18. 裏切れば、席をやる
王宮の歴史編纂所。
かつての私にとって、そこは世界の中心であり、人生の最終目的地だった。地下資料室の埃にまみれ、カビの臭いが染み付いた古文書をめくりながら、私はいつかこの聖域の門を叩き、歴史を記述する側に回ることを夢見ていた。
推薦状一通のために、学院の教授に三年間ただ働きで資料整理を申し出た夜のことを、今でも覚えている。あの頃の私は、魂を売ってでもこの場所に立ちたかった。
けれど、今、編纂所の重厚な扉をくぐる私の足取りに、かつての高揚感はない。
纏っているのは、ヴァレリアから下賜された、静謐な輝きを放つ漆黒のシルクドレス。胸元には、公爵家の権威を象徴するサファイアのブローチが冷たく光っている。
「……エリシア様、お待ちしておりました。所長が奥でお待ちです」
出迎えた若き編纂官たちは、一様に緊張の面持ちで私に頭を下げる。かつての私なら、彼らの纏う空気に気後れしていただろう。だが今は、彼らの震える指先や、伏せられた視線の端にある保身の色彩が手に取るように分かる。彼らは歴史を愛しているのではない。歴史という権威にしがみついているだけだ。
通されたのは、所長室。
そこには、王国の歴史学の最高権威である、オズワルド卿が座っていた。彼は白髪を整え、厳格な知性を装っているが、その瞳には濁った野心が潜んでいる。権威に長く浸かった者特有の、腐食した矜持。
「よく来てくれた、エリシア・ガレット君……いや、今はヴァリエール公女の『右腕』と呼ぶべきかな」
「恐れ入ります、オズワルド卿。閣下の名代として、先日の遺跡調査の補足資料をお持ちいたしました」
私は優雅に一礼し、机の上に一束の書類を置いた。それは、私が意図的に編集した資料だ。
オズワルド卿は資料には目もくれず、じっと私を見つめる。
「君の評判は、私の耳にも届いている。殿下の偽書を見抜き、あの『蒼氷の廃都』から無事に帰還したその手腕……正直に言おう。君のような希代の才が、一侍女として公女の影に埋もれているのは、国家にとっての損失だ」
彼は慇懃な動作で、一通の辞令を差し出した。
そこには、王立歴史編纂所・筆頭調査官という、異例のポストが記されていた。
「君を、我が編纂所の次期所長候補として迎え入れたい。これはヴァリエール公女の推薦状ではなく、王宮が直々に下す命だ」
オズワルド卿はそこで言葉を切り、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。王宮の封蝋が押されている。
「筆頭調査官には、地下特別書庫への恒久的な閲覧権が付与される。君も知っているだろう? 建国期の原典資料、歴代王の直筆書簡、そして未公開の外交文書――この国で、あの書庫に自由に入れる人間は十人もいない」
私の指先が、かすかに震えた。
地下特別書庫。学院時代、その存在を知ったとき、私は三日三晩眠れなかった。誰にも読まれず、誰にも解釈されず、誰にも繙かれぬまま朽ちていく原典の山。あの扉の向こうに立つことだけが、かつての私のすべてだった。
「さらに、編纂所の名義で研究論文を発表する権限も与えよう。君の名前で、だ。ペンリス出身の平民が、王立編纂所の筆頭調査官として歴史学会に論文を出す――それがどういう意味か、君なら分かるはずだ」
――分かってしまう。痛いほどに。
平民の出自は、この王都では学問の世界でさえ足枷になる。どれほど優れた論考を書いても、貴族の子弟が片手間に書いた駄文の方が先に査読を通る。それが、この国の学術の現実だ。編纂所の肩書は、その壁を一夜にして消し去る。
「そして――」
オズワルド卿は、最後の一手を切った。
「君の経歴は、編纂所の公式記録として再編される。ペンリス地方の下級文官の娘ではなく、王立歴史編纂所が幼少期からその才能を見出し、特別に育成した俊英……君はもう、誰かの顔色を伺って生きる必要はない。自分の名前で、自分の意志で、この国の歴史を正しく記述する権利を手にするのだよ」
辞令の羊皮紙が、ランプの光を受けて鈍く輝いていた。
私は、息を止めていたことに気づく。
地下特別書庫への鍵。自分の名前で世に出る論文。平民の傷を覆い隠す、正統な経歴――それは、かつての私が命を懸けて求めたもののすべてだった。学院の薄暗い資料室で、指先がインクで黒く染まるまで筆写を続けたあの夜々。教授の機嫌を取るために、何度も書き直した推薦状の下書き。すべてが、この一枚の辞令で報われる。
オズワルド卿は、それが私にとって断りようのない至高の誘惑であると信じて疑わないようだった。
そして――正直に言えば、それは正しかった。かつての私であれば、その場に跪いて涙を流して感謝しただろう。いや、今の私でさえ、心臓が一拍だけ、確かに跳ねた。
だが、その鼓動が静まった後に残ったのは、乾いた失笑だけだった。
「……筆頭調査官。確かに、素晴らしい響きですわね」
私は辞令の文字をなぞるように眺めた。
「ですが、卿……この破格の待遇の裏には、相応の対価があるはず……私が差し出すべきものは、何かしら?」
オズワルド卿は、待っていましたとばかりに身を乗り出した。その瞳に、隠しきれない欲望が滲み出す。
「話が早くて助かる。公女が手に入れた『断章』の内容。そして、彼女が画策している次期予算の真の狙い……それらを我々に共有してほしい。君はヴァリエール公女に尽くしているようだが、彼女は所詮、君を有能な道具としてしか見ていない。彼女はいずれ、君が自分を脅かす存在になれば、ためらわずに切り捨てるだろう。そうなる前に、自らの足場を固めるべきだと思わないかね?」
裏切りの提案。
私の喉の奥で、冷えた笑いが小さく弾けた。この男は、私とヴァレリアの間に利害しかないと見ている。哀れだとは思わなかった。ただ、ひどく退屈だった。
けれど、オズワルド卿はまだ札を切り終えてはいなかった。
卿の声が一段低くなる。
「……それとも、君はまだ自分の立場を理解していないのかな? エリシア・ガレット。ペンリス地方の下級文官の娘。この経歴に、編纂所が一筆加えるだけで、君の正統性はいかようにも書き換えられる。公女の庇護なしに、君が君であり続けられると、本気で思っているのかね?」
懐柔から、脅迫へ。
私の指先に、一瞬だけ冷たい痺れが走った。平民の出自という傷は、どれほど力を得ても、この王都では決して消えない。
だが――痺れは、すぐに熱へと変わった。
私は微笑みを一切崩さなかった。
「卿。私の経歴を調べるには、閣下の管轄下にある宮廷人事記録に触れる必要がございますわね? ……それは、編纂所の権限を越えた越権行為ではないのでしょうか?」
オズワルド卿の目が、わずかに揺れた。
だが、この男は権力の椅子に長く座りすぎている。揺れは一瞬で押し殺され、代わりに薄い嘲笑が浮かんだ。
「越権行為? 面白いことを言う。宮廷人事記録の閲覧権は、先代国王の勅令により編纂所にも付与されている……君ほどの才女が、まさかその程度の法令を見落としていたわけではあるまい?」
なるほど。老獪なだけのことはある。法的な根拠を用意した上での脅迫だったか。
私は一拍だけ間を置いた。
「ええ、先代の勅令。存じておりますわ……ですが卿、あの勅令には但し書きがございますわね? 閲覧対象は『故人の記録』に限定されている。現職の侍女の経歴を調べるには、別途、宮内省の許可が必要なはず」
オズワルド卿の顔から、今度こそ血の気が引いた。
「私を脅す材料を集めたつもりが、ご自身の首を差し出してしまわれた。歴史家が、自らの記録管理を怠るとは。皮肉なものですわね」
私は辞令を、音もなく机に戻した。
そして、慈悲深い聖母のような微笑みを浮かべ、オズワルド卿の瞳を真っ向から射抜いた。
「……卿。貴方は、大きな勘違いをなさっています」
「何だと?」
「私が閣下の側にいるのは、地位が欲しいからでも、名誉が欲しいからでもありません。閣下の隣という、この国で最も苛烈で、最も美しい戦場の最前線。そこから眺める景色を、貴方のその埃を被った書斎が与えてくれると、本気でお考えなのですか?」
私は椅子から立ち上がり、窓の外に広がる王都の街並みを指し示した。
「筆頭調査官? 地下特別書庫の鍵? 自分の名前の論文? ……ええ、どれも甘い。甘すぎて、歯が腐りそうなほどに。けれど卿、それらはすべて過去の私が欲しがったものです。今の私が欲しいものは、あの書庫のどこにも収蔵されていない」
オズワルド卿の顔が、驚愕と屈辱で赤黒く染まっていく。
「き、貴様……自分が何を言っているのか分かっているのか! 公女はいずれ君を滅ぼすぞ!! 彼女は自分以外の何者も信じない怪物だ!」
「存じておりますわ……だからこそ、私は彼女を選んだのです。怪物に選ばれ、怪物を御する快感。それを知らない貴方に、私の価値を測る秤など持てるはずがありません」
私は裾を指先で摘み、深く、完璧な一礼を捧げた。
「辞令はお返しいたします。それと、卿……貴方が閣下を出し抜こうと画策していることは、既に私の『索引』に記録されました。明日の朝、編纂所の予算監査がどのように行われるか、楽しみにしておいてくださいませ」
「な……エリシア君っ!? 待ちたまえ!!」
私はオズワルド卿の制止を無視し、部屋を後にした。
回廊で、壁際に控えていた若い編纂官と目が合った。先ほど私を案内した青年だ。所長室から漏れた怒号を聞いていたのだろう、顔が強張っている。
「あの……監査、というのは……」
私は足を止めなかった。ただ、すれ違いざまに、携えていた書類の束から一枚だけ抜き取り、彼の手に押し付けた。
「これを、卿の机の上に。読むか読まないかは、貴方の判断にお任せしますわ」
書類を受け取った編纂官の顔から、みるみる血の気が引いていく。何が書かれていたのかは、彼の表情が雄弁に語っていた。
私は振り返らない。
回廊を歩く背筋は、かつてないほど真っ直ぐに伸びていた。
壁に並ぶ歴代編纂官の肖像画が、私を見下ろしている。かつてはこの一枚一枚に畏敬の念を抱き、いつか自分もここに名を刻むのだと胸を焦がした。今、それらはただの油彩の染みにしか見えない。埃の匂いも、羊皮紙の甘い腐臭も、もう私の心を掻き立てはしなかった。
かつての夢を切り捨てることに、痛みはなかった。
あるのは、ヴァレリアへの確固たる依存と共犯意識。
私は、階段を降りた先に停まっていた馬車へと乗り込んだ。
そこには、一冊の書類をめくるヴァレリアが、退屈そうに私を待っていた。
「……早かったわね。かつての夢の聖地は、さぞかし居心地が良かったでしょう?」
「いいえ、閣下。あまりに空気が淀んでおりましたので、少しばかり掃除の予告をしてまいりましたわ」
ヴァレリアは、手元の書類から視線を上げ、私の瞳をじっと覗き込んだ。
「そう……裏切りの誘い、お断りしたのかしら?」
「ええ」
「心は、動かなかった?」
その問いは、世間話の体裁を纏いながら、刃のように正確だった。ヴァレリアは私の忠誠を信じているのではない。私の忠誠の純度を、今この瞬間に測っているのだ。
「……動きました」
私は正直に答えた。
「地下特別書庫の鍵を見せられたとき、心臓が跳ねました。建国期の原典に、この手で触れられる。自分の名前で論文を出せる。平民の経歴さえ書き換えてもらえる……あの一瞬だけ、閣下のお顔が、霞みました」
ヴァレリアの唇が、かすかに弧を描いた。軽蔑でも、怒りでもない。獲物の逃げ足を見極める獣のような、冷たい愉悦。
「……それで?」
「けれど、あの椅子にはヴァレリアがいらっしゃらない。それだけで、想像は色を失いました」
沈黙が馬車の内側を満たした。車輪が石畳を噛む音だけが、規則正しく刻まれる。
やがて、ヴァレリアはふっと息を漏らした。
「……愚かね。どこまでも」
そう言いながら、ヴァレリアの白い指が伸び、私の襟元に付いていた埃を一片、摘み取った。編纂所の古い空気が運んだものだろう。ヴァレリアはそれを窓の外へ弾き、何事もなかったかのように手袋の指先を揃えた。
その仕草に、叱責も労いもなかった。ただ、自分の持ち物についた汚れを払うような、当然の所作。
私の胸の奥が、甘く軋んだ。
――愚かね。どこまでも。
その言葉が、私に向けられたものなのか、あるいはヴァレリア自身に向けられたものなのかは、分からなかった。けれど、その声の底に微かな温度があったことだけは、確かだった。
「私はただ、閣下を裏切るよりも、閣下と共に世界を裏切る方が、よほど刺激的だと判断したまでにございます」
私はヴァレリアの向かいに腰を下ろし、馬車が動き出す振動を感じながら、自らの野心の行く末を見据えていた。
ヴァレリアの顔を盗み見る。完璧に整った輪郭。凍てついた美貌。その奥に潜む、底知れない暗がり。
私の中で、名前のつけようのない感情がゆっくりと首をもたげた。敬意とも畏怖とも違う、もっと生々しく、もっと歪んだ何か。
――誰も信じない。けれど、この女だけは、私という毒を飲み干してくれる。
その確信が、今の私を、どんな地位や名誉よりも強く、そして美しく輝かせていた。
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次話「君は怪物にならなくていい」




