10. 知識で貴族を裁く夜
王宮の『黄金の間』は、その名の通り、壁一面に施された金箔が数百のシャンデリアの光を反射し、視界の端々を焼き切るような輝きに満ちていた。
豪奢な装飾、高価な香料、何層にも重なる社交辞令。以前の私なら、この過剰な豊かさに圧倒されていただろう。
けれど、今の私にはわかる。
この光り輝く空間は、一歩足を踏み外せば二度と浮上できない、底なしの沼地なのだと。
私は、ヴァレリアの半歩後ろ、完璧な影として佇んでいた。
ルシアンとの地獄のような訓練を経て手に入れたのは、単なる美しい立ち居振る舞いだけではない。人々の視線の湿度、言葉の裏に隠された毒の香りを嗅ぎ分ける、捕食者の感覚だ。
「……さて、公女。そろそろ本題に入ろうではないか」
広間の中央。隣国の第一王子、カイル・フォン・エストレラ殿下が、シャンパングラスを給仕に預け、ヴァレリア閣下に向き直った。端正な顔立ちに、野心の鋭い光が宿っている。
彼らが語っているのは、国境沿いに発見された古エリュシオン期の遺跡群――『蒼氷の廃都』と呼ばれる一帯の調査権と魔導資源の分配――血を流さない領土問題だ。
「我が国の王立図書館には、古より伝わる『サン・メリアス年代記』という一級資料がある。そこには三百年以上前、あの地が我がエストレラ王家の祖によって平定され、統治が確立されたとはっきりと記されているのだよ」
カイル殿下が指を鳴らすと、側近の騎士がうやうやしく一束の羊皮紙を差し出した。
それは厳重に封印された箱から取り出された古びた写本だった。茶色く変色した縁、所々の虫食い。誰もがその時間の重みに平伏せざるを得ない代物だ。
広間に集まった貴族たちの間に、ざわめきが広がる。
もしその資料が真実であれば、我が国が主張してきた歴史的正当性は根底から覆される。ヴァレリアは略奪者になりかねない――ざわめきの中に、私の耳は変化を聴き取っていた。人々の囁きがヴァレリアの方を向いていない。大半の貴族が、すでに勝敗は決したと見なしている。
そこへ、我が国の重鎮にして有数の親隣国派、ベルモンド伯爵がこれ見よがしに溜息をついた。以前からヴァレリアの急進的な政策を疎ましく思っていた男だ。
「いやはや、カイル殿下。これほどの証拠を提示されるとは……ヴァレリア公女、貴女が提示した、あの不確かな『地政学的統計』とやらは、どうやらこの真実の前では砂の城のようですな。まあ、無理もありません。歴史という深い川の流れを理解するには、それなりの教養と家柄が必要だ……平民上がりの侍女に資料の整理を任せているようでは、真実の重みに耐えきれなかったのでしょう」
伯爵のねっとりとした、嘲笑を含んだ視線が、私の肩をなめるように通った。
周囲の令嬢たちからも、扇で隠された忍び笑いが漏れる。平民が学問を語るという構図そのものを嗤う、この世界の重力だ。一ヶ月前の私なら、その屈辱に怒りで身を震わせていただろう。
けれど、今の私は眉一つ動かさない。
ぼやけていた眼鏡を捨て、魔導で研ぎ澄まされた私の瞳には、その完璧な資料に潜む、あまりにも滑稽な綻びが見えていたからだ。
「……伯爵。私の侍女を、あまり無礼な尺度で測らないでいただきたいわ……エリシア。殿下たちにも、何か冷たいものを」
ヴァレリアは、表情を一切変えずに命じた。その声の響きに含まれた僅かな硬度を、私は瞬時に読み取る。彼女は、反撃のための弾を求めている。
「かしこまりました、閣下」
私は音もなく歩み寄り、冷えた果実水のデキャンタからグラスに液体を注いだ。透き通った一滴一滴が、広間に心地よい音を立てる。
ヴァレリアにグラスを差し出す際、香りを確かめるふりをして、彼女にだけ聞こえる声を落とした。
「……三行目、『王』という称号の誤用。および、文字の輪郭にある僅かな沈殿……ムレクス貝の染料です――」
ヴァレリアの睫毛が、僅かに揺れた。
彼女はグラスを受け取り、一口だけ口に含む。グラスの縁をなぞる指が、ほんの僅かに止まった――獲物を切り分ける前の、静かな計量だ。
「カイル殿下。その『サン・メリアス年代記』、実に興味深い資料ですわね。三百年も前、エリュシオン帝国が崩壊し、混沌の極みにあった時代に、これほど詳細な記録が残されていたとは」
「ふふ、公女にもその価値がご理解いただけたようで嬉しいよ」
「ええ、ええ。よく分かりますわ。あまりに価値がありすぎて、事実を追い越してしまったようですけれど」
ヴァレリアが、一歩、カイル殿下へと歩み寄る。
その瞬間、彼女を中心に氷の空気が広がり、カイル殿下の余裕の笑みが、僅かに硬直した。
「ですが、不思議ですわね。その年代記の記述によれば、三百年前のあの一帯は『エドワード四世王』が統治したとあります……けれど、歴史を学んだ者なら誰でも知っているはずですわね? その当時、彼の地で『王』という称号が公的に認められたのは、後の『リセッタ公会議』以降。三百年前に、彼が『王』と名乗っていれば、それは単なる僭称者であり、近隣諸国から即座に処刑されていたはずなのに」
令嬢たちの扇の動きが、止まった。先ほどまでの忍び笑いが消え、広間が困惑に呑まれている。空気の重心が、音もなく移動し始めていた。
カイル殿下の頬の筋肉が、ぴくりと跳ねる。
「そ、それは……記録者の筆が滑っただけのことだろう。些細な記述のミスにこだわるのは、公女らしくもない」
ベルモンド伯爵が慌てて割って入る。しかしその声は、先ほどの悠然とした嘲りとは似ても似つかぬ上ずった響きだった。
逃がさない。ルシアンに教わった知略は、一度噛み付いたら骨まで砕く。
「筆が滑った、ですって? 伯爵。歴史を弄ぶにしては、随分と軽薄な言い訳ね」
ヴァレリアは白い手袋の指先で、羊皮紙の端を軽く叩いた。
「さらにこの美しい紫色。三百年前、これほど深い色彩を出す染料は、この大陸には存在しなかった……エリシア。この色の正体を、伯爵に教えてあげなさい」
合図が来た。
私は至高の淑女としての礼を捧げた後、感情を排した透明な声で告げる。
「その色彩は『ムレクス貝』の染料にございます。南方の未開地でしか採れないその貴重な貝が、交易品としてこの大陸に輸入され始めたのは、せいぜい二百年前……三世紀も前の写本に、その時代の未来にしか存在しないインクが使われている――以上のことから、該当の資料は真贋ではなく、偽造だと思われます」
私の最後の一語が空気に吸い込まれた後、黄金の間から音が消えた。シャンデリアの炎が揺れる微かな音だけが、まだ時間が流れていることを証明している。
視線が、一本、また一本と、ベルモンド伯爵の背中に突き刺さっていく。
カイル殿下は、自身の手にある羊皮紙を、まるで汚らわしい虫でも見るような目で凝視した。
ベルモンド伯爵は反論を探していた。視線が泳ぎ、唇が幾度も開きかけては閉じる。「筆の滑り」という防壁はすでにヴァレリア閣下に叩き割られている――伯爵の喉から絞り出されたのは、反論ではなくただの怒号だった。
「な、……なっ……! 平民の侍女風情が、適当なことを言うな!!」
その叫びが広間に響いた瞬間、私は確信した。彼はもう、言葉を失っている。残っているのは身分という看板だけだ。
「あらあら。適当かどうか、この場で鑑定しても結構でしてよ? 伯爵……もし嘘であれば、ここで私の首をお取りください……ですが、もしこれが真実であれば、貴方は『国家反逆の偽造に加担した罪』を、どう償われるおつもりかしら?」
ヴァレリアの冷徹な言葉が、刃となってベルモンド伯爵の喉元に突きつけられる。彼は何か言いかけたが、ヴァレリアの氷の視線に射抜かれて、音にならぬまま潰えた。
縋るようにカイル殿下へ目を向けるが、殿下はすでに彼を視界に入れていない。
「……公女、貴女の侍女は、私の目の曇りを払えるほどに有能だったというわけか……この資料は、我が国の臣下がどこからか掴まされてきたものだろう……失礼した。調査はやり直させてもらおう」
カイル殿下の声は平静を装っていたが、その顎の筋が一瞬だけ引き攣るのを、私の目は捉えていた。資料を乱暴に側近に預け、背を向ける。
後に残されたのは、一介の侍女の指摘によって立場を失ってしまった伯爵の、惨めな背中だけだった。
「……公女殿下、私は……私はただ……」
「見苦しいわね……エリシア、掃除を続けましょうか。ここにはまだ、汚れた塵が残っているようですもの」
ヴァレリアは、ベルモンド伯爵を一瞥することすらなく、再び私の前を歩き出す。
私は深々と一礼し、伯爵の横を通り過ぎる。誰にも見えないほど僅かに口角を上げ、引導を渡すような眼差しを投げかけた。
かつて私を嘲笑った男の、絶望に満ちた顔。
その光景は、どんな極上のワインよりも、私の心を甘美に潤した。
――ふと、奇妙なことを思った。
あの写本。もし本物であったなら、古エリュシオン期の実態を解明する手がかりになり得た。かつての私なら、偽造を暴いた後にこそ、そこに埋もれた真実の欠片を拾い上げようとしただろう。
けれど今日の私は、そうしなかった。あの写本の嘘が、伯爵を打ち砕く弾丸として機能した瞬間に、興味を失った。
……いつから、知識はこういう使い方をするものになったのだろう。
その問いは、広間を満たし始めた拍手の音にかき消された。
最初の一つは、どこからともなく鳴った。遅れて二つ、三つ。やがて黄金の間は、波紋のような手の音に満たされていく。
それは称賛ではない。処刑の執行を確認するための合図だ。
伯爵はまだその場に立っていた。けれどもう、社交界の輪郭から削り落とされていた。
拍手と感嘆の囁きが広がる中、私は再びヴァレリアの影へと戻る。
主人が勝つための道筋を完璧に整え、決定打を主人に委ねる。それが、ルシアンが教えてくれた、世界を裏側から掌握するためのやり方だ。
「……今日はよく働いてくれるわね。報酬は何がいいかしら? エリシア」
ヴァレリアが、小声で囁いた。その声には、主従関係を超えた奇妙な高揚感が宿っている。
「滅相もございません……閣下のお側で、この世界の『崩れる音』を聴かせていただけること。それが私にとって、何よりの報酬でございます」
私は、暗闇の中で満足げにこちらを見つめるルシアンの視線を感じながら、さらなる深い闇へと足を踏み出す決意を固めていた。
読んでいただき、ありがとうございました。
もしよろしければ、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。
次話「ルシアンは恋を知る」




