13. 隣国王子と禁書の噂
舞踏会の喧騒がようやく遠のき、深夜の公爵邸は静謐な月光と冷たい夜風に包まれていた。
ヴァレリアは王族との非公式な会談のために奥の小部屋へと消え、私は一人、広大なテラスで主人の帰りを待っている。
手にした果実水はとうに冷め切り、グラスの表面に邸の尖塔が歪んで映っていた。
一ヶ月前、泥を啜っていた私が今、こうして公爵邸の深部で呼吸をしている。その事実を、もう疑いもしない。ルシアンに叩き込まれた知略と、骨の髄まで染み込んだ立ち居振る舞いが、私の神経をかつてないほど鋭敏に研ぎ澄ましていた。
「独りで月を眺めるには、あまりにも毒が強すぎる夜だと思わないかい。エリシア嬢」
不意に、背後から滑らかな、それでいて刃のような鋭さを秘めた声がした。
振り返るまでもない。この、自信と傲慢さに満ちた足音。隣国の第一王子、カイル・フォン・エストレラ殿下だ。
私は一分の隙もない優雅な動作で振り返ると、完璧な角度で頭を下げる。
「カイル殿下。主人の不在の折に、このような平民の侍女にお声掛けいただくとは、過分な光栄に存じます」
「侍女、ね。貴女ほどの傑物がただの侍女だというなら、この邸の使用人は怪物揃いということになるな」
カイル殿下は、私の隣でテラスの欄干に手をかけた。
視界の端でその動きを追いながら、私は周囲にさりげなく目を走らせていた。テラスの入り口に直立不動の衛兵が二名。庭園に面した回廊の暗がりに、もう一人、殿下に付き従ってきたらしい気配。ただし、ここで事が荒立つ心配はない。公爵邸の舞踏会で外交上の汚点を残す愚は犯さない方だ。
「先日は随分と派手にやってくれたものだ。我が国秘蔵の資料を偽書と断じ、ベルモンド伯爵を再起不能の絶望へ叩き落とすとは。貴女のあの手際、実に鮮やかだった」
「さて、何のことでございましょう。私は主の側に控えていただけにございますが……」
「とぼけなくていい。私があの資料をわざと持ち込んだことくらい、貴女は見抜いていたはずだ」
カイル殿下が、顔を私に寄せた。
彼の瞳の中に、反射した月光が揺れる。
「私は、あの偽書が暴かれることを前提に動いていた。ヴァレリア公女がどのような対抗手段を持っているか、それを引き出すための撒き餌だったのだよ。けれど、出てきたのは公女の策ではなく、貴女という未知の毒蛇だった。まったく、計算が狂ったものだ」
私はグラスを持つ手を僅かに上げて口元を隠し、微かに目を細めた。
撒き餌。殿下の言葉が意味するところを、私は即座に読み替えていた。
偽書を仕掛けた目的が、ヴァレリアの手札を引き出すことだったとする。であれば、殿下の本当の狙いは偽書の先にあるに違いない。単なる領土問題や資源の配分だけで、一国の王子が自ら偽書を仕立ててまで動くはずがないのだから。
となると、遺跡そのものではなく、遺跡の奥に封じられた何か。それこそが殿下の真の狙いになる。
「……殿下。そのような撒き餌までして、閣下の反応をお確かめになりたかった理由は何でしょう? 三百年前の年代記など、殿下のような賢明な方が本気で頼るはずがございません。殿下が本当にお探しなのは、あの遺跡に眠るとされる紙の束……いいえ、魔導書だったのではありませんか?」
カイル殿下の瞳が、一瞬だけ、爆発的な殺気を帯びた。
テラスの空気が凍りつく。彼は私の喉元を射抜くような視線を向け、やがて、低く笑い始めた。
「はは、素晴らしい。誰から何を教わったのか知らないが、貴女は想像以上に、この世界の深淵に近い場所に立っていたらしい」
彼はおもむろに、懐から一通の黒い封筒を取り出す。
そこには、王家の紋章ではない、奇妙な螺旋状の刻印が押されていた。
あれは――!?
その刻印を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。ルシアンの書架の奥、厳重に鍵のかけられた禁書目録。その表紙に刻まれていたのと同じ文様だったからだ。
「……虚無の環」
私の唇が、無意識に名を紡いでいた。
カイル殿下の表情が強張る。刻印を見せること自体は殿下の計算のうちだったのだろう。だが、名前まで知られているとは思っていなかったような反応だ。殿下は封筒を引き戻すように懐へ仕舞うと、初めて警戒の色を滲ませた目で私を見据えた。
「どこで、その名を?」
「殿下のご質問にお答えする前に、一つだけ確かめさせてくださいませ。その刻印が禁書目録の封蝋と同じものであるならば、殿下はただの遺跡ではなく、帝国が滅亡と引き換えに封じた書庫そのものに繋がる鍵をお持ちだということになります」
一拍の沈黙。
やがて、カイル殿下は深く息を吐き、口の端を吊り上げた。
「いいだろう。そこまで理解しているのであれば、隠す意味もない」
殿下の声が、低く、しかし確信に満ちた響きに変わる。
「伝説の魔導書『エリュシオンの断章』。帝国の崩壊と共に失われたとされる、事象の因果を書き換えるための禁忌の書。それが、国境の遺跡に封印されているという確かな情報を掴んでいる」
因果を書き換える――
その言葉の重さを、私は脳裏で転がしていた。
昨日処刑された男が最初から存在しなかったことになる。戦争そのものが起きなかった歴史に塗り替えられ、代わりに誰も予測できない別の破滅が世界を覆う。歴史書が恐怖で口を閉ざすほどの、神の領域への侵犯だ。
だが、私の思考を捉えたのは、因果の書き換えという超常の力そのものではない。
それを書き記した者がいる。
封じた者がいる。
三百年の間、その封印の在処を秘匿し続けた者たちがいる。
記録する者が、歴史を作る。秘匿する者が、権力を握る。この魔導書が恐ろしいのは、因果を操る力そのものよりも、それを記録し管理する権限が一つの手に集約されるということだ。
「……にわかには信じがたいお話ですが、殿下がこのような場でお話しになる以上、戯れではないのでしょうね」
「当然だ、エリシア嬢。ヴァレリア公女はまだ、この事実に気づいていない。彼女はあくまで、魔導資源という目に見える富のために戦っているのだからな」
カイル殿下が欄干から身を離し、一歩、私との距離を詰めた。視線が、真正面から私を射抜く。
「貴女ならわかるはずだ。その書がどちらの手に渡るかで、この大陸の次の三百年が決まるといっても過言ではない。貴女は、ヴァレリア公女の下で、一生影として飼われることに満足できるのか? 貴女のような知性、貴女のような野心。私の隣なら、影ではなく、共に歴史を記述する筆になれるのだがな」
歴史を記述する筆。
書くべきことと消すべきことを選ぶ権限。ヴァレリアが遺跡で守ろうとしている魔導資源など、その権限の前では塵に等しい。殿下の誘いは、ルシアンのそれよりも遥かに具体的で、危険なものだ。
けれど、私は冷ややかな微笑を崩さなかった。
「魅力的なお言葉に存じます。ですが殿下、恐れ入りますが、私は既にお仕えする方を決めております。殿下のお誘いがどれほど寛大であれ、侍女が二つの主を持つことは許されません。どうかお許しくださいませ」
「……ほう? それはヴァレリア公女への忠義かな。それとも、別の何かに仕えているとか――」
カイル殿下の手を、私はしなやかに退けた。
「それは、殿下ご自身の目でお確かめいただければ……」
「……くくっ。面白い」
カイル殿下は、その曖昧な答えに怒るどころか、恍惚としたような表情を見せた。
「いいだろう、エリシア嬢。貴女がその魔導書を手に入れるのが先か、私が先に貴女を檻に閉じ込めるのが先か。勝負しようじゃないか」
カイル殿下は、踵を返した。
その足音が、テラスの石畳を規則正しく叩きながら遠ざかっていく。やがて回廊の影に飲まれる直前、立ち止まることなく、一言だけが夜気を裂いた。
「忘れるな。魔導書は、最も欲深い者の呼び声にしか応えない」
それきり、足音は消えた。振り返っても、回廊の暗がりには殿下の姿も従者たちの気配も、もう何も残っていなかった。
一人残されたテラスで、私は夜空を見上げた。
魔導書。
カイル殿下が明かした情報の断片が、頭の中で一つの図を描き始めていく。
禁書目録に刻まれていたのと同じ螺旋の文様。ヴァレリアが遺跡の領有に拘る理由。殿下が偽書まで仕掛けた執念。そのすべてが、一冊の書物を中心に回っている。
記録を握る者が、歴史を書く。
歴史を書く者が、権力を握る。
ならば、その連鎖の頂点にある魔導書を手にした者が、この大陸の因果そのものを支配する。
私は、敷地の奥に聳える塔の方角に視線を向けた。
ルシアンの待つ場所。あの男の視線が、今も背中に貼りついているような感覚が一瞬も消えたことがない。師を名乗りながら、その目は常に私の値踏みをしている。そしてヴァレリアのいる邸の奥。二つの方角を、交互に見つめた。
誰も信じない。
カイル殿下の野心も、ルシアンの執着も、そしてヴァレリアの信頼も。
盤上の駒は、すべて動き出している。
私は、漆黒のドレスの裾を翻し、主人のもとへと歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございました。
もしよろしければ、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。
次話「魔導書奪取作戦 I」




