11. ルシアンは恋を知る
夜会の熱気を置き去りにして自室へ戻り、重厚な扉を閉めると、私はようやく深く長い息を吐き出した。
全身を締め付けていたコルセットを緩め、絹の衣擦れの音を聴きながら、宝飾品を一つずつ外していく。鏡の中にいる女は、月の光を浴びて青白く発光しているかのようだった。
眼鏡を捨て、魔術で研ぎ澄まされた瞳は、暗がりの中でもすべての輪郭を鮮明に捉える。
艶やかに整えられた黒髪、血のように赤い唇、そして何よりも――他者の人生を翻弄することを覚えた、残酷な知性の光。
(……ああ。これが、私。泥の中から生まれ変わった、私)
かつての、地下資料室の埃にまみれていた自分を思い出し、私は薄く笑った。あんな惨めな存在は、もうこの世界のどこにもいない。今の私は、ヴァレリアの懐に潜む最も鋭利な刃であり、この国の秩序という布地を切り裂くために研がれた一振りだ。
「……満足かい。図書室のネズミさん。それとも、今は『公女の刃』と呼ぶべきかな」
不意に、部屋の隅、月の光が届かない深い闇から声が響いた。
心臓が僅かに跳ねる。同時に、背筋を這い上がる冷たい気づき――寝室に施してあるという防音の結界が、一枚も鳴らなかった。あれほど精緻に編んだ術式を、痕跡すら残さず剥がせる人間は、この王都にも数えるほどしかいない。
けれど、私は動揺を見せず、ゆっくりと振り返った。
窓枠に腰掛け、長い足をぶらつかせている影。そこには、顧問魔導師のルシアンがいた。彼は手にした琥珀色の液体が入ったクリスタルグラスを揺らし、退屈そうに私を眺めている。
「ルシアン様。淑女の私室に、断りもなく侵入するのは感心いたしませんわ。それとも、魔導師の特権には不法侵入も含まれているのでしょうか?」
「特権? いや、これは単なる後見人としての仕事だよ。僕が地獄から引き摺り上げた素材が、本番の舞台でどれほど形を崩さずにいられるか……まあ、予想以上だったけれどね」
ルシアンは窓から音もなく床へ降り立つと、私に歩み寄ってきた。
乱れた漆黒の髪の間から覗く、昏い紫の瞳。その視線は、これまで私に注がれてきた教育者としての乾いた好奇心とは、明らかに異質だった。
以前の彼は、私を面白い実験動物のように見ていた。壊れるか、あるいは化けるかを楽しむ、どこか他人事のような愉悦。
けれど今、彼の手元でグラスの氷が鳴るのをやめていた。琥珀色の液面が静止している。揺らしていたはずの手が、いつの間にか止まっている。まるで、不用意に動けば何かが零れ落ちるのを怖れるかのように。
「カイル王子の偽装を暴き、ベルモンド伯爵の政治生命を粉砕した。君が放ったあの一撃、広間の空気が凍りついた瞬間の音を特等席で味わいたかったよ……実に、素晴らしかった」
その声が、最後の一語だけ微かに掠れたのを、私は聞き逃さなかった。
ルシアンは私の目の前で足を止め、細く冷たい指先を伸ばした。彼の指先が、私の剥き出しの鎖骨をなぞる。
身体が、魔術の残滓による微かな痺れを感じ、産毛が逆立った。
私は化粧台に置いてあった手袋を、一方の手で静かに取り上げる。絹の手袋を自らの指に嵌めるその仕草で、彼の指先と私の肌の間に一枚の膜が生まれた。触れさせてはいる。けれど、もはや素肌ではない。
その上で、私はゆっくりと顎を引き、彼の紫の瞳を、鏡のような無感情さで見つめ返した。
「ルシアン様……私をここまで研ぎ上げたのは、貴方です。私はただ、貴方の計算に基づいた結果を出したに過ぎません。そのように熱心に眺めていただく必要はありませんわ」
「いや、必要はあるさ」
ルシアンの声が低く落ちた。彼は一拍、沈黙した。唇が微かに開き、閉じ、もう一度開く。その間、彼の瞳が私の輪郭を辿り、最後に私の目で止まった。
「……エリシア」
名前を呼ぶ前に落ちた、あの半拍の空白。それは、これまで何十回と彼の口から聞いた私の名前とは、まるで別の重さを持っていた。
「君が成長するたびに、僕の知らない表情が増えていく。君という本をめくるのが、これほど刺激的だとは思わなかった。君は自分が今、どんな目をしているか分かっているのかい?」
ルシアンは私の耳元に顔を寄せた。彼の息が首筋にかかる。その吐息の中に、私は僅かに甘い深酒の香りと、もうひとつ――言葉にならない衝動を抑える者特有の、浅く不規則な呼吸を感じ取った。
「……君の中に眠っていたのは、ただの知性じゃない。もっとどす黒く、気高い『支配』の意思だ。君は、歴史を編纂したかったんじゃない。歴史を、自分の思うがままに塗り替えたかったんだ……ねえ、エリシア。公女の影で終わるのは勿体ないとは思わないかい?」
ルシアンの指先が、私の頬を包み込み、そのまま私の視線を自分へと固定させる。彼の瞳の奥で、何かが明滅していた。見つめるというよりも、覗き込むような、あるいは飢えた者が水面に映った光に手を伸ばすような――
「君が望むなら、僕は君にさらなる力を与えられる。禁忌の魔術、王宮を裏から操るための術、そして……」
ルシアンの唇が、そこで一度閉じた。喉仏が小さく上下する。次の言葉を飲み込もうとして、飲み込めなかったように見えた。
「……僕という魔術師の、すべてを。君なら、この国を影から動かす『怪物』になれる。だから――僕を使いなよ」
ルシアンの声が、最後だけ僅かに上ずっていた。彼自身はおそらく気づいていない。けれど私の耳は、あの地下資料室で何千もの音韻変化を記録し続けた耳だ。聞き逃すはずがなかった。
差し出された手が、微かに震えている。王都屈指の魔術師が、たかが教え子ひとりの返答を待つ間に、指先の制御を失っている。
――けれど。
私の胸の奥に灯ったのは、愛おしさでも、高揚感でもなかった。
背筋に、甘い寒気が走った。彼の吐息が触れた肌が、一瞬だけ熱を帯びる。身体が、理性より先に、彼の言葉の甘さに反応しかけた。
――違う。
私はその熱を、呼吸ひとつの間に握り潰した。指先が手袋の内側で僅かに強張ったことを、彼に悟らせてはならない。
(……ああ。ようやく、ここまで来たのね)
私は、内心で冷酷な計算を走らせていた。
この執着が深まれば、禁忌魔術の開示はあと二段階は早められる。王宮の裏帳簿への閲覧権も、彼の署名ひとつで手に入る。ヴァレリアの右腕に必要な札が、ルシアンの好意という糸を引くだけで、次々と手元に揃っていく。
彼は私の知性を愛している。けれど私はもう、知性そのものには興味がない。この頭が何冊の本を記憶できるかではなく、何人の人間を動かせるか――その問いだけが、今の私を突き動かしている。
私は、頬に添えられたルシアンの手に、自らの手袋越しの手をそっと重ねた。まるで、彼の好意を受け入れたかのような、しなやかで優雅な仕草。けれどその瞳には、一欠片の情熱も宿っていない。
「……ルシアン様。貴方のくださる力、余すことなく頂戴いたします。私が、あの氷の公女に認められ、彼女を支えるための、最高の『刃』になれるように……これからも、私を導いてくださいますか?」
ルシアンの瞳が、僅かに揺れた。
彼は、私が自分のためにその力を欲していると信じたいのだろう。けれど私の返答には、彼個人の名前が一度も含まれていなかった。力と、公女と、刃。私が口にしたのは、その三つだけだ。
「ふふ……いいよ、エリシア。君が望むなら、僕はどこまでも君の深淵に付き合おう。たとえ、その先に待っているのが、僕自身の破滅であってもね」
ルシアンは、私の手袋に包まれた手の甲に、誓いを立てるような深い口付けを落とした。
その唇が触れたのは、素肌ではなく絹の上。彼はそのことに気づいているのだろうか。気づいていて、なお構わないのだろうか。
唇を離した後も、ルシアンはしばらく私の手を放さなかった。指先が手袋の縫い目をなぞり、ようやく離れる。窓枠へ戻る彼の背中が、一度だけ振り返りかけて、振り返らなかった。闇に溶けていく寸前、彼の横顔に浮かんでいたのは、余裕でも皮肉でもない、もっと脆いものだった。
私は、その背中を冷ややかな目で見送っていた。
彼が私という刃に見惚れるほど、その刃を自ら手に取り、自分の首元へ運んでいることに気づかない。
月の光に照らされた部屋の中で、窓枠だけがルシアンの不在を示している。けれど、あの震えた指先の感触は、手袋越しにまだ微かに残っていた。
私は、淑女の仮面の下で、音もなく笑った。
次の舞台は、かつて私を嘲笑った令嬢たちが私の足元に跪く舞踏会だ。
そこにはもう、逃げ道など存在しない。
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次話「もう、媚びても遅い」




