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甘い支配と理性の境界線

作者: 328
掲載日:2026/02/14


 社長室のドアをノックし、返事を待たずに入る。

 それが俺の仕事だ。


「失礼します。

 資料をお届けに……。」


 言葉が止まった。


 社長室のソファー。

 そこに、彼女は仰向けで寝転んでいた。


「遅いわよ、秘書くん。」


 そして。


「はい。

 ハッピー、バレンタイン。」


 ハート形のチョコレートを細い指でつまみ、わざと見せつけるように、柔らかな唇に咥える。


 視線は、まっすぐこちらを捉えたまま。

 

 ……これは明らかに誘ってる。

 完全に。


 俺は一瞬だけ目を細めたが、動揺はしない。

 少なくとも、表面上は。


「……業務中ですが。」


「知ってる。」


 くす、と楽しそうに笑う声。


 なるほど。今日はそういう日か。

 

「随分と斬新な渡し方ですね。」


「普通じゃつまらないでしょう?」


 社長はくすくす笑う。

 目が獲物を見つけた猫みたいだ。


「どうするの?」


 社長の挑発。

 俺がどう出るか、試している目だ。


 俺が理性を保てるか。

 それとも、崩れるか。


 だが、甘く見られては困る。


 女慣れはしている。

 場の空気も読める。

 動揺は、見せない。


 俺はネクタイを緩めもせず、静かにソファーの横に膝をつく。


「では、いただきます。」


 膝をつき、距離を詰める。


 社長の呼吸がわずかに乱れるのが分かった。


 チョコに触れる寸前、視線を絡める。


「逃げませんよね?」


「逃げるのはあなたでしょう?」


 社長の瞳が、期待で揺れた。


 笑っている。

 完全に楽しんでいる。


 なら……。


 俺は迷わず、唇からチョコを奪った。

 その瞬間、わざと少しだけ社長の唇に触れる。


 ほんの一瞬。

 柔らかい感触。


 甘さよりも先に、体温が伝わる。

 チョコを口に含み、ゆっくりと離れる。


「……甘いですね。」


 平然と告げるが、心臓はうるさい。

 鼓動が、喉元まで跳ね上がっている。


「それだけ?」


 余裕たっぷりの笑み。

 挑発的な目。


 …煽られている。


 理性が軋む。

 だが、そこで終わらせない。


 俺は一瞬だけ視線を落とし、もう一度顔を近づけた。


「……まだ、残っています。」


 今度は言い訳なしに、唇へ。

 深くはない。

 だが、確実に意図を持った口づけ。


 甘さを拭うように。

 ほんの短いキス。


 離れたあとも、視線は外さない。


「こちらも甘いですね。」


 社長の頬が、わずかに赤い。


 ――勝った、か?


 いや。

 次の瞬間。


「ほんと、最高ッ。」


 社長が笑う。

 心底楽しそうに。


「冷静な顔して、耳まで真っ赤。」


 ……バレていた。

 触れられた耳が熱い。


「秘書くん、あなたのそういうとこ、好きよ。」


 鼓動が爆発しそうだ。


「余裕そうな顔、やめなさい。」


 社長の指が、俺のネクタイを掴む。


「余裕など……。」


 本当は心臓が壊れそうだ。

 鼓動が耳に響く。


 彼女の体温が近すぎる。

 でも……。


「業務に戻ります、社長。」


 それでも俺は、秘書としての姿勢を崩さない。


「逃げるの?」


 俺は笑う社長の手首をそっと掴み、ソファーに押し戻した。


 立場が一瞬、逆転する。


「煽ったのは、社長ですよ?」


 覆いかぶさるように影を落とす。


 社長の頬がわずかに赤い。

 それでも笑う。


「もっと動揺すると思ったのに。」


「しています。」


 即答。

 彼女の目が見開かれる。


「ですが……。」


 耳元に顔を寄せ、低く囁く。


「それを見せるほど、子どもではありません。」


 社長の喉が小さく鳴る。

 楽しそうだった表情が、ほんの少しだけ揺らぐ。


 ……今だ!


 俺は最後に軽く唇を重ね、離れる。


「業務に戻りましょう、社長。」


 立ち上がり、ジャケットを整える。


 完璧な秘書の顔。


「……秘書くん。」


 呼び止められる。


「何か私に言うことは?」


 振り返る。


「チョコレート、今年もありがとうございました。

 あと……来年もいただけると嬉しいです。」


 微笑んで、ドアへ向かう。


 閉めた瞬間、深く息を吐く。

 手が震えている。


 あの距離、あの体温、あの視線。

 ……理性、ギリギリだった。


 でも。


 社長室の中から、小さな笑い声が聞こえた。


「ほんと、最高っ!」


 きっと今、彼女は満足そうに笑っている。

 完全に遊ばれている。


 ……それでも。


 来年も、受けて立つ。

 今度は、もっと……!


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