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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第1幕 憧れは屈辱から始まる

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1. 氷の公女の推薦状

いつもの異世界恋愛では、物足りなくなった貴女へ――

 湿った羊皮紙と、鼻を突く古いインクの匂い。王立図書館の最下層にある地下資料室は、日の光すら届かない()()()()だ。


 天井まで届く本棚に囲まれたこの場所だけが、唯一、私に呼吸を許される空間だった。


「……やはり、第三王朝期の穀物収穫量は、既存の文献と徴税記録に大きな乖離があるわね」


 小さなランプの明かりの下、私は羽ペンを走らせる。


 地方領主たちが中央に送った報告書と、当時の気候変動、そして残された備蓄庫の規模。これらを照らし合わせれば、当時の王宮がいかに地方の不正を見逃し、虚飾の繁栄に浸っていたかが透けて見えた。


 この矛盾を、まだ誰も論文にしていない。百年以上も放置された数字の嘘が、今ここで、私の手の中でほどけようとしている。


 ——身体の芯が熱い。ランプの油が尽きかけていることにも、指先がインクで黒く染まっていることにも、とうに気づかないふりをしていた。


 平民の私には、この研究を発表する場がない。それでもペンを止める気にはなれなかった。真実は、門戸が開かれるのを待ってはくれないのだから。


 ふと、天井の隙間から微かな振動が伝わってくる。


 今日は王宮で、隣国の使節団を迎える大夜会が開かれているはずだ。


 羽ペンを置き、天井を見上げた。染みだらけの石天井の向こうでは、絹の擦れる音、無意味な賛辞、中身のない笑い声が渦巻いているのだろう。あの場にいる誰一人として、自国の徴税記録に百年分の嘘が眠っていることを知りもしない。


「……輝いているのは衣装だけ。中身は、空っぽのまま」


 私は無意識に、厚手の眼鏡を押し上げる。



 私の名前はエリシア。


 平民でありながら、この国の歴史を正しく編纂し直すことを夢見る『図書室のネズミ』だ。



 ランプの油が、ちり、と音を立てて揺れる。


 私はそこで手を止め、机の端に積んだ帳簿の束に目を落とした。先月、徴税記録の照合のために地下書庫を漁っていた時に、偶然見つけた別の数字。


 過去十年間に王立歴史編纂所が採用した研究員の一覧と、その出自。


 百二十三名。うち平民出身は、わずか四名。


 しかもその四名すべてに、一つの共通点がある。


 ——高位貴族の『推薦状』。


 この国では、どれほど真実を見抜く目があろうと、有力者の署名という免罪符がなければ、土俵に上がることすら許されない。数字がそう告げていた。冷たく、残酷に、例外なく。


 かつて、私は意を決して王立歴史編纂所の門を叩いたことがある。自ら書き上げた論文を手に、震える足で。


 だが、窓口に座っていた小太りの役人は、私の差し出した論文に目を通すことすらしなかった。


『平民? ……推薦状は? ……ない? ふぅん、では学問ごっこは家でどうぞ。歴史とは、高貴なる血筋が紡ぐもの。君のような小娘が触れていい聖域ではないのだよ』


 あの時の、男の脂ぎった顔と、周囲の衛兵たちの薄笑い。握りしめた論文がくしゃりと音を立てた時の屈辱は、今も胸の奥で燻り続けている。


 帰り道、私は一度も泣かなかった。泣く代わりに、あの男の鼻の脂の量と、衛兵の靴底の減り方を記憶していく。観察し、記録する——それが私の抵抗であり、唯一の武器だから。


 歴史とは、勝者の都合で書き換えられた物語だ。しかし、数字と事実は嘘をつかない——私がペンを握るのは、それを証明するためだ。


「……だから、その『免罪符』を手に入れなければならない」


 百二十三名中、四名。そのうち三名の推薦者は、すでに引退しているか、世を去っている。


 残る一名の推薦者——その名前を、私は何度も帳簿の上でなぞっていた。



 氷の公女、ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエール。



 現国王の姪であり、若くして北方の領地を立て直した才女。気に入らない貴族を容赦なく切り捨て、王宮の派閥争いすら凍りつかせたという逸話の持ち主。


(まるで、物語に登場する悪役令嬢みたいな方ね――)


 だが私が欲しいのは物語ではない。彼女の推薦状は、学術界においてはいかなる権威をも凌駕する、いわば黄金の鍵そのものだ。それさえあれば、いかなる門番も私を拒めない。


 数日後。私はヴァレリア公女の侍女選考へと向かう。


  地下資料室のランプを消した時、指先がわずかに震えた——ようやく、この墓場から続く階段を見つけたのだ。たとえその先が茨の道であったとしても、この場で腐るよりはずっとマシだと私は信じて疑わなかった。




 ◆◇◆




 公爵邸の待合室は、香水の香りと、けばけばしい扇の羽音で満ちていた。


 集まっているのは、平民とはいえ裕福な商家や、没落寸前の下級貴族の娘たち。彼女たちは公女の側近という地位を手に入れ、有力な婚姻への足がかりにしようと必死だった。


「あら、見て。あの格好……」


「どこからかネズミが迷い込んだのかしら? 眼鏡に、その野暮ったい群青色のワンピース。染みの一つも付いていそう」


 扇に隠された唇から漏れる、嘲笑。


 発信源は、一際派手なピンク色のドレスを纏った令嬢。彼女は今もっとも流行しているという『南国の果実』を模した香水をぷんぷんと漂わせ、手入れされた爪を誇示するように動かしている。


 流行には興味がない。だが、この香水が南方交易路の独占権と結びついている事実なら、記憶しておいて損はなかった。


「ねえ、あなた。知ってるかしら? 公女殿下は『知性ある侍女』をお求めだそうよ。あなたには難しいかもしれないけれど」


 別の令嬢が、親切そうな声で話しかけてくる。その目元に善意の欠片はない。


「ありがとう。ところで、その知性ある侍女の話——出典はどちら? 先月の社交新聞なら、あれは公爵家の広報官が流した表向きの文言よ。実際の選考条件は非公開。つまりあなたは、公女殿下を理解しているつもりで、読まされた台本を暗唱しているだけね」


 令嬢の頬が引きつった。


 周囲の空気が、一瞬だけ凍る。


「な……っ、偉そうに! 平民のくせして――」


「偉そうに聞こえたなら、ごめんなさい。でも、事実を言っただけだから」


 私は手元の鞄から筆記具を出し、メモ帳に何事かを書きつける。実際に書いたのは今朝の朝食の内容だったが、令嬢たちは「何を記録されたのか」と怯えた目を交わし始めた。


(……この程度の連中が、公女殿下に仕えようと?)


 滑稽だ。彼女たちが必死に追いかけている公女の好みは、誰かの伝聞の伝聞に過ぎない。一次資料に当たる習慣すらない人間が、世界最高峰の才女の側に立とうというのだから。


 やがて、重厚な扉が開く。


「——次、エリシア。入りなさい」


 冷徹な声が響き、待合室の空気が張りつめる。


 私は背筋を伸ばし、一歩を踏み出す。背後で「不合格に決まっているわ」という囁きが聞こえたが、扉の閉まる音に掻き消された。



 案内された執務室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。


 部屋の中央、巨大な黒檀の机の向こうに、公女――ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールは座っていた。


 (あれが、私の未来を握る(ひと)


 透き通るような銀髪が肩に流れ、すべてを見透かすような、冷たく深い青の瞳。その奥にある知性の密度を、私は一目で感じ取った。


 今まで出会ってきた『絹の脳みそ』たちとは、格が違う。


 彼女の視線は、私の外見を値踏みしているのではない。私の本質を、まるで解剖台に乗せるかのように剥き出しにしようとしているような気がした。


「あなたが、エリシアね」


 公女の声は、鋭い氷柱のように胸に突き刺さった。


「志願理由は『公女殿下への心酔』と『至高の教育を仰ぐため』……随分と、使い古された嘘を並べたものね」


 彼女は私の願書を、ゴミを捨てるように机に放り出す。


 それから、ほんの一瞬——彼女の視線が、私の右手に留まった。


 中指と薬指の間に刻まれたペンだこ。爪の際に残る、洗っても落ちきらないインクの染み。


 ヴァレリアの目がそれらを読み取る。何も言わない。ただ、唇の端がわずかに動いた。何かを確認したような、小さな動き。


 私は一瞬、鼓動が跳ねるのを感じたが、すぐに冷笑を内側に押し隠す。


「左様でございますか。では、真実を申し上げましょうか?」


「……退屈な嘘は、私の時間を奪う罪と心得なさい」


 私は、彼女の瞳を真正面から見据えた。


「私は、あなたの『推薦状』を買いに来ました。あなたが求める道具として完璧に働く代わりに、私の未来への通行証を頂きたい。それが、この場に私が立っている唯一の目的です」


 沈黙が流れる。


 ヴァレリア公女の青い瞳に、わずかな温度の変化が生じる。それは驚きではない。獲物を前にした捕食者のような、昏い光だった。


 彼女はゆっくりと立ち上がり、私に歩み寄ってくる。


 気高い、だが温もりのない冷涼な香りが私を包み込んだ。


 ヴァレリアは私の目の前で足を止めると、細く白い指先で、群青色のワンピースの襟元に触れた。


「……この、青」


 心臓が、一拍だけ不規則に鳴る。


 この服を選んだのは、染料が一番安かったからではない。書庫で読んだ古代の文献に、学者たちが群青の衣を纏ったという記述がある。知性の色。真理を追う者の色——そう、自分で決めた色だった。


 だがヴァレリアの指が襟に触れている今、その『自分で決めた』という確信が、なぜかひどく脆いものに感じられる。


 公女は、私の動揺を楽しむように一拍置いてから、口を開いた。


「面白いわ。その傲慢さが、いつまで持つかしらね」


 指先が襟元から離れた。冷涼な香りが遠のき、彼女は机に戻る。


 そして、一枚の書類を私の前に差し出した。


「明朝、この屋敷に来なさい。持ち物は不要よ——あなたが道具を名乗るなら、まずその使い方を、私が決めてあげるから」


 仮採用の通知書だった。


 しかしヴァレリアの声には、祝福の響きなど微塵もない。まるで罠の入り口を自ら開けた獲物に「どうぞ」と囁くような——そんな、底の見えない微笑みを浮かべていた。


「……ありがたく拝命いたします」


 私は通知書を受け取り、一礼する。背中に突き刺さる視線が、扉を閉めるまで離れなかった。



 廊下に出ると、待合室から聞こえていたはずの喧噪が、やけに遠い。


 手が震えている。寒さではない。あの部屋で、私は確かに値踏みされていた。ペンだこも、インクの染みも、この群青色も——すべてを読まれ、計量され、そして「面白い」と棚に並べられる。


 だが、構わない。

 利用するのは、こちらなのだから。


(——好きに値踏みすればいい、ヴァレリア。あなたの署名さえ手に入れば、私はこの場所を踏み台にして消えてやるんだから)


 公爵邸の門を出ると、夕暮れの空が群青色に染まっている。その青があの瞳と重なって、頭から離れなかった。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「踏み台にするつもりでした」

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