甘い支配と理性の境界線
社長室のドアをノックし、返事を待たずに入る。
それが俺の仕事だ。
「失礼します。
資料をお届けに……。」
言葉が止まった。
社長室のソファー。
そこに、彼女は仰向けで寝転んでいた。
「遅いわよ、秘書くん。」
そして。
「はい。
ハッピー、バレンタイン。」
ハート形のチョコレートを細い指でつまみ、わざと見せつけるように、柔らかな唇に咥える。
視線は、まっすぐこちらを捉えたまま。
……これは明らかに誘ってる。
完全に。
俺は一瞬だけ目を細めたが、動揺はしない。
少なくとも、表面上は。
「……業務中ですが。」
「知ってる。」
くす、と楽しそうに笑う声。
なるほど。今日はそういう日か。
「随分と斬新な渡し方ですね。」
「普通じゃつまらないでしょう?」
社長はくすくす笑う。
目が獲物を見つけた猫みたいだ。
「どうするの?」
社長の挑発。
俺がどう出るか、試している目だ。
俺が理性を保てるか。
それとも、崩れるか。
だが、甘く見られては困る。
女慣れはしている。
場の空気も読める。
動揺は、見せない。
俺はネクタイを緩めもせず、静かにソファーの横に膝をつく。
「では、いただきます。」
膝をつき、距離を詰める。
社長の呼吸がわずかに乱れるのが分かった。
チョコに触れる寸前、視線を絡める。
「逃げませんよね?」
「逃げるのはあなたでしょう?」
社長の瞳が、期待で揺れた。
笑っている。
完全に楽しんでいる。
なら……。
俺は迷わず、唇からチョコを奪った。
その瞬間、わざと少しだけ社長の唇に触れる。
ほんの一瞬。
柔らかい感触。
甘さよりも先に、体温が伝わる。
チョコを口に含み、ゆっくりと離れる。
「……甘いですね。」
平然と告げるが、心臓はうるさい。
鼓動が、喉元まで跳ね上がっている。
「それだけ?」
余裕たっぷりの笑み。
挑発的な目。
…煽られている。
理性が軋む。
だが、そこで終わらせない。
俺は一瞬だけ視線を落とし、もう一度顔を近づけた。
「……まだ、残っています。」
今度は言い訳なしに、唇へ。
深くはない。
だが、確実に意図を持った口づけ。
甘さを拭うように。
ほんの短いキス。
離れたあとも、視線は外さない。
「こちらも甘いですね。」
社長の頬が、わずかに赤い。
――勝った、か?
いや。
次の瞬間。
「ほんと、最高ッ。」
社長が笑う。
心底楽しそうに。
「冷静な顔して、耳まで真っ赤。」
……バレていた。
触れられた耳が熱い。
「秘書くん、あなたのそういうとこ、好きよ。」
鼓動が爆発しそうだ。
「余裕そうな顔、やめなさい。」
社長の指が、俺のネクタイを掴む。
「余裕など……。」
本当は心臓が壊れそうだ。
鼓動が耳に響く。
彼女の体温が近すぎる。
でも……。
「業務に戻ります、社長。」
それでも俺は、秘書としての姿勢を崩さない。
「逃げるの?」
俺は笑う社長の手首をそっと掴み、ソファーに押し戻した。
立場が一瞬、逆転する。
「煽ったのは、社長ですよ?」
覆いかぶさるように影を落とす。
社長の頬がわずかに赤い。
それでも笑う。
「もっと動揺すると思ったのに。」
「しています。」
即答。
彼女の目が見開かれる。
「ですが……。」
耳元に顔を寄せ、低く囁く。
「それを見せるほど、子どもではありません。」
社長の喉が小さく鳴る。
楽しそうだった表情が、ほんの少しだけ揺らぐ。
……今だ!
俺は最後に軽く唇を重ね、離れる。
「業務に戻りましょう、社長。」
立ち上がり、ジャケットを整える。
完璧な秘書の顔。
「……秘書くん。」
呼び止められる。
「何か私に言うことは?」
振り返る。
「チョコレート、今年もありがとうございました。
あと……来年もいただけると嬉しいです。」
微笑んで、ドアへ向かう。
閉めた瞬間、深く息を吐く。
手が震えている。
あの距離、あの体温、あの視線。
……理性、ギリギリだった。
でも。
社長室の中から、小さな笑い声が聞こえた。
「ほんと、最高っ!」
きっと今、彼女は満足そうに笑っている。
完全に遊ばれている。
……それでも。
来年も、受けて立つ。
今度は、もっと……!




