16. 勝者は私だけでいい
指先から伝わるのは、紙の感触ではない。それは、何万年もの間、この大地の深層に堆積し続けた意思そのものが、冷たい熱を帯びて私の脳内に直接流れ込んでくる感覚だった。
エリュシオンの断章。
無造作な紙の束に見えたそれは、私が触れた瞬間にまばゆい銀色の光を放ち、私の意識を現実から切り離して、因果の奔流へと引きずり込んだ。
視界が白く塗り潰される。その中で、私は見た。
帝国の崩壊、王たちの興亡、そして、一滴の染料が引き起こす経済の変動までもが、一本の糸のように繋がっている光景を。
ルシアンに叩き込まれた禁忌の知識と、私が独学で磨き上げた相互参照分類法が、この膨大な情報の海を瞬時に整理していく。
かつての私なら、この情報の重圧に耐えきれず、精神を焼き切られていただろう。けれど、今の私には、ヴァレリアに残飯と蔑まれたあの日から積み上げた、どんな毒をも飲み干して糧にするだけの飢えがある。
だが、奔流は、私を飲み込もうとした。
因果の糸が絡まり合い、意識の隅から声が這い上がる。ルシアンの声――いや、違う。ルシアンの声を借りた、もっと古く、もっと冷たい何かが、私の思考回路に直接囁きかけてくる。
――我なしでは、其方はこの海を泳げない。
禁忌の魔導体系そのものが、術者への依存を構造として組み込んでいるのだ。知識を受け取った者は、やがて与えた者の影に堕ちる。ルシアンが私に教えたのは、知識だけではなく、鎖だった。
意識が引きずられる。視界の白が赤く滲み始め、整理しかけた因果の糸がほどけていく。
このまま呑まれれば、私はルシアンの延長として断章を読み解くことになる。それは、勝利ではない。
ならば、切り捨てる……!
私は、ルシアンから受け取った禁忌の体系を、情報の海の中で一つ一つ識別し、自分自身の相互参照分類法で再接続した。彼の体系が持つ依存構造だけを、外科手術のように切除していく。痛みがある。知識と共に流れ込んでいた彼の声が、切り離されるたびに悲鳴のような残響を残す。だが、痛みは判断を鈍らせない。泥を啜る日々が、私にそれだけは教えてくれた。
膨大な知識は残る。だが、それはもう、ルシアンの魔導ではない。
私が、私の方法で、私のために再構成した『知の建築』だ。
赤い滲みが消え、視界が再び白銀に澄み渡る。因果の糸が、今度こそ一本の乱れもなく、私の手の中に収束していった。
「……構築、完了」
自らの意思でその因果の糸を掴み、一冊の書として再構成する。
光が収まり、再び視界に現れたのは、崩れかけた祭壇の不気味な青白い闇。そして、そこには無様に地に這い、絶望に顔を歪める二人の男の姿があった。
祭壇の礎に縛り付けられた殿下は、もはや叫ぶ力すら残っていないようだった。
自らの王家の血を触媒にして遺跡の防衛機構を維持させられた彼は、今や全身の魔力を吸い尽くされた抜け殻同然。床に伏したまま、荒い呼吸を吐いていた。背後にいた騎士たちも、ルシアンの仕掛けた呪詛の余波を受け、物言わぬ石像と化している。
そして、ルシアン。
障壁を張り続け、精神を極限まで削り取られた男は、血に濡れた唇を震わせながら、狂信的な悦びに満ちた瞳で私を見上げていた。
「……あ、ああ……エリシア……君は、本当に……神の言葉を、その手に……」
掠れた声が、虚空に溶ける。
私は、手に取った断章を静かに閉じ、彼に歩み寄った。
ルシアンは、私が自分を救いに来たのだと信じたいのだろう。自分がこれほどまでに身を削って守った『最高傑作』が、自分に慈悲をかけてくれるのだと。
だが、彼の前に立ち止まると、感情を一切排した冷徹な瞳で見下ろした。
「ルシアン様。貴方の働きには満足しておりますわ。貴方が私の盾として機能してくださったおかげで、私は一滴の汗も流さず、この書の核に触れることができました。貴方の執着、実に役に立ちましたわ」
「……あ、はは……役に立った、か……それだけ、なのかい?」
「それ以外に、何があるというのです?」
私の声が、冷たく室内に響く。
「貴方は私を怪物に変えた。ならば、その怪物が自らの生みの親を捕食することなど、至極当然の帰結ではありませんか」
ルシアンは、低い笑い声を漏らした。
彼は、自分が私を支配しているつもりでいた。私を自分なしではいられない存在に仕立て上げ、永遠にその深淵に寄り添う権利を手に入れたのだ、と。
けれど、現実は逆だった。私は彼の知識を、地位を、そして自分への恋慕という名の執着さえも、ただの消耗品として使い潰した。
いまや彼は、私がヴァレリアの右腕へと昇り詰めるための、使い古された教本に過ぎなかったのだ。
「――けれど、ルシアン様。貴方にはまだ、使い道がございます」
私は、床に崩れた彼の顔を覗き込むようにして、静かに告げた。
「貴方の禁忌魔導は、今後も私にとって必要です。ただし、今日からそれは対価ではなく『徴発』。貴方がいつか私から逃れようとお考えになるなら、どうぞご自由に。その瞬間、先ほど貴方が張った障壁術式の残滓が、貴方が禁忌の儀式に加担した動かぬ証拠として、帝国魔導院の査問官の手に渡ります」
ルシアンの瞳から、悦びの光が消えた。
代わりに浮かんだのは、自分が作り上げた怪物に、魂の首輪を嵌められたという、凍てつく理解だった。
「……君は……本当に……」
「ご理解いただけたようで、結構です」
私は、次にカイル・フォン・エストレラ殿下へと向き直った。
殿下は泥に塗れた顔を上げ、殺意すら滲む眼差しで睨みつけてくる。
「……エリシア……貴様……この報いは、必ず受けさせてやる……我が国の軍が、この遺跡を、貴様を……」
「殿下。まだ、そのようにお元気な声を出す余裕がおありでしたら、少しだけ種明かしをいたしましょう」
私は殿下の目の前で優雅に膝をつくと、耳元で密やかに声を落とした。
「貴方がこの遺跡に持ち込んだ資料、そして殿下自らが祭壇に捧げたその血。すべては、殿下が我が国の国宝を盗み出すために、偽装工作を働いて遺跡に侵入したという、動かぬ証拠として記録させていただきました。今頃、王都では閣下が、隣国の不当な野心を弾劾するための書簡を、各国へ送っていらっしゃる頃でしょう」
「な……に……!?」
「殿下。ルシアンには首輪をつけました。彼は今後、私の手駒です。けれど殿下、貴方に差し上げるのは首輪ではございません」
私は、膝をついたまま殿下の顔を覗き込んだ。彼の瞳に映る自分の顔が、ぞっとするほど穏やかなことを、私は知っていた。
「貴方が禁忌の儀式を執り行った事実が広まれば、殿下の王位継承権は消えます。けれど、広まらなければ? 殿下はこれまで通り王位を目指すことができる。その一点だけが、貴方の命綱。そして、その綱を握っているのが誰なのか――殿下は、生涯忘れることができない」
ルシアンには鎖を。殿下には、構図を。
世界は記録と構図でできている――かつて私は、ヴァレリアの論述にそう叩き込まれた。あの日、それは世界を正しく読み解くための知恵だった。
けれど今、私はその知恵を、人を嵌め込む設計図として使っている。
その自覚が、一瞬だけ、指先を冷たくした。
殿下は、顔を真っ白に染め、言葉にならない呻き声を漏らして絶句した。
どれだけ叫ぼうと、どれだけ権威を振りかざそうと、今の彼は私が描いた構図の中で転がされる、ただの駒に過ぎない。
立ち上がり、泥に汚れたドレスの裾を翻す。
ルシアンは生かしておく。首輪をつけた獣は、野に放つより手元に置く方が賢い。
殿下も生かしておく。隣国を我が国の影響下に置くための、最高級の弱みとして。
すべてを自分の手の中に。
誰にも頼らず、誰にも分け与えず。
ただ、自らの知性と計算だけで、この禁忌の地を完全に支配した。
祭壇を後にする。
暗い回廊を歩く足音は、以前よりもずっと重く、力強かった。
遺跡の外へ出ると、霧を裂くようにして、ヴァレリアが待ち構えていた。
背後には、完璧に武装した公爵家の私兵たちが整列し、霧の中に銀色の刃を光らせている。
ヴァレリアは、馬車に寄りかかり、手にした扇をゆっくりと動かしながら、私を待っていた。
その瞳には、いつもの冷徹さの裏に、隠しきれない期待と戦慄が混じり合っている。
「……遅かったじゃない、エリシア」
私はヴァレリアの前まで歩み寄ると、手にした断章を高く掲げ、その場に跪いた。
ルシアンを衛兵に預け、泥にまみれ、それでも誰よりも気高く。
「閣下。ご報告申し上げます。遺跡の不純物を排除し、この地に眠っていた真実を、無事に回収してまいりました」
ヴァレリアは、差し出された書に一瞥をくれ――しかし、受け取らなかった。
扇をぱちりと閉じ、その切れ長の瞳で、私の目を射抜くように覗き込む。
「エリシア。その書を、あなたは『献上』するつもり?」
試されている。
ここで「はい」と答えれば、私は依然として便利な道具のままだ。閣下が手を伸ばせばいつでも取り上げられる、主人の気分次第で棄てられる持ち物。
だが、「いいえ」と答えれば――それは閣下への反逆と見なされかねない。
霧が私兵たちの鎧を濡らす音だけが、沈黙を満たしていく。ヴァレリアの背後に整列した兵士たちが、微かに剣の柄に手をかけたのが分かった。彼女が一言命じれば、この場で私の首が落ちる。
私は、一拍だけ沈黙した。
そして、跪いたまま、書を胸の前に引き寄せた。
「閣下。この書は、貴女のものです。ですが、この書の読み方は、私のものです。どうか、お受け取りくださいませ。これは献上ではなく、閣下と私の間にのみ成立する、共同の鍵でございます」
ヴァレリアの瞳が、一瞬だけ見開かれた。
扇を持つ手が微かに止まる。霧の中、二人の間に張り詰めた空気が流れた。
私兵たちの手が、さらに強く柄を握る。けれど、ヴァレリアは手を上げなかった。
代わりに、その唇が、ゆっくりと弧を描く。
「カイル・フォン・エストレラを再起不能の窮地に追い込み、ルシアンを使いこなし、自分だけの手は一切汚さずにこの書を手に入れた。そして今、私にすら条件を突きつけてみせる。エリシア、あなたは私が想像していたよりも遥かにしたたかな侍女になったわね」
その瞳には、私を便利な道具として見下していた頃の光は、もう一欠片も残っていなかった。
そこにあるのは、自分を脅かす存在に対する、最高級の敬意と、逃れられぬ共犯の予感。
「勿体なきお言葉です。すべては、閣下のお側で、この世界の崩れる音を聴かせていただくための、私の奉仕に過ぎません」
「いいわ。認めましょう。エリシア。あなたは、私の唯一無二の『影』よ。これからは、誰の目も気にすることなく、私の隣で世界を記述なさい」
「……御意にございます、閣下」
差し出された手を取り、立ち上がった。
殿下は失脚し、ルシアンは私という怪物に魂まで絡め取られ、そしてヴァレリアは、私という存在を不可欠な半身として認めざるを得なくなった。
馬車が動き出し、遺跡が朝霧の中に消えていく。
ヴァレリアの対面に座り、窓の外に広がる世界を眺めた。
一ヶ月前、泥を啜りながら見上げていた空は、今はもう、私の掌の中にある。
――満足しているはずだった。
なのに、胸の奥で何かが足りないと囁く声がある。ヴァレリアの隣では飽き足らない。この構図を描いたのは私なのだから、構図の中心に座るべきも私ではないのか。
満足げに微笑むヴァレリアの瞳の奥に、いつか自分が座るべき玉座の幻影が見える。
その幻影に手を伸ばしかけた自分の指先が、先ほど殿下の構図を描いたときと同じ冷たさを帯びていることに、私はまだ気づいていなかった。
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次話「私の影に相応しい」




