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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第2幕 最強の淑女は社交界を嗤う

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17. 私の影に相応しい

 蒼氷の廃都から王都へと戻る馬車は、夜の闇を切り裂き、静まり返った街道を滑るように進んでいた。


 車内に漂うのは、微かな革の匂いと、先ほどまで手にしていた禁忌の書――『エリュシオンの断章』が放つ、目に見えない知性の残滓である。


 私の向かいに座るヴァレリアは、肘を窓枠に預け、流れる夜景を無言で眺めていた。等間隔に配置された魔導灯の淡い光が、その横顔を照らしている。瞳には、一国の運命を掌握した者だけが湛える、深く静かな熱が宿っていた。


「……何を考えているの、エリシア」


 不意に、ヴァレリアが声を落とした。視線は外に向けたまま。だが、その言葉は真っ直ぐに私の核心を射抜いている。


「……そうですね。この馬車が王都に着くまでに、あの遺跡で得た因果の術式を、我が国の経済圏にどのように組み込むべきか。あるいは、失脚させた殿下の空席を、どの属国に埋めさせるのが最も閣下の覇道に資するか……そのような、些末な計算に耽っておりました」


「些末、ね」


 ヴァレリアがゆっくりと顔を向けた。唇の端に、薄く、それでいてこの上なく満足げな笑みが浮かぶ。


「一ヶ月前、泥に塗れた眼鏡をかけ、書斎の隅で震えていた小娘が、今や隣国の第一王子を些末な計算の材料として扱っている……。エリシア、あなたは、自分がどれほど美しく、そして醜く変貌したか、自覚しているのかしら?」


「ええ。存じておりますわ、閣下」


 私は、『断章』を扱う際に嵌めたままの薄手の手袋越しに、自らの指先を見つめた。かつて古文書の埃で汚れていたその指は、今や一国の政局を、ペン先一つで書き換える力を持っている。


 悔しさも、屈辱も、あの日流した涙さえも、今はすべてがこの瞬間のための前座に過ぎなかった。


 私は、ヴァレリアの視線を真っ向から受け止めた。今の私に、彼女への恐怖はない。あるのは、彼女という巨大な光を影から支え、同時にその視界を自分色に染め上げていくという、倒錯した愉悦だけだ。


「私は、閣下が私を泥と呼んでくださったことに感謝しております。あの言葉がなければ、私は今も、安全な書庫の中で自分以外の誰かが書いた歴史をなぞるだけの、無価値な傍観者でいたでしょうから」


「そう……なら、見せてあげなさい。傍観者をやめたあなたが、この王都で何を成すのかを」




   ◆◇◆




 翌朝。王都は、隣国カイル・フォン・エストレラ殿下の不名誉な隠密行動の露呈と、それを見事に看破したヴァリエール公爵家の威光に沸き立っていた。


 公爵邸の回廊を歩く私の耳には、以前のような嘲笑や陰口は一切届かない。すれ違う使用人たちは一様に深く頭を下げ、かつて私を汚れと蔑んだ令嬢たちは、私の靴音が聞こえるだけで怯えたように道を開ける。


 彼らにとって、私はもはや単なる有能な侍女ではなかった。氷の公女の代弁者であり、魔術師を跪かせ、隣国の王子を屠った正体不明の『影の支配者』――


 執務室に入ると、そこには既に山のような書簡と、各界からの陳情書が積み上がっていた。


 私はそれを一つずつ手に取り、ルシアンから奪い取った心理分析の技法と、『断章』の知識を駆使して、瞬時に生かすべき者と切り捨てるべき者に分類していく。


 ある陳情書が、私の手を止めた。


 差出人は、王立歴史院の副院長。かつて閣下が凍結した編纂事業の復活を懇願する文面だが、書き出しの三行で本音が透けている――予算復活を口実に、ヴァリエール家の情報網に食い込みたい。そういう匂いがした。


 王立歴史院。その名を目にした瞬間、古い記憶が浮上した。書庫の片隅で推薦状の書式を何度も書き直していた夜。歴史院の門を叩き、真理を読む者として生きることを夢見ていた、あの頃の私。


 指が止まったのは、ほんの一瞬。今の私にとって王立歴史院は、閣下の情報戦略における駒の一つに過ぎなかった。正しさとは、閣下の視線の中に在ること。それ以外の座標は、心の地図から消えている。


 私は封筒の裏に赤い蝋印を押した。閣下の紋章ではない。私が独自に作らせた、棘の絡まる薔薇の意匠――却下を意味する新しい印だ。蝋が冷え、固まるまでの数秒間、私はその小さな赤い円を見つめていた。明日にはこの印を見た副院長が青ざめ、翌週には彼の席に閣下の息のかかった人材が座る。


 指先が、微かに痺れた。恐怖からではない。


 続いて手に取ったのは、財務卿の補佐官からの密書だった。編纂事業の凍結に異を唱える貴族連名の請願書が、近日中に王宮へ提出されるという。署名者のリストに目を通すと、見覚えのある家名が並んでいる。いずれも、かつて私を泥の侍女と嘲笑った者たちの実家だ。


 私は便箋の余白に、流れるような筆跡で三行だけ書き添えた。請願書の提出前に、署名者のうち二名の租税記録を王宮監査局に回付すること。不正の有無は問わない。監査が入るという事実だけで、残りの署名者は自ら名前を消す。


 ペンを置いた瞬間、薄い笑みが漏れた。かつての私なら怯えていただろう。今の私は、それを設計する側にいる。


「……エリシア様。こちら、財務卿からの至急便でございます」


 若い侍女が、震える手で封筒を差し出した。かつて私に嫌がらせをしていた者の一人だ。


 私は彼女の目を見ることなく、ただ冷淡に手を差し出した。


「そこに置いておきなさい……あと、その香水の匂い、閣下の執務室には不釣り合いよ。次からは、自分の身の程に合った香りだけにしておきなさい。分かった?」


「は、はい! 申し訳ございません、エリシア様……!」


 侍女が逃げるように去っていく。理由も聞かず、反論もせず、ただ従う。明日からあの子は私に言われた通りの装いで出仕するだろう。


 暗く甘い陶酔が、胸の底に沈んでいった。


 力がある。それだけで、世界はこれほどまでに従順で、残酷で、そして愛おしい。


 私は椅子に深く腰掛け、窓の外に広がる王都の街並みを見下ろした。


 かつてあの中のどこかに、私の帰るべき場所があった。


 おがくずの匂いがする家。トーマスが淹れてくれた薄い紅茶の湯気。大丈夫だよ、エリシアと言いながら、何が大丈夫なのかは決して示してくれなかった、あの空っぽの手のひら。


(……戻れるはずがないわ。あんな、泥のような平穏に)


 あの温もりを思い出す自分がいることが、むしろ不快だった。優しさとは、何も持たない者が差し出す、一番安価な施しに過ぎない。彼の笑顔に救われた夜があったことを頭では覚えている。だが、それはもう他人の日記を読むような乾いた記憶でしかない。


 私は、自らの意思で、その過去を脳内の『不要文書』へと放り投げた。




   ◆◇◆




 夕刻。


 公爵邸の最上階にあるバルコニーで、私はヴァレリアと二人、傾きかけた夕日を眺めている。


 閣下の手には、私が整理した次期編纂事業の予算案――以前凍結させた事業の完全なる再構築案が握られていた。


「……完璧ね。反対勢力の予算を削り、それを我が家の息のかかった学派に流すことで、王宮内の情報の流れを完全に掌握する……エリシア。これはもはや、歴史の編纂ではなく、未来の設計図だわ」


「歴史とは、勝者が都合よく書き換えるための日記帳に過ぎません……ならば、私たちがその筆を握り、未来さえも過去の必然として記述すればよろしいのです」


 ヴァレリアは、手にした書類をパラパラとめくり、それからふっと深い溜息をつく。落胆ではない。自分と同種の怪物を育て上げてしまったことへの、奇妙な共鳴だった。


「あなたは私に、何を求めているの? 地位? 名誉? それとも、このヴァリエール公爵家の家名かしら?」


「いいえ……私が求めているのは、閣下の影として、この世界が崩れ、再構築される瞬間を、最も近い場所で見届ける権利だけです……私は、閣下が築く新たな秩序の、一番最初の目撃者でありたいのです」


 ヴァレリアの目が一瞬だけ細くなった。値踏みではない。もっと冷たい、鉱物のような光が瞳を過ぎる。


「……綺麗な答えね、エリシア。けれど、影とは主の意に反してでも主に付き従うもの。あなたにその覚悟があるのかしら」


 閣下の声は穏やかだった。だが、その穏やかさの下に、私はルシアンの尋問よりも鋭い刃を感じ取った。これは問いではない。彼女がよく行う試験の一つだ。


「覚悟、でございますか」


 私は一呼吸だけ間を置き、それから閣下の青い瞳を真正面から見据えた。


「……閣下。影には覚悟などございません。光がどこへ向かおうと、影はただそこに在る。閣下が地獄へ降りるのであれば、私は閣下より先に地獄に立ち、道を整えるだけのこと。それを覚悟と呼ぶのなら、私はとうにあの廃都の地下で、それを閣下にお見せしたはずです」


 ヴァレリアは、ほんの一瞬、目を伏せた。そして再び私を見たとき、その青い瞳に浮かんでいたのは、残酷なまでに澄んだ微笑。


「そう……では、もう一つだけ聞かせなさい」


 閣下は書類を手すりの上に置き、夕日に染まった横顔のまま言葉を継ぐ。


「あなたは結局のところ、泥の中から這い上がっただけの侍女よ。家名もなく、血筋もなく、ただ私に拾われたから今がある……それでも、『半身』と呼ばれるに足ると?」


 侮辱だった。明確な、意図的な侮辱。だが、私の心は凪いでいた。本当に取るに足りない者に、ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールは言葉を費やさない。閣下がこの問いを投げること自体が、答えの半分を示している。


「……ええ、仰る通りです。私には何もございませんでした」


 私は微笑んだ。自分でも驚くほど穏やかな笑みだった。


「だからこそ、閣下。失うものが何もない者は、どこまでも深く潜れます……血筋が邪魔をしない分だけ、私の忠誠は純粋です。そしてその純粋さこそが、閣下のもっとも鋭い刃になると、私は確信しております」


 沈黙が落ちた。夕日の色をした風が、二人の間を吹き抜けていく。ヴァレリアの唇が微かに動いたが、言葉にはならない。長い睫毛が一度だけ伏せられ、それが再び上がったとき、閣下の瞳から試験官の冷徹さは消えていた。


 代わりに、その冷たく美しい指先がゆっくりと伸び、私の顎を掬い上げる。


 至近距離で交差する、青い瞳と、黒い瞳。


「……いいわ。あなたは、私の期待を完璧に裏切り、そして期待以上のものを見せた。今のあなたなら、そう呼ぶに相応しいわね」


 ヴァレリアが、私の耳元で、蜜のように甘く、刃のように鋭い言葉を落とした。


「――私の影に、相応しい……あなたはもう、誰の所有物でもない。私の、唯一無二の『半身』よ」


 その瞬間、私の全身を、激しい電流のような歓喜が駆け抜けた。


 あの日、大ホールで汚れと呼ばれ、否定された私。眼鏡を壊され、世界から視界を奪われた私。そのすべての欠落が、今、ヴァレリアという絶対的な光に肯定されることで、完璧な円となって繋がった。


 ――かつて、真理を読む者になりたかった。書庫の奥で歴史の声に耳を澄ませ、誰にも歪められない知の光を灯す学徒でありたかった。けれど今、私が聴いているのはヴァレリアの声だ。私の知性が正しいかどうかを決めるのは、もはや真理ではなく、この人の瞳に映る私の姿だった。


 推薦状も、学術院の門も、もう地図にさえ載っていない。


 私は、彼女の手のひらに、自らの頬を摺り寄せた。


 それは侍女の礼儀ではない。共犯者としての、甘美な服従。


「閣下……ああ、閣下。私は、貴女のためにすべてを燃やしましょう……知性も、美貌も、そして私の魂そのものも……貴女が、この大陸の真の支配者として戴冠するその日まで」


「ええ……共に行きましょう、エリシア……私たちの記述する歴史に、泥が混じる隙など、一ミリも残さないために」


 沈みゆく太陽が、王都を真っ赤に染め上げていく。


 私は、ヴァレリアの隣で、その赤い光を眺めていた。


 利用される側から、利用する側へ。見下される側から、見下す側へ。私は今、かつて自分を縛っていたすべての倫理と決別する。


 優越だった。誰かを踏み台にし、誰かの人生を弄び、そして絶対的な力を持つ者に認められる。この美しき地獄こそが、私の望んでいた本当の『居場所』だったのだ。


 ルシアンの執着も、殿下の憎悪も、今はただの遠いノイズに過ぎない。私の世界は、ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールという光と、私という影の二色だけで塗り潰されている。


 最強の淑女、エリシア・ガレット。


 彼女の本当の覚醒は、この夜、王都を飲み込む深い闇の中で、完成を迎えた。


 もう、後戻りはできない。


 私は、ヴァレリアの差し出した手を、力強く握り返した。


 歴史という名の怪物が、私たちの手によって、産声を上げようとしていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「裏切れば、席をやる」

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