12. もう、媚びても遅い
ヴァリエール公爵邸の大舞踏会。それは、王都の貴族たちが一年のうちで最も血道を上げ、富と権力、そして美という名の序列を競い合う戦場だった。
天井から吊るされた数千のクリスタルが放つ光は、広間を埋め尽くすドレスの絹地に反射し、まるで万華鏡の中に迷い込んだかのような眩暈を誘う。空気には最高級の薔薇の香水と、隠しきれない欲望の熱が混じり合っていた。
(美とは、飾りではない。序列を刻む刃だ――そして私は今、その刃の持ち手にいる)
私は、ヴァレリアの斜め後ろに立ち、その喧騒を静かに見下ろしていた。
纏っているのは、ルシアンが深淵の真珠と名付けた、銀灰色のドレスだ。月の光をそのまま布にしたようなその衣装は、派手な装飾こそないものの、一歩歩くたびに波打つ光沢が、周囲のどんな高価な宝石よりも雄弁に持ち主の格を語っていた。
眼鏡を捨て、魔導で研ぎ澄まされた私の瞳。かつては怯えと劣等感を隠すための遮蔽物だった視線は、今や広間に集う人々の急所を瞬時に見抜く、捕食者のそれへと変わっている。
(……見なさい。これが、あなたたちが望んで止まない『美』という名の暴力よ)
階段の上から広間を見下ろすと、色とりどりのドレスが渦を巻いている。薔薇色、翡翠色、金糸を縫い込んだ深紅。どれも一着で平民の年収を超える衣装だ。だが、その華やかさは私の目には模様の異なる鱗にしか映らない。蛇が脱皮するように、季節ごとに流行の色を纏い替え、互いの序列を確認し合うだけの儀式。
私は違う。この銀灰色のドレスは流行を追ったものではない。ヴァレリアの隣に立つために、ルシアンが選び抜いた色だ。公女の深い青を引き立て、かつ埋没しない。道具には道具の装い方がある。
私が閣下と共に大階段を降り始めると、沸き立っていた広間が、潮が引くように静まり返った。
最初に変化が走ったのは、階段の直下に居た年配の伯爵夫人だった。手元の香水瓶を取り落としかけ、隣の侍女に腕を掴まれている。その視線は私の顔ではなく、私がヴァレリアの半歩後ろという定位置に立っていること――つまり、あの公女が許容する距離に、見知らぬ若い女が存在している事実そのものに向けられていた。
広間の中央では、仕立て師たちの間で今季最も話題になっているという深紅のドレスを纏った侯爵令嬢が、私と目が合った瞬間、扇で顔を隠して視線を逸らした。品定めしようとして、逆に射竦められた獣の動き。一方、奥の柱の影に立つ老公爵は、ワイングラスを口元に当てたまま微動だにしない。あの目は、驚きではない。値踏みだ。この駒は使えるか否か、既に計算を始めている。
「誰だ? 閣下の後ろにいる、あの淑女は……」
「噂では妙に切れる侍女を見つけたというが、まさかアレが――」
戸惑いと驚愕を含んだ囁きが、さざ波のように広がっていく。かつて私を汚れと呼び、泥の中へ帰れと嘲笑った者たちの顔が、一様に強張っていくのが見えた。
私はその一つひとつを、索引に書き加えるように記憶していく。誰が怯え、誰が値踏みし、誰が目を逸らしたか。閣下の道具として、この情報は必ず役に立つ。
閣下が他家の当主たちに囲まれ、社交の儀礼を始めた隙を見計らい、私はバルコニーへと続く静かな壁際へ移動した。果実水のグラスを手に取り、独りの時間を楽しもうとしたその時だ。
「――お久しぶりですわ、エリシア様。いえ、今は閣下の筆頭侍女様とお呼びすべきかしら?」
背後から、媚びるような、それでいてどこか震えた声がした。
振り返ると、そこには数人の令嬢たちが、扇を胸元で忙しなく動かしながら立っていた。
中心にいるのは、金糸の刺繍が眩しいドレスを纏った、ラヴェル子爵家の令嬢。直接何かをされた相手ではない。だが、いつの日か物陰から私を笑っていた顔の一つだ。
「……何か御用でしょうか。ラヴェル子爵令嬢」
私は、感情を排した、冷徹なまでに完璧な淑女の声音で応えた。
彼女たちの顔が一瞬で引き攣る。以前の私なら、この声だけで彼女たちを威圧することなど想像もできなかっただろう。
「あら、そんなに冷たくしないで。私、あの時のこと、ずっと気に病んでいたのよ? でも閣下のお側でこれほど華麗に変貌を遂げられるなんて、流石ですわ。ぜひ今度、お茶会で――」
「そうですわ! そのドレス、どちらのモノなのでしょう? 機会があれば、私たちと一緒に……」
次々と重なる、賞賛という名の空虚な言葉。
彼女たちの瞳にあるのは、友情でも尊敬でもない。権力者の傍に食い込んだ女の靴を舐め、自分たちの安全を確保しようという、ただの生存本能だ。
私は、手に持っていたグラスをゆっくりと口元に運んだ。
かつての私なら、この手のひら返しに吐き気を催し、徹底的に無視を決め込んだことだろう。けれど、ルシアンに叩き込まれた知略は、そんな幼稚な復讐を許さない。
最強の淑女とは、相手を同じ土俵にすら上げない者のことだ。
「……お茶会、ですか」
私は、扇を優雅に閉じた。
「皆様。私が泥を啜っていた頃、皆様は扇の陰でどのようなお顔をされていましたか? ……その記憶、私の索引からは残念ながら抹消されておりませんの――注記付きで」
令嬢たちの顔から、一気に血の気が引いていく。
「そ、それは……場の空気を壊さないための、致し方ない振る舞いで……」
「致し方ない? ……ええ、そうでしょうね。あの時も今も、皆様にとって大切なのは空気だけ」
ラヴェル子爵令嬢の目が泳ぐ。追い縋るように口が動いた。
「――だって仕方ないじゃない……あの場で平民の味方をしたら、私たちまで……」
取り繕っていた笑顔が剥がれ、その下から剥き出しの保身が覗く。
――よろしい。それが聞きたかったのだから。
「ええ、そう。仕方なかった。あの時も、今も」
私は一歩だけ、ラヴェル子爵令嬢に歩み寄った。広間の音楽に紛れて、本人たちにしか届かないように声を落とす。
「皆様は常に仕方のない側にいらっしゃる……そしてこれからも、仕方なく、私に頭を下げ続けることになるのですわ――」
彼女たちは、身動き一つ取れずに立ち尽くした。
「皆様が求める寵愛という名の椅子は、もうこの広間には残っておりません。私がすべて不要として、閣下の盤面から取り除きました。盤面から落ちた駒は、二度と戻りませんの――さあ、お下がりなさい」
「う、……ああ……」
ラヴェル子爵令嬢の手から、白い手袋の指先がほつれるほど強く握り締められた扇が、音もなく床に落ちた。
屈辱と恐怖に歪んだその顔を見る者は誰もいない。周囲の貴族たちは、一人として視線を向けなかった。助け船どころか、目を合わせることすら拒んでいる。
先ほどまで彼女と談笑していた子爵夫人が、何事もなかったかのように別の輪へ移動するのが見えた。その背中には、同情の欠片もない。この広間の秩序においては、沈む船に手を差し伸べる者こそが次の溺死者になる。誰もがそれを知っている。
取り巻きの令嬢たちも、蜘蛛の子を散らすようにしてその場から逃げ去っていく。物理的な暴力を振るわれたわけではない。ただ、自らの拠り所としていた貴族の自尊心を、自分たちが蔑んでいた平民の娘に、一言で踏み躙られたのだ。
床に落ちた扇を、誰も拾わない。やがて給仕の一人が、テーブルクロスの端で隠すようにしてそれを片付けた。まるで、最初からそこには何も――誰も存在していなかったかのように。
静寂が戻った壁際で、私は静かに果実水を飲み干した。
胸の奥に、満足に似た熱がある。けれどそれは、彼女たちを打ち負かしたことへの快感ではなかった。閣下の秩序に不要な雑音を、閣下が手を汚すまでもなく排除できた――その一点だけが、私を静かに満たしていた。
グラスの底に残った果実水の雫が、クリスタルの光を受けて揺れる。
ふと、奇妙なことに気づく。あの令嬢たちの顔が、もう思い出せない。ほんの数十秒前に目の前にあったはずの恐怖に歪んだ表情が、既に索引の中の文字列に変わっている。人の顔ではなく、処理済みの案件として。
――それでいい。道具とは、そういうものだ。
けれど、空になったグラスを見つめる私の指先が、ほんの僅かに冷たいのは、広間の空気のせいだろうか。
「手厳しいわね、エリシア」
不意に、背後からヴァレリアの声がした。
振り返ると、彼女はいつの間にか私のすぐ側に立ち、逃げ去っていく令嬢たちの背中を、退屈そうに眺めていた。
「掃除の仕方が、少しばかり雑になったのではないかしら?」
「恐れ入ります、閣下……ですが、閣下のお耳に届く前に処理するのが、道具の務めでございますから」
「ふふ……いいわ。あなたのその、容赦のない選別眼。嫌いではなくってよ」
ヴァレリアは、私の肩にそっと手を置いた。
それは、主従という枠を超えた、獲物を分け合う共犯者としての接触だった。指先から伝わるかすかな冷たさが、先ほどから胸の奥にわだかまっていた妙な温度差を上書きしていく。この冷たさこそが、私が仕えるべき秩序の温度なのだと、身体が思い出す。
「さあ、行きましょう。本物の『怪物』たちが、あなたのその牙を拝みたがっているわ」
私は、閣下の影として、再び光の渦巻く広間の中央へと戻っていった。
周囲の視線の質が、階段を降りた時とは明らかに変わっている。好奇と困惑の入り混じった視線ではない。私を獲物としてではなく、逆らうことの許されない支配者の一翼として見る目だ。壁際で起きた小さな処刑の噂は、もう広間の隅々に行き渡っているのだろう。
――ひれ伏させるなら、この世界を支配してからだ。
私は、ヴァレリアの隣で、誰よりも気高く、誰よりも残酷に微笑んだ。
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次話「隣国王子と禁書の噂」




