われるでもなく問いを立てていた。答えのない問いの前で、それでも考え続けることを選んでいた。僕が愛したのは、その姿だった。知識の量じゃない。真理の前で膝を折らない、あの飢えた誠実さだ」
その声は震えていなかった。これだけは正確に伝えなければならないと、知性で感情を押さえ込んでいるのが分かった。
「けれど今の君は、問いを立てる代わりに、答えを振りかざしている。知を探究するのではなく、知で殴りつけている。それは、僕が見てきた君の知性じゃない」
「……純粋な知への渇望ですか? ふふ、ルシアン様。そんな言葉を、貴方の口から聴くことになるとは思いませんでした」
私は彼を避けるように窓辺へ歩み寄り、冷たい夜気に身を晒した。
「純粋な知識など、腹の足しにもなりません。私が今持っているのは、世界を屈服させるための『力』です。貴方が私にそれを教えたのでしょう? 貴方が、私を泥の中から引き揚げ、この美しき地獄の歩き方を叩き込んだ。今さら何を仰るのですか」
「それは違う。僕が教えたのは知の扱い方であって――」
ルシアンは反射的に口を開き、しかしそこで言葉が止まった。
自分の声が、自分の耳に嘘として響いたのだろう。彼は唇を噛み、視線を逸らした。
数秒の沈黙のあと、振り絞るように声が漏れた。
「……僕が、間違っていたんだ」
叫びではなかった。静まり返った実験室に落ちたのは、もっと低く、もっと軋んだ声だった。
彼は私の肩を掴み、強引に自分の方へと向かせた。
その指先は震え、氷のように冷たかった。
「僕は、君の才能を愛していた。君という類稀なる器が、僕の手によって完璧な『怪物』へと変貌していく過程に酔いしれていた。けれど、遺跡であの祭壇の前に立つ君を見たとき……」
彼はそこで一度言葉を切り、自分の額を手で覆った。
長い指の隙間から覗く瞳が、ひどく濡れていた。
「戦慄したんだ。君は、僕という人間さえも、自分の目的を達成するための道具として見ていた。いや、それだけじゃない。僕はそれを知って……」
言葉が止まった。
ルシアンの口が何かを形作りかけ、閉じ、また開く。
知性で武装してきた人間が、自分の感情を正確に言語化できない――その事実に、彼自身が狼狽えていた。
「嫉妬したんだ。君の視線の中心に、僕がいないことに」
最後の一文は、彼自身も予期していなかったように見えた。
言ってしまってから、ルシアンは一瞬だけ怯んだ顔をした。
自分の感情を制御できないことへの、恐怖。それは、これまで私が見てきたどのルシアンとも違う顔だった。
この人は、壊れかけている。
私をこの塔へ招いた日と同じ指が、今は行き場を失って宙を彷徨っている。
「エリシア。僕は、君を愛してしまった。君という『怪物』を産み落とした親としてではなく、一人の男として……君のその冷たい指先を、その乾いた心を、僕だけの熱で満たしたいと願ってしまったんだ」
ルシアンの声が、一段低くなった。
「もういい。もう、知性を刃に変えなくていいんだ。君の知性は、本来そんなもののためにあるんじゃない。僕はそれを誰よりも知っている。君に同じものを注ぎ込んだ人間だから」
ルシアンは、縋り付くように私を抱き寄せた。
彼の鼓動が、私の胸に伝わってくる。
それは激しく、ひどく人間臭い、生への執着だった。
「このまま行けば、君は遠からず壊れる。『断章』の知識は人間が担うには重すぎる。あの女の懐刀として切り刻まれていく先に、君自身は何も残らない」
その言葉には、師としての確信があった。
実際、彼の言葉には根拠がある。『断章』の代償は、私自身がいちばんよく知っている。
あの知識を引き出すたびに、頭の奥で何かが軋む音がする。それを無視し続けていることを、この人は見抜いているのだ。
だからこそ、続く言葉が切実さを帯びた。
「一緒に逃げよう、エリシア。この王都も、ヴァレリアも、魔導書もすべて捨てて。僕の魔術があれば、君を誰の手も届かない場所へ連れていける。そこで君は、ただのエリシアとして、好きなだけ本を読み、笑い、穏やかな朝を迎えればいい。君が失ってしまった、あの平凡な、けれど確かな幸せを、僕がもう一度与えてあげるから――」
平凡な、幸せ。
その言葉に、胸の奥のどこかが鈍く疼いた。
トーマスの笑顔が浮かんだ。おがくずの匂いのする庭。夕暮れの台所で、誰かが名前を呼んでくれる声。
誰かに守られ、もう計算しなくていい朝。
失敗しても見捨てられず、勝たなくても許される日々。
ルシアンの腕の中は温かく、その鼓動はたしかに本物だった。
彼のローブから微かに漂う薬草の匂いが、かつて私がこの塔で学んでいた頃の記憶と重なる。あの頃の私は、まだ誰かの温もりを素直に受け取ることができた。
ほんの一瞬だけ、抗う力が抜けかけた。
証明も、計算も、勝利もいらない日々があるのだとしたら。
それは、どれほど甘いのだろう。
指先が、ほとんど無意識に、彼のローブの裾を掴みかけた。
もう少しだけ。もう少しだけこのままでいたら、きっと私は頷いてしまう。
私は、彼の腕の中で、ゆっくりと瞳を閉じた。
――けれど。
そんなものを、私はとっくに欲しがる資格すら失ったと思っていたのに。
今さら差し出されたところで、その手を取ってしまったら。
私は、何のために泥を這ったのだろう。
次の瞬間、瞼を開けたとき、私の瞳には、氷よりも冷徹な決意が宿っていた。
「お優しいのですね、ルシアン様」
私はそっと彼の腕を外した。
その仕草だけは、ひどく丁寧だった。
力任せではない。けれど、決して覆せない絶対的な拒絶。
「ですが、貴方は一つだけ致命的なミスを犯しました」
私は、ルシアンの瞳を真っ向から見据えた。
「貴方は、私を救いが必要な哀れな娘だと定義してしまった。それが、私に対する最大の侮辱であることに、お気づきになりませんでしたか?」
「え……?」
「欲しかったのは、救いではありません。哀れんで手を差し伸べられることではない。私は、私を泥に沈めたものすべてを、見下ろせる場所へ行きたいのです。貴方が提案した平凡な幸せは、今の私にとっては鼻で笑う価値もありませんの」
私は一歩、彼を追い詰めるように踏み出した。
「ルシアン様。貴方は私を『怪物』と呼びましたが、それは間違いです。私は、自らの意志で刃になったのですわ。そしてその刃は今、ヴァレリア閣下という鞘を手に入れました。貴方の腕の中は、私にはあまりにも狭すぎます」
「エリシア……君は、本当に、あの女のために、自分の人生を――」
「いいえ。自分のために、彼女を利用しているのです。彼女という光が強ければ強いほど、私の『影』はどこまでも濃く、深く、世界を覆い尽くすことができるのですから」
私は、冷淡に言い放った。
ルシアンの顔から、希望という名の光が完全に消え失せた。
彼は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
長い沈黙の間に、キャンドルの炎がひとつ、音もなく消えた。
部屋の闇が、一段だけ深くなる。
「……そう、か」
ルシアンは、乾いた笑い声を漏らした。
「僕は、君を救えると思っていた。君を作り変えた僕こそが、君の魂の最後の拠り所なのだと。傲慢だったのは、僕の方だったんだね」
その笑いは、やがて嗚咽に近い震えへと変わっていく。
彼は理解したのだ。
自分が産み出したエリシアという『怪物』は、もはや自分の手に負える存在ではないことを。自分の愛も、自分の魔術も、自分の腕の温もりさえも、彼女を引き留める鎖にはなり得ないことを。
そして、彼女が選んだ道は、自分という存在さえも踏み越えていく、孤独で過酷な玉座への道であることを。
「さようなら、ルシアン様」
私は、穏やかに微笑んだ。
残酷なほどに、穏やかに。
「貴方の愛は、私の知略の糧として、大切に保存させていただきます。これからも、私のためにその強大な魔術を振るってくださいませ。それが、私という『怪物』を作り上げた、貴方の罪と罰なのですから」
私は背を向け、部屋を出た。
振り返ることはしなかった。
ローブの裾を掴みかけた右手を、私は左手で静かに押さえた。
まだ、指先に彼の体温が残っている。それを振り払うように、指を強く握り込んだ。
背後で、重厚な扉が閉まる音がした。
それは、私の人生から個人的な愛という名の救いが、完全に失われた音だった。
私は振り返らない。
誰にも頼らない。
誰の愛も請わない。
ヴァレリアの待つ執務室へ続く冷たい廊下を、私はただ静かに歩いた。
足音だけが、ひどく澄んでいた。
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