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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第2幕 最強の淑女は社交界を嗤う

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15. 魔導書奪取作戦 II

 蒼氷の廃都の最深部、真理の祭壇へと続く回廊は、静寂そのものが質量を持って肌に押し寄せてくるような、異様な圧迫感に満ちていた。


 かつて帝国の叡智を司った者たちが設計した、高度な知性と魔導の試験場。壁面に刻まれた魔導文字が、深海の発光体のように視界の端で明滅を繰り返している。


 ——その明滅に、規則性がある。


 私は歩みを緩めず、しかし視線だけを壁面に走らせた。文字の配列、点滅の間隔、光が走る方向。断片的な情報の中に、設計者の思考の癖が透けて見える。この遺跡は、力で制圧するものではない。論理で対話するものだ。


 そのとき、私の背後で、整然とした、だが確かな威圧感を伴う軍靴の音が反響した。


「そこまでだ」


 振り返ると、カイル・フォン・エストレラ殿下が数人の騎士を従え、回廊の闇から姿を現したところだった。


「ここまでの道を切り拓いてくれたことには感謝するよ、エリシア嬢。こうもうまく行くとは正直思わなかった……貴女は、私の想像以上に優秀な水先案内人だったな」


 殿下は悠然と歩を進め、私の数歩手前で足を止めた。ルシアンを一瞥し、すぐに私へと視線を戻す。


(——来た)


 泳がされていることには、とうに気づいていた。あの舞踏会の夜、殿下の視線が私の動きを追っていたこと。遺跡への道中、不自然なほど障害が少なかったこと。断片を繋ぎ合わせれば、絵は一枚しか描けない。殿下は私に道を拓かせ、最深部で横取りするつもりだったのだろう。


 でも、今はそれでよかった。


 この祭壇の封印を解くには、王家の血が要る。殿下が来なければ、私の計画は成立しない。泳がされているふりをしながら、泳がされる必要があったのだ。


 けれど——その安堵を、私は顔には出さない。


「……殿下。淑女のあとをつけるのは、紳士の振る舞いとは言えませんわよ」


 私は薄く微笑んだまま、殿下の視線を受け止めた。


「いやいや、人聞きの悪い……貴女が走り出すのを、待っていただけだ。いやしかし、この手際――想像以上だな。どうだい、エリシア嬢。私と共に、この『因果』を分かち合う気はないだろうか?」


「ご冗談を……分かち合うなどという甘い言葉、貴方の辞書には存在しないはずですわ」


 殿下の提案は、もちろん額面通りではない。この男が対等な共有を持ちかけてくるときは、相手の成果を丸ごと掠め取る算段がすでに整っているときだ。


「分かち合うと仰るのであれば、まず殿下にお力添えいただかなければなりません……この祭壇の封印には『統治者の血』と『叡智の断絶』という二つのパラドックスが組み込まれているのです……私とルシアンだけでは、この論理の輪を閉じることができませんの」


 私は、祭壇の中央に浮かぶ、無数の魔導文字が刻まれた透明な石版を指し示した。


「殿下。貴方の王家の血を、その石版の右端にある紋章に刻んでいただけませんか? それが、この遺跡が求める統治者の承認です。それさえあれば、私はこの魔導書の因果を、貴方の望む形に書き換えることができますわ」


 カイル殿下の瞳に、一瞬の警戒が走った。


 それが消えるまでの数秒間を、私は数えていた。


「……待ちたまえ。私が血を捧げることで、この祭壇の制御権が私に移る。そう解釈していいのかな?」


「ええ。統治者の血は、このシステムにとって最も高位の認証です。貴方の血が紋章に刻まれた時点で、ここで生成されるすべての成果は貴方の名の下に帰属します」


 殿下は、片眉を上げて私を見つめた。試すような、値踏みするような目。


「……貴女にとって、それは不利な取引ではないか。成果がすべて私のものになるなら、貴女の手元には何も残らない」


「いいえ。私が欲しいのは所有権ではありません。この魔導書の中身を読むことができれば、それで十分です……所有と理解は、別のものですもの」


 私の言葉が、殿下の表情を変えた。欲の深い者は、欲のない者の論理を疑えない。自分が理解できない動機は、そのまま相手の弱さに見えるからだ。


 殿下の唇に、勝利を確信した者の笑みが浮かぶ。


「……いいだろう。貴女のその渇き、私が癒してやろうじゃないか」


 カイル殿下は、自らの剣を抜き、迷いなく左の掌を切り裂いた。


 滴り落ちる王族の血。それが石版の紋章に触れた瞬間——



 遺跡全体が、脈打つような青白い光に包まれた。



 石版の魔導文字が、凄まじい速度で連鎖を始めた。文字の列が渦を巻き、祭壇の床面から天井に向かって光の柱が吹き上がる。膨れ上がる魔力の圧が空気を焼き、呼吸するだけで肺の奥が軋んだ。


「――エリシア!」


「殿下っ!!」


 ルシアンが私の前に身を出し、魔力の奔流から守ろうと障壁を張る。背後では騎士たちが殿下を守るように、剣を抜いて身構えた。


 けれど、私の目は壁面を見ていた。


 回廊で読み取った明滅のパターン。あの規則性が、今、祭壇の暴走の中にも反復している。設計者の癖だ。この遺跡は、制御不能に見える状態にも——必ず条件分岐を残す。


 光の柱の脈動を三度数え、壁面の文字列と祭壇の連鎖が同期する瞬間を捉えた。


「——『断絶の第七条件式、承認者の接続深度を表層に限定。核への直結を禁ず』」


 暴走していた古代語がぴたりと静止した。光の柱が収縮し、石版の紋章だけが殿下の血を静かに吸い込み始める。


 祭壇が、再び安定した鼓動を取り戻した。


「……今、何をした?」


 殿下の声に、初めて生々しい動揺が混じった。


「ご安心くださいませ。遺跡の安全装置が王家の魔力に過剰反応しただけですわ……殿下の血は、それほどに高貴だったということです」


 私は微笑んだ。


 石版から伸びた光の糸が、殿下の影を地面に縫い付ける。


 最初はほとんど見えないほど細い、蜘蛛の糸にも似た光。それが殿下の足元の影に触れた瞬間、影そのものが石版の色に染まり、床に焼きつくように固着した。影の輪郭がじわりと歪み、まるで地面の下から無数の指が伸びて殿下の足首を掴んでいるかのような、おぞましい形状に変わっていく。


「な……なんだ、この感覚は……エリシア嬢、いったい貴女は、何をした……!?」


 殿下の顔から余裕が消えた。


「殿下……お手元の魔導触媒(アミュレット)など、使うまでもなかったでしょう?」


 一瞬、沈黙が落ちる。


 殿下の目が見開かれる。背後の騎士たちが、密かに握りしめていた権限上書き用の触媒。成果の所有権を後から書き換えるためのその道具の存在に——私が最初から気づいていたという事実に。


「……いつから知っていた?」


「貴方がここに来た瞬間から。騎士たちの手の位置を見れば、何を隠しているかは想像がつきますもの」


 殿下の喉が、小さく鳴った。だが、これはまだ序の口だ。


「先ほどの魔力の奔流――あれは暴走などではありません。王家の血が注がれた時点で、祭壇の維持機構は貴方を永続的な魔力供給源として登録しました。あの光の奔流は、登録処理が走った証拠に過ぎません」


「……何を、言っている?」


「私が条件式で抑えたのは、暴走ではなく、登録完了の通知です。貴方に気づかれないよう、目に見える部分だけを消しました。つまり殿下……貴方はご自分が安全に制御権を得たと思った瞬間に、すでにこの祭壇の燃料として組み込まれていたのです」


 殿下の顔色が変わった。知略家の脳が、すべてを遡って再計算している。自分が安堵した、あの数秒間の意味を。


 私は、冷たい月光のような瞳で殿下を見つめ返した。


「貴方はこの遺跡が魔導書を吐き出すまで、その高貴な魔力を祭壇の燃料として捧げ続けなければなりません……動けば、貴方の身体は内側から弾け飛びますわよ?」


「おのれ……貴様……!!」


 殿下は、自らの野心が招いた檻の中で立ち尽くすことしかできなくなった。


 そして、傍らで戦慄していたルシアンへと、私は視線を向ける。


 彼の瞳は、恐怖ではなく、もっと複雑な色に染まっていた。私がカイル殿下を嵌めていく過程を、一言も聞き漏らさずに見つめていたのだから。


「ルシアン。殿下が供給するこの膨大な魔力を、貴方の術式でろ過してください……汚れなき王家の魔力は、そのままでは魔導書の核を傷つけます。貴方の執着、貴方の絶望を、その魔力の流れに混ぜ込んで……それが、私の命を守るための、最後の手立てです」


 ルシアンの唇が、かすかに震えた。そして——笑った。


「……あは、はは……エリシア。君は、どこまで僕を……君が死ぬのを見たくないなら、僕はここで、君の毒に染まり続けるしかないというわけだね」


 殿下から溢れ出す荒々しい魔力を、自らの精神を削りながら私の元へと送り届ける。ルシアンはその役割を理解し、そして——拒めなかった。


(彼の愛は、燃料として純度が高い——だからこそ、最後の一滴まで燃やし尽くせる)


 その思考に、一片の罪悪感も混じらなかった。


 二人の強大な男が、一人の平民の娘が読み解いた構図の中で、身動きを封じられている。


 私は彼らを一瞥もせず、開かれた石扉の向こう側へと歩を進めた。背後から殿下の罵倒と、ルシアンの壊れた呼吸の音が聞こえてくる。


 安置所の中心に、古びた、だが時を越えた存在感を放つ紙の束が浮かんでいる。


 『エリュシオンの断章』。


 私は、血に汚れた手を伸ばした。


 ルシアンに教わった魔導回路が、私の掌の中で脈打ち、魔導書の核と同期を始める。


 指先が、魔導書の表紙に触れる。




 その瞬間、世界が裏返った。




 数千年の叡智が、言語を持たない奔流となって私の意識にねじ込まれてくる。頭蓋の内側が灼ける。視神経の奥で、自分のものではない記憶が明滅する。


 だが、私は手を離さなかった。


 背後の祭壇では、カイル殿下の魔力が限界まで吸い出され、ルシアンの精神が焼き切れんばかりの悲鳴を上げている。


 けれど、私は止まらない。


 泥の中から這い上がり、ヴァレリアに残飯と蔑まれたあの日から、私の魂はこの瞬間のためだけに燃え続けてきたのだ。


 利用できるものは、すべて利用した。


 王子の野心も、魔導師の恋慕も。


 すべては、この一冊を手に入れるための、安価な対価に過ぎない――



 奔流が、ゆっくりと凪いでいく。



 私の掌の中で、『エリュシオンの断章』が最後の脈動を終え、沈黙した。


 私は、眩い光の中で、静かに、そして残酷に微笑んだ。


 これが、知力戦の果てに私が掴み取った、最初の『因果』だ。


 そして、これは始まりに過ぎなかった。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「勝者は私だけでいい」

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